すべては波なんだろうな、
というのが私の結論なんですが、最近この波に関して投射という性質を少し考えています。
まずはじめに波に関してですが、私たちはあらゆる現象に関して、
それぞれ“個”なるものとしてそれに名前を与え、思考します。
しかしそもそもこの“個”という考え方、まわりのものから切り離された個という捉え方自体が
一種の思いこみなのではないか、と思うのです。
一種の思いこみなのではないか、と思うのです。
つまりかつて大日経にある炎火輪のたとえを書きましたが、
紐の先に火をつけてくるくるまわすと、それは実体のある赤い輪のように見えます。
しかし実は単に炎がまわっているだけで、その炎自体もゆらゆら揺れる光(熱の放射)です。
私たちが個物としてとらえているものは、大なり小なり実はこのようなエネルギーの揺れによって、
借りに形をなしている、と捉えた方が物事の本質ではないかと思うのです。
あらゆるものは、振動しており、回転しており、大きい揺れのなかに小さな揺れがありとフラクタル構造をなしていて、すべては揺れ動き、変化しています。
静止して、個物のように見えるものも「動的な平衡状態」を保っている、と考えた方が実態に合っているように思います。
これを仏典では、色即是空、すなわち、色(形あるもの、秩序)は空(実態のないもの、カオス)に他ならないと言っているように思います。
さて、表題に戻って、最近少し気になっているのが、投射ということです。
エネルギーの代表たる光をあげてみるなら、光が発せられて、対象にあたると、そこに反射が起こり、私達はその光を感知します。
私たちが物を見ているというのは、私たちの頭の中に既に形があり、それを再認識しているわけですが、
これはすなわち物あるいは人を見る時に、常に頭の中にある既成概念、
これはこういうもので、この人はこういうひとである(あるはず)、
という思いが存在しているということです。
この思いこみ自体が物事をゆがめている可能性もあるのです。
というより、ものをあるがままに見るなんていうことは不可能なのです。
従って、物や人と接する時には、常に自分はある種の色眼鏡でみていることをしっておくべきかなと思うのです。
という希望、願望を持っているわけですが、付き合っていくうちに、自分の思いと実体とのずれが生じることによって、
自分が勝手に相手の像をこしらえていたんだ、ということに気づくということがあるのです。
それはひとえに、私たちは投射して物を見ているということのあらわれだと思います。
そしてまた同時に、投射、すなわち心の構え自体が現象界に大きな違いをもたらすことも知っておくべきだと思うのです。
例えば、かつて西欧の人達にとってアフリカの黒人は、言葉を話す動物という捉え方をしていたが故に、
良心に呵責を感じることなく、奴隷貿易などが出来ました。
良心に呵責を感じることなく、奴隷貿易などが出来ました。
また歴史の新しい所では、ナチスはユダヤ人は豚であるというイメージのすり替えによって平気で虐殺をおこなえました。
これは何も特別なことではなく、たとえば教育の場面においても、
この子は出来る子なんだ、という心の構えで接するのと、
この子はどうしようもないダメな子だ、という思いで接するのでは、その子の将来に雲泥の差を生じることでしょう。
この子はどうしようもないダメな子だ、という思いで接するのでは、その子の将来に雲泥の差を生じることでしょう。
かつて河合隼雄さんは、数学科に学んでいたわけですが、数学は才能がほぼすべての世界なので、
数学科の教授陣は、入ってくる学生に対して、どうせ入ってくる人達で才能があるのはほんの一握りで、あとはダメだろうという思いで接していたため、
学生も一部の才能ある人達以外はあまり伸びなかったそうです。
一方、兄の河合雅雄さんの方(いわゆるゴリラのお兄さん(笑))は、
理学部で生物を学んでいたわけですが、ここでは入ってくる学生は皆優秀だから大切に育てていかなければならないという思いがあったらしく、
学生はそれぞれ個性を伸ばしてぐんぐん成長していったそうです。
少し余談になりますが、最近久しぶりに河合隼雄さんの本を読みました。
この中の秋山仁さんとの対談の中に、ウィリアム・ブレイクの詩の一節として、
ということばが紹介されていました。
水槽は水をたたえ、泉は湧き出す
ということばが紹介されていました。
水槽の水というのは、置いておけばそのうち蒸発してなくなってしまいますが、
一方、泉というのは絶えずこんこんと水が湧き出し、絶えることがありません。
また水槽の水は放っておくと腐りますが、流れのある水は常に清冽です。
中国の古典にある、
(流れる水は腐ることがなく、扉の蝶つがいの所は常に動いているので錆びることがない)
ということばを私は思いだしました。
先の詩の一節、単に知識を詰め込むだけの教育ではなく、泉の如く知恵が湧きだし、やる気に満ちた子供に育てなければならない
ということの例としてとりあげられた言葉ですが、一方、泉というのは絶えずこんこんと水が湧き出し、絶えることがありません。
また水槽の水は放っておくと腐りますが、流れのある水は常に清冽です。
中国の古典にある、
流水(るすい)は腐らず、枢(とぼそ)は 朽ちず
(流れる水は腐ることがなく、扉の蝶つがいの所は常に動いているので錆びることがない)
ということばを私は思いだしました。
先の詩の一節、単に知識を詰め込むだけの教育ではなく、泉の如く知恵が湧きだし、やる気に満ちた子供に育てなければならない
ただ知識を詰め込むだけで、勉強がむしろきらいになってしまうような勉強法ではなく、
自らのなかに泉を掘り当てる、すなわち、自発的に学ぶことの楽しさを教える方が、将来にとって何倍も大事なことです。
これも教える側の心の構え、と関係しているように感じました。
このように心の構えという、目に見えないほんのちょっとの心の作用だけで、現実世界が大きく変わってしまいます。
したがって、私たちは物事を見る時に、こちらの思いを投射してみている、ということを常に念頭に置いておく必要があるということです。
同時に、外界の事物によって逆に自らの心をしる手掛かりにもなるという事でもあります。
ある人に対して、好悪の気持ちを抱いたり、何かのドラマや小説などに強く惹かれたりするとき、
そこに自らの心の反映、共鳴が関係しているので、それを手がかりに自分を知ることが出来るのです。
これは神様が人間という自分の分身を生んだこと、そしてそれを手がかりに自分自身(自神)を知ろうとしたこと(?)と関係してくるのかもしれません。
私は最近ちょっとマンガにはまった(ハマっている)のですが、これも自分の心の投影と関係していることがよく分かります。
同時に、外界の事物によって逆に自らの心をしる手掛かりにもなるという事でもあります。
ある人に対して、好悪の気持ちを抱いたり、何かのドラマや小説などに強く惹かれたりするとき、
そこに自らの心の反映、共鳴が関係しているので、それを手がかりに自分を知ることが出来るのです。
これは神様が人間という自分の分身を生んだこと、そしてそれを手がかりに自分自身(自神)を知ろうとしたこと(?)と関係してくるのかもしれません。
私は最近ちょっとマンガにはまった(ハマっている)のですが、これも自分の心の投影と関係していることがよく分かります。
また心の構えに関して、あらゆるものに対し、常にポジティヴな思いを抱くということも大切なのだろうと思います。
これの最終形態は、おそらくキリストやブッダの世界観でしょう。
これの最終形態は、おそらくキリストやブッダの世界観でしょう。
すべての人は神の子であり、すべては神の清浄なる光のあらわれ
としてかれらの目には映っていたのではないかと思うのです。
同じ日常を過ごすにしても、どうせならこのような心境(神境?)で毎日を過ごしていきたいな、と思うのであります。
また同じ毎日の生活を送るにしても、
今日というこの一日は二度と戻ってこない、
今日という貴重な一日をどうも有り難うございます、
という感謝の気持ちで一日を過ごしたいな、と思うのです。
投射、心の構えに関して、最近彦兵衛が考えたことでありました。
河合隼雄著 いのちの対話
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