2011年12月24日土曜日
4種の瞑想
忘年会の季節になり、飲み会に出席することが多くなる時期です。
私はある飲み会の席である方に
(スピリチュアルな事に関して)最近メインにやっていることは何ですか?
と聞かれ、やはり瞑想ですかねぇ~、と答えた所、その方は、
人との関わりも大切ですよね、とおっしゃられた。
私はまさにその通りだと思います。
社会に出て人と関わることは最高の修行の場だと常々感じています。
早朝に座るのも瞑想であれば、祈りもまた瞑想です。
瞑想が神の声を聞くものであるとするなら、祈りは神への語りかけであるとある本に書かれていました。
またヨーガやスーフィーの旋回舞踊のようなものものも、動の瞑想であると思います。
禅では行住坐臥すべてが修行であるという言い方をします。
チベット僧のチョギャム・トゥルンパ氏は、生活のあらゆることを瞑想の糧にしなさいと言っていました。
ゾクチェンの指導者であるナムカイ・ノルブリンポチェは、
座って30分、1時間と瞑想をしていても、一日のその他の大部分の時間を注意散漫な状態で過ごすのではまったく意味がないと述べています。
寧ろ、一日を一生に見立てて、フルに活用するのが正しい修行の有り方だと述べています。
たとえば夜寝るというのは、死の予行練習であり、これなど毎夜できるわけです。
参考↓
日本語版↓
そういう意味で、私は家に帰ってから、
普通に座る瞑想、祈りやヨーガのような瞑想、日常生活などがどういう関係にあるのか考えてみました。
で、結論としては以下のような関係にあるのではないかと思いました。
普通にすわる瞑想が、静的な受け身の瞑想であるなら、
祈りは静的でありながら能動的な瞑想で、
ヨーガのようなものは、動的でありながら受け身の瞑想、
そして日常生活というのが、もっともハイレベルな動的かつ能動的な瞑想です。
人との関わりは大切ですが、ここを有効な修行の場とするためには、
やはり静的な瞑想で寂静で満ち足りた境地というものを知っておく必要があると思うし、
寂静の境地にひたっていてばかりでは、実際の社会との関わりが疎かになってしまいます。
ここら辺をうまくバランスを取ってやっていくのが望ましい修行のあり方かなと私は思っています。
おそらくある人生でこの内のどれか一つに偏り過ぎると、
次の人生ではその偏りを正すために、敢えて逆の境遇に生まれてくるということがあるように思います。
人との関わり、社会で仕事をすることは、捉えようによっては自分を高めるためのツールになりえます。
社会に出ていれば、気の合わない人や、嫌なことに出くわすことがあります。
そのようなものは、自分にとっての壁、あるいは逆風のように感じるものです。
しかし壁も階段を使って少しずつ上がっていけば、いつの間にか越えて高みに到達することが出来ます。
逆風も自分が飛行機だとすると、向かい風があるからこそ上昇できるのです。
人の心も物と同じで、慣性の法則が働いているように思います。
ある運動状態にある物質は外的な作用がなければ、その運動を維持し続ける性質があります。
しかしビリヤードの玉みたいに、別の玉が衝突してくれることで、初めて軌道を変えられるのです。
従って、日常生活の中にある障壁や逆風のようなものも、捉えようによっては、まさに自らを高める最高の刺激であり、ツールなのです。
私は嫌な人や嫌なことが来た場合、
お、上昇気流が来たと思う事にしています。そうすることで嫌だと思いこんできたものも、少しワクワク感をもって捉えることが出来ます。
密教の核心に、煩悩即菩提という言葉があります。
迷い、苦しみがあるからこそ、悟りに至れるという意味です。
また煩悩も悟りの境地の顕れであるという意味でもあります。
いずれにしても、人との関わり、社会におけるあらゆることを自らを高める糧として生活していきたいなぁ~
とイエス・キリストの誕生日を前にして思うのであります。
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一 (6-19、20)
おしまい
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