2019年12月7日土曜日
残念であっても、人を憎まない~中村哲医師の死に思う
今回、中村哲医師は残念ながら武装集団に撃たれて亡くなりました。
しかし私は犯人を憎い、許せないとは思いません。
人を憎むこと、人を許さずにいつまでも恨み続けること、これは恐らく中村医師がもっともして欲しくないと願っていたことだったのではないか、と思うのです。
中村哲医師の本で読んだのか、次のようなエピソードがありました。
アフガニスタンの小屋の中に現地の支援者とともにいたところ、誰かが外から銃を撃ってきた。
血気盛んな現地の人が銃を取って応戦しようとすると、
決して銃を撃ってはならない、銃を撃つことで憎しみが憎しみを生む、
と中村医師はそれを諫めた。
今回、中村医師が銃撃を受けたとき、警備の人たちも一緒にいたとのこと。
しかしもしかしすると中村医師は、警備の人など要らないと言っていたのではないか、他の人から言われて付けていたのではないかという気がします。
そして、今回亡くなられて、いちばん悔やんでいるのは、ドライバーや警備の人を巻き込んでしまったことなのではないか、、そんな気がしています。
そもそも中村医師がアフガニスタンの支援をしていたのは、
憎しみが憎しみを生む暴力の連鎖をなくし、アフガニスタンの人たちに物質的にも精神的にも豊かになって貰いたい
という想いにあったと思うのです。
従って、中村医師が殺されたことにより相手に憎しみを抱くというのは、中村医師の意志を継ぐことにはならないと思うのです。
私たちは、そもそも生まれてくる前に、向こうの世界が楽しくなるように、天国のような世界なるようにしてきます、と張り切って出てきたのではないかと思います。
色々な障害に突き当たったとき、それは一人ひとりの寛容の心が試されているのではないかという気がします。
あるチベット仏教僧は、生活のすべてを修行の糧としなさい、と言っていました。
私はまさにその通りだと思います。
心を訓練する題材として、日常生活であらゆることが起き、心に思いやりと寛容の心を育む場とてして私たちはこの世にいるのかもしれません。
奇しくも、パキスタン、アフガニスタンというのは、かつて仏教が栄えた地であり、ゾクチェンの教えが生まれた地であるともいわれています。
私は今回の事件も、寛容の心をもって捉えたいと思います。
では、憎い、許せないと思う相手をどのように許すのか。
まずは、言葉に出してみることかもしれません。
誰々さんを許します、私はすべての人をゆるします、と。
私たちは幸せになるためにこの世に来ていると思っています。
そして幸せになれるかどうか、
私たちのほんのちょっとした選択にかかっているように思います。
憎しみを抱き続けていくのか、解放され、澄み切った青空のようにとらわれのない朗らかな心で過ごすのか。
世界の平和というのも、その第一歩は
一人ひとりの心のうちに平和を築くこと、いやむしろ
一人ひとりの心の内の平和に気づくことのような気がします。
そのキッカケとして、外側のあらゆる事象が存在する、そのような感覚を私はもっています。
今回の中村医師の死は、とても悲しい、非常に残念なことではありますが、
憎しみを抱くことなく、平和と調和と寛容の気持ちをもって前に進んでいけたらと思っています。
中村医師のご冥福をお祈りするとともに、
中村医師が心血を注いだアフガニスタンの地に祝福がもたらされるよう心よりお祈り申し上げます。
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1 件のコメント:
本当にそうですね。
私の知って居る言葉でいうと、恩讐の彼方に。
心から、平和を祈念します。
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