それではラム・ダス著『ビー・ヒア・ナウ』を紹介していきましょう。
(表紙からしてかなりイッチャッテます(笑))
聖人に会っても、スリには聖人のポケットしか見えない、、、
前回紹介したことばですね。
私達は、みな同じものを見ているつもりでいても、実はそれぞれの心の状態によって、
見え方がまったく違っているということです。
ナムカイ・ノルブ リンポチェは、六道の住人が"水"を見た場合、
カルマの違いによって、人間が飲料水として見るところを、
天の人たちはそれを甘露として、
修羅の人たちはそれを武器として見ると述べており、
とても含蓄がある表現だと思います。
虹と水晶―チベット密教の瞑想修行より
さて、以下『ビー・ヒア・ナウ』の中で印象に残った個所をピックアップしてみたいと思います。
あなたがすべてをあきらめたとたん、
すべてを手にすることが出来る。
ある人が他の人に伝えているメッセージというのは、
言葉や表情でなく、その人のヴァイブレーションである
ヒッピーが警察をつくり、
警察がヒッピーをつくる
サーフィン、、、
それをのしかかる重しとしてやるか
ダンスの一部としてやるか
変化するものにしがみつこうとすること(欲望)から苦が生まれる
牢獄から自由になるためには、
まず牢獄にいることに気づかなければならない、、、(グルジェフ)
足りない、足りない、、、
外的な刺激によって満足を得ようとしても、満たされることはない
外的なものは常に変化し、また欲望はさらなる刺激を求めるから、、、
いま、ここに穏やかさ、静寂をみつけること
日常のすべての行為を神にささげる=カルマ・ヨーガ
すべての結果を放棄する
以下、ラム・ダス著『覚醒への道』より
船に乗って対岸に着いたら、船を頭の上にのっけて運んでいく必要はない
方法に執着しない!
これはとても重要なポイントであるように思います。
世界の宗教対立をみても、自分の属する、自分が学んだ方法を唯一絶対なるものとしてあがめるところから、
様々な争いが生じているように思います。
それらは、一つの道、乗り物、ツールに過ぎないのに、
自分が使っている道具を"我"の延長として捉える所から対立が生じているように思います。
たとえば、"太陽"をさす言葉が、各民族、また時代によって異なっても、
自分の使っている言葉が唯一正しいということはないのに、信仰となると気色ばんでしまうようです。
クリシュナムルティのことば
恐怖と対立しない
山頂と谷間のかわりに高原を得た、、、
これはとてもいい表現だなと感じました。
さて、ここまでラム・ダスの本を見てきましたが、
コチラの本が、ラム・ダスの師匠、ニーム・カロリ・ババについてのエピソードをまとめた本です↓。(笑顔が素敵!)
この本は、700ページぐらいある分厚い本なのですが、
このババのあまりに型破りな言動が面白すぎて、引き込まれるようにどんどん読めてしまいます。
しかも読んでいると、とても不思議な感覚、
あたたかさと、笑いと、驚きの三つをミックスしたような、なんとも表現の仕様ない、得体のしれないふわふわした感覚につつまれるのです。
もう、この人、人間ではないな、、という気がしてしまいます。
インドにはこういう人がいるんですね。
そして歴史を通じて、こういう人が連綿と出現するインドという土地は、やはり魅惑の地としかいいようがありません。
本書中に写真がかなりあったので、それと一緒にここに載せようと思いましたが、
今回はかなり文書を紹介したので、残りは次回にしようかと思います。
いやー、しかし不思議な事ってホントあるものですね。。。
参考:
ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本 (mind books)
覚醒への旅―瞑想者のガイドブック (mind books)
愛という奇蹟―ニーム・カロリ・ババ物語
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