この前の朝見た夢は、とても印象的なものでした。
イギリスの田園風景の中を、車で誰かと一緒にドライブしているのです。
ドライブ、といっても奇妙なことに、線路の上を車で走っているのです(笑)。
イギリスの海岸線や緑豊かな景色が車窓の外を流れていきます。
で、車に同乗しているのは誰かよくわからないのですが、よく気心の知れた年配の方であるようです。
その人と話をしているのか、コミュニケーションをとっているのですが、
頭の中には、イギリスはアメリカに次ぐノーベル賞受賞者を出すほどのサイエンスの進んでいる国であるが、
その下地にはキリスト伝導以前からあるケルトのオカルティックな文化があって、
そのオカルティックな文化という土壌があってサイエンスという華開いているんだ、
というものでした。
私は、そうだろうな、うん、うん、と妙に納得しながら目覚めました。
あまりに鮮明な夢だったので、すぐに書き留めておいて、自分がこの夢からなにを感じたのかを暫く考えてみました。
ものごとを
“顕”(顕れているもの)と“密”(密やかなるもの、隠れているもの)
に分けると、
サイエンスというのは、顕在している現象をとらえるのに有効な手法です。
当ブログでも何度か紹介したかと思うのですが、
中谷宇吉郎氏の書いた名著
の本を読むとよくわかるのですが、
科学とは、
私たちが捉える事の出来る現象(再現可能性のある現象)=数値化できる現象
を扱う手法であって、
そこには、再現可能性のない現象=数値化できない現象があることがあることが前提になっています。
またもうひとつのポイントとして、
たとえば一回きりの彗星の観測というのは、再現可能性がないわけですが、
この現象は今までの科学の体系から理解できることなので、一回きりの現象であっても科学の対象となりうるのです。
しかし、たとえば幽霊のような現象は、まず見れる人と見れない人がいること、
今までの科学の体系から理解できないので、科学の対象にはならないのです。
ここで大事なことは、
科学の対象に適さないもの=存在しない
ということではないのです。
あくまでも、数値化できない、科学の手法に適さない、というだけであって、そのような密やかな現象はいくらでもあるのです。
たとえば、身近なところで言えば、自分の内心の感情は、他の人には観測できないから“存在しない”とはいえませんよね。
そういう意味で、心理学は科学か、ということが昔から言われており、
心理学が科学であるようにみせるために、表に現れた行動として数値化できるものだけを扱う行動主義心理学のような一派も生まれました。
余談は置いておくとして、
科学の手法というのは、科学で扱えない現象が存在することが前提となっているのです。
そもそも科学は宗教、特にキリスト教に対する反発から生まれました。
ある本に書いてあるから正しい、誰か偉いひとが言ったからそれが真実である、とするのではなく、
主観を出来る限り排し、自然現象の観察から得られるデータを真なるものとして扱おうとしたのです。
つまり本来自然現象には、
顕なるもの=科学的手法に適するものと、
密なるもの=数値化できない、科学が扱えない現象(心、魂に関わる現象など)
の両方が存在していて、
人間にとっては、車の両輪のようにその両方が大事なのだということです。
そして、その二つは相反するものではなく、実は人間にとって相補うものだと思うのです。
ちょうどカメが陸上の世界と水中の世界の両方を見ることができるように、
人間も、この両方の世界を悠々と楽しむ能力が本来備わっていると思うのです。
ただ、育ってきた時代、環境によって、どちらかに偏ってしまうことが生じるように思うのです。
顕密といえば、仏教においても顕密という言い方が存在します。
一般の小乗、大乗仏教を顕教というのに対して、真言や天台は密教といわれます。
およそ、宗教的な伝統には、
一般に教えられる顕教的な教えと、ある一部の人に口伝のように伝えられる密やかなる教え(密教)が存在するようですが、
真言密教を伝えた空海は、
秘密ということに関して『弁顕密二教論』という本のなかで次のようなことを言っています。
そもそも秘密なんてものはないんだと、すべては公開されているんだと。
しかし人が自ら目を覆い隠して見えないという秘密(衆生の秘密)と、
大いなる存在が時期を見て開示していく秘密(如来の秘密)という二つの側面がある。
しかし大いなる存在(大日如来)の視点からすると、すべてはそもそもの初めから公開されているんだと、
そのようなことを述べています。
顕教が無知な状態から悟り(光明)へと進んでいくというイメージであるのに対して、
密教はいきなり悟りの境地(光明の境地)から全体を俯瞰してみせるという大きな違いがあります。
マンダラのような図像はまさにそのための道具ですね。
話を元に戻すと、
顕なる(ものと感じる)現象も、密なる(ものと感じる)現象も、ともに本来一如であって、
その両方がともに大事なのであって、
どちらか一方のみ、ということになると、まさに片手落ち、全体を見失うということになると思うのです。
夢から、このようなことを色々と考えたのですが、
なんでこんな夢見たんだろうか、、と思いをめぐらしてみると、
一つには、いま読んでいる本が影響しているのかな、という思いに至りました。
いま読んでいる本の一つは、
前回にも紹介した矢作氏と遺伝子研究で有名な村上和夫さんとの対談本で、
という本で、まさに似たようなテーマが出てくるんですよね。
このなかで、アインシュタインのことばとして、
「宗教抜きの科学は足が不自由も同然であり、科学抜きの宗教は目が不自由も同然である」(p.56)
ということばが紹介されていました。
やっぱ天才というのは、スケールが違うなぁ~と感じました。
また他に読んでいる本に、
という本があります。
これは職場のスピリチュアルつながりの方から、
こういう本があるよ、ぜひ読んでみたらと紹介してもらった本です。
著者は谷口雅春氏で、生長の家という新興宗教の創始者です。
主な主張を要約すると、
我々人間は、本来神の子、光の子であって、完全無欠である。
病気になったりするのは、自分が身体であるという思いにあるのであって、
本来、私たちが完全円満な神の子、光の子であるという正しい思いをもてば、自ずと病気もなくなっていく。
私たちが現実だと思っているこちらの世界は、ちょど映画がスクリーンに投射された映像のようなものである、
実はこちらの世界は影なのであって、私たちの本質は光である、
とだいたいこんな主張です。
旧仮名遣いで書いてあり、読み進めていくのもナカナカ大変で、ようやく一巻を読み終えようとしているところですが、
その教えは概ね上記のようなもので、頷ける点が多かったです。
(天風さんの教えとも共通点が多いです)
実は、いま他に稲盛氏関連で、
という本を読んでいるのですが、
奇遇なことに、実は稲盛氏が若かりし頃、結核になって人生の方向を見失っていた時に、
先の谷口雅春氏の『生命の実相』に巡り合い、その人生観に影響を与えたという本なのであります。
(そのことも本の中に書かれていました)
上記の二冊の本を読むと、改めて稲盛氏の巨大さがわかります。
稲盛氏は、言うまでもなく、バリバリの実業家、現実家、サイエンスマインドの持ち主でありますが、
実は家の蔵書の7-8割は精神世界関連の書物が占めており、
その蔵書の多さに2階の床がぬけないか心配であるというほどの量だそうです。
まさに、オカルテックな世界を土台にしながら、サイエンスの心をもって成功を成した人物、それが稲盛和夫という巨人のようです。
まあ、色々とこういった本を読んでいる影響で、奇妙な夢をみたのかな~、などと思いました。
考えてみたら、日本も神道といういまいちよくわからん宗教を土台にして
ハイテクノロジーの華が開いているちょっと変わった文化ですよね。
東京のど真ん中に、明治神宮のような聖なる寂静の空間があったりと、
あの対比は、日本をよく象徴しているように思います。
せっかく日本に生まれ、日本人として生きている私たちは、
そのどちらも尊重し、育んでいくことが大切なんだろうな、と思うのであります。
なんか夢を見て、
実際にイギリス、アイルランドあたりに行ってみたいな~、
なんて白昼夢にふけっている彦兵衛ででありました。。。
おしまいっ!
参考:
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