2011年2月28日月曜日
正しい言葉、正しい想念
よく私が読ませて頂いているブログに伊勢白山道さんのがあります。
本日の話しは、良寛さんについてで、とてもいい話しだなぁと思いました↓
伊勢白山道ブログ:見ているようで見ていません
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/388075ceeb453aeb12b225acdde36370
良寛さんは「良い言葉しか発しない」という誓いを立てていたそうで、
常日頃から良い言葉、思いやりのある優しい言葉を使っていたそうです。
ブッダは、悟りに至るための方法として、
八正道というのを説きました。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
の八つですが、
私が仏教を勉強をしていた頃は、
正しい見解、正しい思い、、、
ハイ、ハイ、正しい、正しい、そのトーリ、そのトーリ、
それゃそこまで正しいづくめで生活していたら悟れちゃうでしょうね、、
ってな感じで、自分の実生活とはあまり絡めて考えていませんでした。
しかし、いまではブッダの説いたこの八正道、かなりの重みをもって受け止めています。
まさにその通りだな、と。
正しい言葉についても、私は常に気をつけるようにしています。
人の批判をしたりしない、
普段からなるべくプラスの言葉を発するように心がけています。
当ブログでも、批判のような類のことは書かないように気をつけています。
そして当然この「正しい言葉」とも関係してくるのですが、
もっとも大切なのが正思惟(=正しい思い、正しい考え)だと私は常々感じます。
自分の思考なんて、自分の頭の中だけのことであって、
そんなの何を考えようが自由じゃん、、
と、若かりし日(?)は思っていましたが、実はそうではないのであります。
キリストは、
悪事をたとえ頭で思い浮かべた事であっても、それはやったことと同じである
ということを言ったそうですが、
まさにその通りなのであります。
思考というのは、実行しないまでも、ものスゴイ力をもって、他者、そして自分に影響を与えているのです。
そんなことをつゆ知らず生きていた若かりし日の私は、数々の失敗をしました。
(今でも失敗しているかもな、、、なんとも、、、)
現在の科学(のレベル)では、個人の思考が外界に影響を与えるなどという事は、一笑に付されるかもしれません。
しかし、この正思惟は、いくら強調してもしすぎることはありません。
ひとつ例を挙げるなら、、、
かつて宜保愛子さんという霊能者がいらっしゃいました。
彼女が述べていたエピソードなのですが、
宜保さんの友人だったか、男女関係でこじれ、分かれた相手を恨み、
相手の写真の足の所を毎日カッターで切りつけていたそうです。
宜保さんは、そんなことはよしなさい、と再三注意したそうなのですが、彼女は一向にやめなかったそうです。
しかしその彼女があるとき、電車に乗ろうとして、ふと前をみると、かつて分かれた相手が足に包帯を巻いて松葉づえをついて降りて来たのでした。
その足は、彼女が毎日カッターを当てていた方の足だったそうです。
それをみて彼女は、ハッとして、自分のしてきたことの重大さに気付いたというものでした。
これはとても極端な例ですが、大なり小なりこういうことは起こるのです。私も嫌というほど実感してきました。
本当に、正しい思考というのは大切です。
では、何をもって正しい思考とするのか?
それはそのひと、その人、それぞれによって違うと思います。
それぞれの良心の基準に従った正しい思考というものを心がけるべきだと思います。
何を考えようが自由なのではなく、思考というのはとてつもない力をもっているのです。
この自由意志こそ、大日如来をたたえる光明真言
オーム、アモーガ、ヴァイローチャナ、マハームドラ、
マニ、パドマ、ジュバラ、プラバリタヤ、フーン
またチベット人がよく唱える
オム マニ ペメ(パドマ) フーン
の中のマニ宝珠であり、誰でもが与えられている世界を創造する自由意志=力なのだと私は思います。
(パドマ=ハス・慈悲の象徴、ジュバラ=光)
先日ピーター・ドラッカーの言葉の中に自由に関するものがありましたが、
まさに彼が説くように
自由とは、選択の責任である
ということなのだと思います。重いですね。
しかし、逆に言うと、
想念を正しい方向で使った時には、自分や他者に対するその効果は絶大であるともいえるでしょう。
~に祝福がもたらされるように
というような、思いやりのある正しい祈りというのはその典型ではないかと思います。
自分のできる範囲内で、
正しい言葉、正しい思考に気をつけたいと思います。
余談ですが、お釈迦さん関連で、、、
私は最近、お釈迦さんが説法の途中、黙って手に持った華をくるっと回してみせると、
それを見ていた弟子がおーーっと気づきを得て笑ったというエピソードを思い浮かべます。
この話しが事実であったかどうかは別として、
もし仮にお釈迦さんが手にした華を示すことで何かを伝えようとしたとするなら、それは何だったのか?
おそらく、お釈迦さんはその一つの華に様々な意味を持たせてはいたのでしょうが、
最近思うのは、そのひとつは、ひっくり返る、見方が逆転するということではないか、ということです。
華が蕾の状態から、表と裏が逆になって、ばぁーーっと咲いている状態というのは、
即ち、悟りの状態というのが、自分というのがあって世界があるのではなく、
自分が世界になってしまうというか、今までの認識が裏返って、
世界から今までの体をもった自分をみるという感じなのではないかと想像するのです。
ザ・フライという映画で、物質転送装置でサルを送った所、
体の裏と表が逆になって送られてしまった、、という映像がありましたが、
それに近いものがあって、
とにかく認識が転倒してしまう、まったく逆転してしまう
ということを示そうとしたのではないか、
それが般若心経に書かれている
遠離一切転倒夢想(逆転して、夢見ている状態を離れた状態)
ということではないのか、、
となぜかそのようなイメージが時に頭の中に浮かんでくる今日この頃なのであります。
そしてそうやって、イッテしまった人というのは、おそらくもう元には戻れないだろうな、という気がします。
映画マトリックスで、シロップを舐めて真実を知ってしまった人が、もう元の虚構の世界にはもどれないように、、、。
なんだか、話しが色々と膨らんでしまいましたが、
正しい言葉、正しい思考に気をつけたい、ということであります。
おしまい
参考:
伊勢白山道ブログ:見ているようで見ていません
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/388075ceeb453aeb12b225acdde36370
ウィキペディア:
八正道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
拈華微笑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%88%E8%8F%AF%E5%BE%AE%E7%AC%91
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