先日ある台湾料理の店で食事をしてきました。
そこは家族経営をされているようなこじんまりとした店で、
小さな丸テーブルに籐のいすが置いてあったりして台湾的でかつ庶民的な雰囲気のあるとても好感のもてる店でした。
この店の最大の特徴が、料理の安さです。
一品、一品の料理がかなりリーズナブルな値段で食べられるのですが、
その値段にもかかわらず、とても美味しい。そして食べていて楽しい気持ちになるのです。
まあ一緒に食べに行った人が、前にも紹介した国籍不明(笑)、外国経験の長い同僚のNJ氏だったということもあるのですが、
その台湾料理屋での食事はとても印象に残る楽しいものでした。
あとで、なんであそこでの食事はあんなに楽しい気持ちになれたんだろうか?
となんとなく考えていたのですが、
料理を作っている人の思いがこもっているからではないか、
という結論に到りました。
勿論、料理だけでなく、客への接待の仕方や店の雰囲気づくりにもそれらが現れているのでしょうが、
とにかく同じ場所、同じ食材、同じ調理法で、別の人が調理しても、別物になってしまうのではないかと思ったのです。
その台湾料理には、そこで働いている方々の心意気、もてなしの気持ちがこもっていて、
それを食べたこちら側がそれを感じてハッピーな気持ちになるのではないかと思ったのです。
かつてスピリチュアルカウンセラーの江原氏がある家庭に対して、
どんなに忙しくて手抜きをして出来合いのものを出すにしても、
少なくとも一品は手づくりの料理を出すように
とのアドバイスをどこかでしていました。
これも料理に作り手の心がこもり、家族の人たちに伝わるからだろうと思います。(確かそのような解説をしていたように思います)
上で紹介したような台湾料理屋や家庭料理の対極にあるのが、
規格化・マニュアル化されたファミレスやファーストフード店のような所で、
こういうところでたまに食べると、まずくはないけどあまり楽しい気分になれない、という気がします。
それはこの作り手の思い、と何かしら関係しているのかな、と思ったりします。
逆に私の良くいくエスニック料理の店なんかは、まぁ異国情緒あふれる店の雰囲気もあるのでしょうが、
その作り手の思いのようなものを感じられる店が多く、そういう店で食べると、感激すること多いように思います。
料理に限らず、
物は単なる物=物質ではない、
と感じることはよくあります。
物が捨てられない、
なんていうのも、それが単なる物ではなく、そこに何がしかの思いがこもっているからでしょう。
この物というのをもう少し広げて、人に関しても同じようなことが言えるように思います。
人、一人ひとりを個別化した物体(individual)として見ることもできますが、
実際人間というのは、見えないレベルでかなり活発にエネルギーのやりとり・交流が行われているように感じます。
朱に交われば赤くなる
のたとえのように、なんとなく接しているとその人たちの影響を受けるということがあるように思います。
私の例でいえば、たとえば富士山のようなを登るとき、
休むのは常に人の集団がなるべく近くで休んでいない所を自然と選びます。
たいてい何合目とかの休憩所に、人がドヤドヤと集まってグターっと休んでいるのですが、
そういうところで休憩をとると、その疲れた気のようなものを自分が受けてしまう感じがあるのです。
私は常に、なるべく人が近くにいず、景色のいいところにひとり腰を落ち着け、自然の気を受けれるようなところで休むようにしています。
実際そうした方が、断然疲れがひき、調子がいいように感じます。
また昔兄から聞いた話しが印象に残っています。
兄は予備校時代に、ヨットに乗りたい、乗りたいと強く思っていたそうで(我々は小さい頃ヨットを習っていたので)、
念願かなって大学に入ってからはヨット部に入部してエンジョイしていたようですが、
予備校時代に親しくしていた人が、
本人もなぜかわからないけど、大学に入ってヨット部に入ってしまった、ということでした。
兄はヨットに乗りたい話しなど本人にまったく話していなかったにもかかわらず。
おそらく無意識のレベルの強い想いが、近くにいたその友人の心に影響を与えたのではないかと思います。
こういうことを考えると、普段付き合う人というのは、本当に大事だと思いまし、同時に注意が必要だとも感じます。
刑務所に行って、さらに悪くなって帰ってくるというのも頷けます。
少し前に私は興味があって、マリファナ関連の本をかなり読んでいた(笑)のですが(機会があったらそこから感じたことをまとめてブログに載せたいと思ってますが、、、)
バッド・トリップのかなたに
という本で、著者が最終的に薬物を断つためには、つき合っている友人関係そのものを変える必要がある
ということを言っていたのがとても印象に残りました。
まぁ、当たり前といえば当たり前なのですが、
たとえ一緒にマリファナをやらないにしても、薬物を習慣化している友人と近くにいるだけで、
その人の欲求・願望のような強い思いを知らず知らずのうちに受けて、なかなかやめられないということがあるのではないかと推測するのです。
これは集団心理とも関係してくると思うのですが、
人の影響をなるべく受けたくないなら、人との"物理的な距離"をとるのが肝要かと思います。
前に当ブログでも紹介したことのあるデール・カーネギー氏は、スピーチの仕方を説いた本の中で、
観客をなるべく詰めて座らせることの重要性を説いています。
人との距離が近いと、その影響を知らず知らずの内に受けてしまうものなのでしょう。
逆に言うと、自分が望ましいと感じる人物に対しては、やはり近くで接することが重要になってくるのかもしれません。
昔の徒弟制度で、内弟子を住み込ませて教える制度がありましだか、これはとても理にかなったものだと思います。
教育においても、単に教科書に沿って教えるのではなく、その教科が好きで情熱をもって教えている人というのは、
授業を聞いているこちら側にも伝わってきて、結果なぜだかその先生の生徒たちの成績がいいということがあるようです。
仕事、何をして働くかというのも重要です。
職場には、その仕事をしたいと志す人たちが集まり、思いを共有するので、
自らも更にその環境に影響を受け染まっていくことになるからです。
他には普段聞く音楽や見るテレビなどもそうでしょう。
食べ物、いく場所、つき合う人、仕事などなど、人の思い=気(物質を越えて影響を与えるもの)
というものを想定してみると、結構色々なことが見えてくるかなと思います。
いずれにしても
類は友を呼ぶ
の法則が働いているので、似た者同士が引きあうように自然は出来ているようです。
あわせて、シェルドレイクが説く「場の共鳴」というものを考えてみると面白いかと思います。
ガン専門の医者がガンに罹って亡くなることが多いというのはなぜなのでしょうか。
自分の望む高いものがあるなら、やはりこのような点には注意する必要があると思います。
台湾料理を食べて思ったことでした。
おしまい
参考:
アマゾン:
バッド・トリップのかなたに
話し方入門 新装版
彦兵衛のブログ:デール・カーネギー関連
最近感銘を受けた本 ≪その①≫ (D・カーネギー)〔2011年7月6日〕
http://mshiko.blogspot.com/2011/07/blog-post.html
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