2015年9月13日日曜日

幸せから始める!



前回の白山登山のなかで、

いくつか気づくこと、気づかされることがありました。


その気づきは、登山自体とともに、

その時期に読んでいた本の影響も少なからずあったのでしょう、

またその本に関しては取り上げたいと思いますが、


登山をしながら、なんとなく考えがまとまって

あ~、そういうことなのか、、

と結実したのです。

その山に登っていて気づいたことの一つを書いておきたいと思います。


それが、表題の

幸せから始める!

です。

これはどういうことかというと、

私はいま、満ち足りて幸せです、、

と、言ってみるということです。

そして出来たら微笑んでみることです。(笑)


どこかに行ったら、何かを達したら幸せになる、

というのではなく、

いまここにいること、そのままで幸せである、

と、とりあえず言葉にして言ってみるのです。

私は山を登りながら、

うーん、オレはなんで山に登ってるんだろ~、

とたまに考えることがあるんです。

まぁ、単純に、楽しいから、気持ちいいから、ということに尽きるのですが、

山登りは、山頂につくことが目標であります。

しかし実は山に登ることそのものが目的であり、

その過程自体が楽しいのです。


山頂に到達することも勿論、幸せなのですが、

こうして山頂を目指して歩いているそのこと自体が幸せなことなんだよな~、、

という実感があるんです。


で、これって、なんか人生と共通しているんじゃな~い、、

と感じたのです。

人生でも、何か節目節目ごとに目標があり、

その目標を達したら幸せな状態になれる、

と考えがちですが、


実は登山と同じで、

その過程にあること自体が幸せ

なことなのではないのか、

その過程で色々なことを体験していること自体が楽しいこと幸せな状態なのではないかと、

はたと思ったのです。


幸せになる、といっている時点で、

今は幸せじゃないけど、という言葉がカッコ書きになっているのですが、

登山と同じで、いまこうしていること自体、

実は、恵まれた幸せな状態、

いましかできない貴重な体験をしている最中なのではないか、

つまり、こうしている今も幸せ、目標に到達しても幸せ、

ずっと幸せ、、、

と思ったのです。(笑)


で、その過程にいる最中に、敢えてそのことを意識するために、

私はいま満ち足りて幸せです、、

と言ってみる。

すると、ふと、心の充実感を覚えることに気づいたのです。

そして、

そんなに急ぐこともないのかも、、

と思うことができると感じたのです。


その充実感と反対にある状態のひとつが、時間に気を取られている状態

忙しい状態であるように思いました。

忙しいという漢字を見てみると、心を亡くすと書きますよね。

とても面白いと思います。

時間という人間が作り出した観念にとらわれていると、どうも幸せ感は感じにくいような気がします。

満ち足りて幸せだ、、

いうのは、大いなる存在と繋がっている感覚でもあります。

時間に追われている状態というのは、

そのつながりが切れてしまっている状態であるような気がします。

なので、なるべく時間に追われないような生活をしていこうと最近考えるようになりました。

たとえば、通勤などでも、余裕をもってでて、

着くまでは時間のことは考えないでそのしていること自体を味わい、楽しむようにしています。


私はいま満ち足りて幸せです、、、

キリスト教徒なら、

私は常に神に愛され、満ち足りて幸せです、有難うございます。

とでもなるのでしょうか。

実際、数々の臨死体験者の本を読むと、

向こうの世界で遭遇する愛に満ち溢れた大いなる光の存在は、

私たちを無条件で愛しているようなんですよね。

それに気づかない、或は、それを拒んでいるのは実は私たち自身だということらしいのです。

私にはそんな資格がないとか思い込んで、、。

でもそんなものは、自分が勝手に思い込んで、壁を作っているだけであって、

その思い込みを解消できると、愛の光につつまれるようなんですね。


まず微笑んでみなさい、

とフランスの哲学者アランは言いました。

微笑むから楽しい気持ちになるのです。

それと同じで、

私はいま満ち足りて幸せです、

というところから始めてみよう、と私は思うのです。

それがスタートでありゴールなのです。

こう言葉にするだけで、見えてくる景色が変わってきます。


例えば、靴がほしいと思っているときに、

普段通っている道沿いに、靴屋があることを発見する、

ということがあると思うのですが、

それと同じで、自分の問題意識に応じたものを、人は外界から色々と拾ってくるようなんですよね。

いつも不平、不満の言葉を自ら発していたら、

そういうものが目につき、更に不平不満が募る、という循環が繰り返されていくでしょう。

その逆をやればいいんだ、

ということなのです。

いま与えられている幸せの数々を実感しちゃいましょうということなんです。

いくら地位・名声・富に恵まれていても、心が満たされていなければ幸せにはなれません。

欲しい、欲しい、まだ達成されていない、

と思い続けていれば、どんなにたくさんのものを所有していたところで、心は貧乏なままです。

でも、幸せの感覚というのは、

おそらくちょっとした心の傾きを変えるだけなのではないかと思うのです。

白山の登山時、下界は雨でしたが、頂上付近は晴れ渡っていました。

雲に閉ざされて雨がしとしとふっている状態と、

抜けるような青空に太陽がさんさんと輝いている状態が、同時に存在していました。

私たちは、しとしとと雨の降る雲の下にいることもできますが、

雲の上の晴れ渡った青空のもとにいることもできます。

これは単に本人がどこにいたいか、

という選択の問題なのではないかと思うのです。


私はいま満ち足りて幸せです、

そうだ、そういうことなんだ、、

と白山に登って気づかされたので、

ここに書いておくことにします。


おしまい


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