2011年2月5日土曜日
排除しない (ように心がけたい)
科学と宗教という対立項でものごとを捉える見方がありますが、
私はこの捉え方には些か疑問を感じます。
私の理解からすれば、
盲目的な信仰 と 確かめようとする態度
の対立項の方がはるかに腑に落ちる感じがします。
科学の特徴には、
客観性
再現可能性(誰が同じ条件で同じことをやっても同じ結果が得られる)
数値化できること
などがあげられますが、
もうひとつ欠かせない要素があって、
それは今までの科学の体系に馴染む、あるいはその延長で理解出来る現象か否か
という点があります。
中村宇吉郎著「科学の方法」の例をあげるなら、
ある彗星の出現は
"一回きり"、という場合がありますが、
しかしそれは今までの科学(宇宙物理学)の体系から十分に理解され得る現象です。
しかし、幽霊という現象は、一回きり、あるいは一回きりではない場合であっても
科学としては一般には扱われません。
なぜなら、幽霊、あるいは霊魂などという現象が、いままでの科学の体系にまったく馴染まないからです。
しかしこれほど極端な例でなくとも、科学の世界でも既存の説に反する現象は、
排除される傾向にあります。
それは、今までの学説を盲信するあまり、それに当てはまらない現象を見ないようにする人の心性にあるように思います。
この盲目的な信仰は、どちらかというと宗教の世界で多いように思いますが、
私の理解からすると、仏教はやや、頭から何かを信じ込まむことを強要するというよりかは、
自ら確かめていく という態度に重きを置いているように思います。
科学、宗教に限らず、自分の崇める人を神聖視したりするときも、
排除の原理が働くことが多いように思います。
古今東西の偉人は、やはりそれなりに偉い方だとは思いますが、
神聖視=自分の願望の投射をしていると、
その人の批判されうる部分が、意識の外に追いやられてしまいがちになります。
なので、尊敬するような人がいても、
絶対視したり神格化することなく、笑いや批判の心を常に持ってある程度の距離を置いておくことが健全かなと私は思っています。
フロイト心理学では、抑圧という言葉がキーワードになりますが、
これは心理学における最大の誤訳だといわれています。
原語のverdrangungは、船の排水量の時の、排水や排除などという意味であり、
下に抑えつける(supression)という意味ではないのです。
私たちは何かの現象を見る時、そこに自分の内的な構造というか、自らの願望を投射して物を見ていますが、
それにそぐわないような現象は、意識的、無意識的に排除しようとする傾向があるように思います。
しかし、そういった異端のもの、異常な現象にこそ、真実の一端が顕れているのであって、
そういった異常なものを正常の延長としてとらえる時に、人は自らの理解を拡大させ、
進歩があるのだと思います。
従って、なるべく異常に思えるような現象を排除することなく、
すべての現象を、たとえそれらが合いそぐわないものであったとしても、
それを意識のまな板の上に同等に並べておいてみる、という態度は
あらゆることにおいて大事なのかなという気がしています。
逆に、排除、排除していくと、純粋で、キレイな世界を保つことができますが、
それはフロイトが説いたところの病の構造であり、
その排除したものの逆襲にいずれ合うことになるでしょう。
これは、個のレベル、人の集団のレベル、生物のレベルなど、
あらゆる階層で言えそうな気がします。
そしてこの排除は、今まで当ブログで何回かとりあげてきた
分化と統合
の問題と関わっており、
排除は分化・専門に、
そして排除しないという態度は、統合の方にあたります。
いずれにしても、まずは自らの意"識"が、
ものごとを理"解"するのあたって、それにそぐわないものを排除する傾向にあることを知ること。
自分の意識が排除しようとしているものをなるべく、同じ俎上に置いて俯瞰してみること。
こういった態度が大切なのかな、と最近とみに感じています。
仏教の用語を使うなら、五智のひとつの
大円鏡智(Mirror-like Wisdom)
といえるでしょうか。
ま、しかし、
「ものごとを鏡に映すがごとく、あるがままに見る」
というのは、悟りの境地の特徴でもあるわけですから、
そう簡単にできるものでもないですが、常々心掛けていきたいものであります。
今日扱った内容に関しては、現在読んでいる本とも関連があるので
もう少し引っ張ってみたようかなぁと思っています。
つづく、、、
参考:
科学の方法 (岩波新書 青版 313)
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2 件のコメント:
ネタ元がウィキペディアなんだけど
仏教はキリスト教やイスラム教と違い
まず神を信じたり、絶対服従を誓ったり、契約することがなく、
正しい理解と洞察による実践による。
(・・・が次第に民間信仰などと融合して契約などの形も各地で取り入れられた。)
という記載を見て、
もともとはなかなか素晴らしいとこから
始まってるのではないかな~と思いました。
その通りですね。
よかったら次のブログも参考にしてみてください。
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