私が毎週欠かさず見ている番組に、
NHK教育でやっている
100分 de 名著
という番組があるのですが、
7月はプラトンの『饗宴』についてでした。
100分 de 名著 ~ プラトン『饗宴』
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/24_platon/index.html
饗宴というのは、シンポジウム(symposium)の邦訳だそうです。
シンポジウムというと、学術的な意見の交換をする場で、お堅いイメージがありますが、
もともとは、
ともに〔sym〕+ 飲む〔posis〕
という意味で、今でいう飲み会のようなものを指していたそうです。
まさにノミニケーションですね。
たまたま最近読んだ、五木寛之さん本
にもその語源が出ていたので、おっ!
と思いました。
さて、この 100分 de 名著 ~ プラトン『饗宴』の最終回で、
プラトンのイデア〔idea〕についての話がありました。
イデアはもともとギリシア語では、「(見えている)姿」という意味だったそうですが、
美として見えているそのものの本来の姿、
というように、その使い方を変えたのだそうです。
そのイデアに対して、日本語では「理想」という訳語があてられるのですが、
この「理想」という語は、
明治時代にプラトンの「イデア」の訳語として作られたのだそうです。
で、イデアの説明に入るのですが、
イデアを理解するには、影や像という語がカギとなってくるのだそうです。
プラトンのイデアによると、
私たちの世界は「影」なのだそうです。
そのことを説明しているのが、プラトンの『国家』の中に書かれている、
“洞窟の比喩”だそうです。
番組内では、影絵をつかって説明されていました。
私たちは、暗い洞窟の奥で、手足を縛られ、洞窟の壁の方を向かされています。
その後ろには、火が灯されており、その火の前には人形が動いており、
その人形の影が壁に映っているのを見て、
私たちはそれを「現実」と思っている、
というのです。
しかし、手足の拘束を取ってもらい、後ろを振り向くと、
人形や火があることに気づくのですが、
壁に映っている像を現実だと思い込んでいた人には、
事態が全く把握できないのです。
そこで、その人が洞窟の外に連れ出されると、、、
初めはあまりの明るさになにも見えないのですが、
目が慣れてくると、そこには雄大な自然が広がっており
それらを生かしているのは太陽であり、
太陽こそが世界の中心であることに気づく、
という話です。
以下が、その概略図です↓
これって、まさにスピリチュアルの世界観ですよね。
すごいなぁ~。
現実の世界全体が像ならば、その外側は何なのでしょう、、、。
ソクラテスは対話を通じて、みんなを外に導こうとしていたそうです。
しかし、洞窟の壁に映った像が現実だと思い込んでいる人にとっては、
そのようなことを語る人物は、危険な存在であり、
最終的に、ソクラテスは死刑を言い渡されるのです。
ソクラテスというと、哲学の祖といわれますが、
ソクラテスが感得し、伝えようとしていたものは、
実はいわゆる言葉を色々弄して何か概念的な事を語るというもの、
今でいう哲学のようなものではなく、
自らの何かしらの実体験によって感得した、
(あの世を含む)この世の真実を語ろうとしていたのではないか、、
と思うのです。
あの時代に、このようなことをしっかり把握していたというのは、凄い事だな、と思います。
で、前回との関連で、向こうの世界の智について、
考えたことをちょっと書いてみたいと思います。
稲盛氏の発言を見ると、
深層意識に透徹するほどの強い願望をもつことが、成功につながる
ということをたびたび述べており、
意志を強く持つことの重要性を説いています。
一方、悟りの境地として、
すべてはあるがまま完全である、
という立場があります。
老子は無為ということを言いました。
天は無為にして、しかも為さざるなきなり
(天地自然は、何も殊更に何かをしているわけではないが、すべてを成り立たせ、育んでいる)
この受容と意志、言葉をかえるなら、
完全肯定と変革という側面は、
どのような整合性をもってとらえたらいいのか、
と考えてみたのです。
で思いついたのが、
男性原理と女性原理という視点です。
男性原理を、切る作用、意志によって能動的に切り開いていく働きとし、
女性原理を、すべてをあるがままに受け入れる、受容の働きをもつ、
と考えると、
本来、大いなる存在には、
この相反する二つの側面をもっており、
したがって、人間もこの相反する二つの特質を兼ね備えることが、
ひとつの目標になるのではないか、ということです。
神道(古事記)では、
アマテラスオオミカミが地上に降りるニニギノミコトに対して、
三種の神器を与えます。
三種の神器とは、鏡、剣、勾玉です。
鏡、剣は、分かるのですが、勾玉ってなんだ?
ってことになります。
私は以下のように考えました。
神様は人間に、
ものごとを切り開ていてく力(剣)と
すべてをあるがままに映す受容する能力(鏡)を与え、
人間というのは、その両方を兼ね備えた存在であることを忘れるな、
ということで、円と尖った部分からなる勾玉を渡したのでないか、、
ということです。
つまり勾玉というのは、男性原理と女性原理が統合されたものの象徴であり、
それは大いなる存在の特質でもあるとともに、
人間に備わった特質でもある、
ということなのではないかな、、と思ったのです。
これを真言宗の教義に照らして考えてみると、
真言宗では五智ということがいわれます。
大いなる存在(大日如来)の智慧(法界体性智:ほっかいたいしょうち)は、
4つの側面をもつとされています。
大円境地智(だいえんきょうち): 鏡のごとくすべてを映す智慧
平等性智(びょうどうしょうち): ものごと平等性を見る智慧
妙観察智(みょうかんざっち): ものごとの(違い)をよく観察する智慧
成所作智(じょうしょさち): すべてを育み、成し遂げる智慧
これらは、
男性原理としての
妙観察智と成所作智、
すなわち、観察=切るという作用と、意志によって何かを遂行するという意志の作用
が対応し、
女性原理として、
大円境地智と平等性智
すべてをあるがままに映し、物事の平等性をみるという
というように対応しているのではないか、
と考えてみました。
また真言宗では光明真言というものが唱えられます。
おんあぼきゃべいろしゃのう、まかぼだら、まにはんどまじんばら、はらばりたや うん
というものですが、
このサンスクリット原文は以下です。
オーム、アモーガ、ヴァイローチャナ、マハームドラ
マニ、パドマ、ジュバラ、プラバリタヤ、フーン
大いなる印をなす、不空なる大日如来よ、
マニと蓮華と光明を転じたまえ、
とこんな意味です。
ここで、マニとは、すべての願いをかなえるとされるマニ宝珠、つまり自由意志を表しており、
パトマとは蓮華、即ち慈悲の象徴であり、
これは、本来光の存在である私たちが、
男性原理であるマニ(宝珠)と女性原理である慈悲を与えられており、
それらを転じて悟りに至りなさい、
といっているような気がするのです。
悟るというのは、
すべてをあるがままに受け入れる、
というだけになってしまうと、
無為、何もしない、下手したら浮浪者のようなイメージになってしまいますが、
すべてを受け入れつつも、
意志をもって物事をなしとげる(創造していく)
というのが、この世に生を受けた私たちが目指すべき方向なのかな、という気がするのです。
空海が、ダムを建設したり、学校を造ったりと、様々な社会事業に尽力したのも、
この様な思想が背景にあったのかと思うのです。
禅の悟りの段階を説明している十牛図でも、
最後は世俗の生活に戻っているのは大切なポイントなのかもしれません。
悟ったら仙人のように、人里離れたところでのほほんと暮らす、、
というのも全然ありだと思いますが、
もしかしたらそれは、
物事を自ら生み出していく、意志の力を使って創造していく、
という側面が欠けているのかもしれない、、
などと思ったりしたのであります。
ソクラテスや稲盛氏の生き方から感じたことを書いてみました。
おしまい
(プラトンの饗宴についての再放送は、7/31や8月にもあるようです、興味のある方はぜひ!)
参考:
100分で名著 ~ プラトン『饗宴』
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