2012年10月13日土曜日
町内会の班長
今年度から私は町内会の班長をやっています。
年度初めには、町内会費の徴収や赤十字の寄付金集めなどがあり、
普段は、回覧版や各戸に町内会のお知らせの配布などの仕事があります。
10月に入って、赤い羽根募金始まり、また町内会の家を一軒ずつまわっています。
お金を徴収してまわっているのに、
あら~、スミマセン、有難うございます、御苦労さまです、
などと各家庭ごとにお礼を言われてしまいます。
町内会の方々は、長年この町内会に住んでいる方が多く、その多くはリタイアされていて、ご高齢の家庭も多いようです。
班長の仕事がたいへんなのは皆さん充分御承知のようで、
若いのに(?)、すみませんね~、
お仕事あるのに大変でしょ~
などと言って頂いて、
ホントはこんな仕事はかったるくて、疲れると思うのですが、
町内をまわって一仕事(?)してくると、なんだか元気になってるんですよね、ホント。
感謝のシャワーを浴びるというか。とにかく心地いいのです。
人は、相手に感謝の気持ちをもっているとき、白い光を相手に放射しているような気がします。
その気をうけて元気になるような気がするんですね。
町内会のあるお宅には、88歳になるおばあさんが一人で住んでおられるのですが、
頭がとてもはっきりしていて、普通の60代のおばさんと話しているように、打てば響くというか、会話がどんどん弾むんですね。
スゴイ方です。ただ、体はだいぶ弱っているとおっしゃっていましたが。
話しの内容は、近所のことやら、お金はどう使うのがいいとか、その方の長年の体験談などが聞けて面白いのです。
私は近所のどこの歯医者がいいとか、色々と有用な近隣情報が得られてとても為になりました。
最初は町内会の仕事なんかめんどっちぃなぁーと思っていたのですが、やってみると意外と楽しいものです。
さて、私は家の前の砂利の所に、ふとんを広げて干しているのですが、どうやら近所のひとによく見られているようで、
あ、あすこの砂利の上に布団干してる所でしょ、まめね~
などと、褒められてるのか、けなされてるのか(笑)、
とにかく、近所では「砂利の上に布団を干しているひと」と認識されているようです(笑)。町内会をまわってかなりの人からいわれました。
先日のこと、職場にひょんなことから近所の自営業の方がいらっしゃっていて、
私は先方をまったく存知あげてなかったのですが、向こうからニコニコして、
あら~、あなた、よく自転車乗ってるでしょ、
と話しかけてこられたのです。
うち、近所なのよ、あの公園の向かいの、、、
と。ああ~、あそこですか~
といういうと、
あなた、あそこでしょ。砂利の上に布団干しているところの、
と。私は、そうなんです~、と思わず笑ってしまいました。
その方は、町内会の他の斑の方なのですが、どうやら他の班でも
「砂利の上に布団を干しているひと」
として知られているようなのです(笑)。
私は一気に布団の片面全部を日に干せること、
砂利の上なら土の上でないので汚れがつくこともないと、あまり気にせず布団を干しちゃうのですが、
ふつうの日本人の感覚だと、奇異に映るようなのです。
でもこれはキレイ、汚いという問題ではなく、ある意味思い込みの問題なんですね。
たとえば文化人類学では、けがれというテーマがあります。
ジプシーの人たちは、ハリネズミをキレイな動物、ネコを不浄な動物とするのですが、
それは体外と体内の境界をはっきりさせているからなのだそうです。
つまり、ネコは毛づくろいなどで舌で自分の毛をぺろぺろなめますが、ハリネズミはそのようなことをしません。
一見、ネコが不浄でハリネズミはキレイな動物などという見方は、奇異に感じがしますが、
どうしてそう考えるのかを理解すれば、自分達の文化においても、形は違え、おなじような捉え方をしていることがわかります。
たとえば、日本では、玄関で靴を脱いで、外と内を厳格に区別します。その境界を越えるのは不浄ということになります。
また、床とテーブルの上では厳密には細菌の数は変わりませんが、床の方が汚いと思ってますよね。
また体をふくタオルと食器をふくタオルが一緒というのに抵抗感を感じるひとは多いでしょう。(ジプシーの人にとってはタブーです。)
このように、それぞれの文化には、独自の境界線があり、それを侵すことは、その文化で汚いこと、けがれであり、タブーなのです。
私はインドをはじめとする先進国ではない国に長く滞在していたことがあるせいか、あまりそこら辺の境界に関して、おおらかなようなんですよね。
私が、砂利の上で布団を干している、といわれて改めて思いだしたのは、
ダラムサーラで、チベットのお坊さんが、川で赤い袈裟を洗って、河原の石の上で干している風景でした。
チベット絨毯なんかも、平気で地面において干していたりするので、私自身やっていることに全然違和感がなかったのですが、
いつの間にかちょっと日本人の感覚とは違う事をやっていたようです。
文化人類学というのは、自分達とはちがう分化において一見違うこと、奇妙に思える現象も、
それを成り立たせている原理を見極めることで、自分達の文化の延長として理解しようとするものです。
まず違いを認識して、その根底にあるものを理解する事で、自分たちも形は違え同じような原理によって生活しているんだ、と気づくことにあります。
まずは、相手が(表面的には)違っているという前提にたってはじめること、この感覚はとても大事です。
本当は、外交というものこそ、互いの違いを認識したうえで、それを尊重しつつ、お互いに了解を得ていこうとするものだと思うのですが、
いまの日本の外交を見ていると(他国も同じかも知れませんが)、自分と同じ考えでいることを盲目的な前提として話しを始めてしまっているから、話しがまったく噛み合っていず、
単に感情が先走ってしまっている状況にあります。
文化人類学の知見などは、本当は若いうちに身につけておくべき素養だと私はおもっているのですが、
今の政治を動かしているひとたちに、ほとんどこのような知見を感じられないのはまったく残念というか嘆かわしいとしかいいようがありません。
少なくとも、自分の身近な所、身の回りにおいて、相手を理解しようとする意識をもって生きていきたいなぁと思うのであります。
町内会の話しから、ちょっと脱線した話しになってしまいました。
おしまい
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