-
先日NHKスペシャルで
「病の起源 第3集 腰痛 ~それは二足歩行の宿命か?~ 」
という内容をやっていました。
タイトルにあるように、「腰痛は二足歩行を始めた人間にとっての宿命」という言われ方がされますが実はそうではないというのが今回の結論でした。
その証拠として挙げられていたのが、一日に狩りで20キロ以上も歩くアフリカの原住民でした。彼らに腰痛を経験したことがあるかと聞いたところ、あると答えた人が8割ぐらい!?しかしそれらは、蜂蜜をとるのに木に登っていて落ちたとか、どこかにぶつけたとかで、ぎっくり腰のように急に痛みがくるなんてことはないとのことでした。逆に彼らの方から「急に腰が痛くなるなんてどこか病気なんじゃないの」と言われていたことが可笑しかったです。
ぎっくり腰は、背骨と背骨の間の軟骨がずれ神経を圧迫することによって発生する痛みですが、アスリートの背骨の断面写真を見ると、ふつうの人よりしっかりした軟骨でした。つまり適度な運動によって新陳代謝が活性化され軟骨は強く維持されるのです。番組内でも、ウォーキングが推奨されていました。
しかし驚いたのは、腰にかかる加重です。体重73キロのひとが普通にまっすぐ立っているときに軟骨にかかる重量は66キロでしたが、前屈しただけでなんと235キロもの加重がかかるのです。これは静止しているときの数値であって、この姿勢でさらに動くとしたらさらにこの何倍かの力がかかることになるのです。いかに物を持ち上げたり、作業をしたりするときの姿勢が大事かということです。
かくいう私もかつて京都で旅館のアルバイトをしていた時は、10段も積んだ御膳を運んだり、布団の上げ下ろしなどの作業をしているなかで、腰痛とまではいかなくても、腰に違和感を覚えるようになりました。
ちょうどその時やはりNHKのある番組で、引っ越し作業員の腰痛をなくすには、腰に負担がかからないように腰を入れてものを持ち上げることに注意するとともに、腹筋と背筋を鍛えることだということをやっていました。これを見た私は、極力中腰での作業はしない、物を持ち上げ、降ろす時に腰を入れて行う、腹筋背筋の筋トレを実践したところ、腰の違和感から解放されました。ということで腰が痛いという人にはよくこれらの点をアドバイスします。ちゃんとやっている人は、腰痛がなくなっているようです。
前に挙げた健康オタクの水道橋博士の本にも腰痛克服のコラムが載っていて、まさに私の考えと同じものでした。
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俺の持病で、最も長く深刻なのは、椎間板ヘルニアだ。今でこそ、たけし軍団の中でも体を張った仕事をしていない〝ホワイトカラー〟として、腰ぬけ、腰砕け野郎、と非難されることも多い俺だが・・・。<中略>
その後、腰は悪化の一途を辿り、13年前、正式に椎間板ヘルニアと診断され、ドクターストップ。<中略>
以後も年に何回かは、歩行不可能になる事態が続き、椅子に座ったまま、漫才の舞台をつとめた時などは、水道橋博士ならぬホーキング博士講演会の様相であった。<中略>
そこで鍼やお灸、カイロなど様々な民間療法巡りの末、俺が最終的に辿りついたのは、最も単純かつ原始的な腹筋と背筋の強化だったのだ。
イメージとしては、脊椎を割り箸であると考えたら、俺の脊椎は、一度、横に折れた割り箸であり、その折れた先のささくれだった所が、横にはみ出て神経を刺激している状態なのだ。そこで折れた個所を筋肉というゴムテープでぐるぐる巻きにして、二度と折れないよう強化し、ささくれも横にはみ出さないよう、筋肉の圧力で元の状態に収めている。しかし、このゴム=筋肉がゆるんでくると、再び、ささくれ部分が、横にはみ出て神経を圧迫し痛みが出てくる。
この状態をイメージし、腹筋、背筋だけは怠らず、文字通りの粘り腰で続け、もう既に5年以上、深刻な腰痛は回避しているのだから、この方法は功を奏しているようだ。
多くの人が同病相哀れむ国民病の腰痛だが、長く腰を据えた対処をすることが、まさに肝心〝要〟なのだろう。
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このように水道橋博士もホーキング博士状態になることなく筋力アップによる腰痛克服を告白しています。私も毎日欠かさず腹筋と背筋はしていますが、バランス的には腹筋より背筋の方を多めにやる方が体にはいいそうです。
これを知ったのは、バレーダンサーの草刈民代さんの本、『全身「からだ革命」』 講談社 2006 を読んだことによってでした。
この本は自分のガタガタになった体が、ヒーラーの木津龍馬氏のヒーリングや食事の指導、その他の運動療法などによってどのように回復していったかを綴った本ですが、その中で著者が実践したピラティスとともにPNFという運動が紹介されていました。
PNFというのは1940年代にアメリカで誕生したリハビリのための運動だそうですが、PNFの理論によると腹筋と背筋の筋力比は「1:1.2~1.5」らしいです。考えてみると、体の屈曲は前には180度ぐらい曲がりますが後ろにはよくて90度でしょう。つまり人間の体は前により倒れやすくなっている分、それを支える背筋が強くなくてはならないのです。これを知って以降、私は背筋の回数を腹筋より1.5倍くらい多めにしています。(単に回数を増やせば筋力が増すのかは分かりませんが、、、)
だいぶNHKスペシャルの話からそれましたが、放送によると実は腰痛の85%の原因は分かっていないそうでこれには驚きました。だから鍼や灸がもてはやされるのでしょう。特に最近注目されているのが心因性の腰痛で、心的ストレスが腰痛を引き起こす原因になっているそうです。番組内で取り上げられていたのが原因不明の腰痛に悩まされていた作家で、一年間執筆をやめることで腰痛がなくなったそうです。また単純作業でもそこに心理的なストレスが加わると、腰にかかる負担が大きくなるという実験をしていました。
心因性の腰痛というのはもしかしたら“気”の流れ、あるいは停滞が関係しているのかもしれません。だから鍼灸が腰痛に効くとも考えられます。これなども前にブログで書いた、ここぞというときに力まないで息を吐くことを実践していれば、気のエネルギーを体の内、特に腰にため込むことなく済むのかなという気がします。
人間の体は複雑だなと思うとともに、とてもよくできていると思います。なにせ何億年もかけて改良を重ねてきたのだから、ほぼ完成形と考えてよいのではないでしょうか。それゆえ、結構日常の簡単な心掛け次第で健康を維持できるものでもあると私は思うのです。
参考:
NHKスペシャル「病の起源 第3集 腰痛 ~それは二足歩行の宿命か?~ 」http://www.nhk.or.jp/special/onair/081005.html
水道橋博士『博士の異常な健康』アスペクト 2006
草刈民代『全身「からだ革命」』講談社 2006
2008年10月5日日曜日
2008年10月4日土曜日
パンと米
今月10月からまた小麦の値段があがるというニュースを耳にしました。しかしパンは米に比べてもともと割高な食品です。しかもパンは、パンだけを食べるというのでは味気ないので、甘いもの(ジャムや蜂蜜)や油っこいもの(バターやマーガリン)、またその甘いものにつられて今度は苦いもの、水気の物(コーヒーや紅茶)が欲しくなります。ということでパンを食べるというのはどちらかというと不経済であり、かつ色々な嗜好品を引き寄せる引き金となっているように思います。
これは逆の側からもまた言えて、たとえばコーヒーを飲むと、それだけでは物足りないから、甘いもの、また乾いたものが欲しくなり、結局ケーキやクッキーなどを食べる事になります。
これに対しお米はどうかというと、水分も程よく含まれ、また味もニュートラルなので、それだけで食べても十分であり、もし加えるとしたら塩気のものが欲しいかなという感じです。そういう意味でお米というのはバランスのとれた素晴らしい食材だと思います。
かつて読んだマクロビオティックの本の中に、西洋人は主食である小麦をすりつぶして粉にし、それを加工してから食べるのに対し、日本などのお米の文化圏では米という穀物をまるのまま食べるため、それが考えの違いにもあらわれるということが述べられていました。
つまり、西洋で科学という“分化”の学問が発達したのはそのような食のあり方が一因となっており、一方、米をまるのまま食べる東洋の国ではそのような物事を全体から分けて考える発想はあまり発達せず、むしろ全体とのつながりや自然との調和を大事にしてきたと述べられていました。
なるほど、これは一理あるかもしれないと思いました。前に書いたバラモンの菜食主義 ではありませんが、やはり何世代、数千年にもわたってある同じ食習慣を続けていたら、小麦の文化圏と米の文化圏では自ずと考えの違いというのが出てくるだろうと思います。単に食べるということだけでなく、食べる前の作業というのも含めて、世代を通して刷り込まれる影響というのは相当なものだろうという気がします。
季節はすっかり秋になり、店には栗が並ぶようになりました。私が最近ハマっているのは、玄米に小豆と栗をいれて圧力鍋で炊いた、“アズキクリごはん”です。稲作が日本に伝わってきたのは弥生時代のころだと言われていますが、それ以前の縄文時代において日本人は木の実を主食として食べていたそうです。また小豆は古事記にも出てくる日本に古くからある穀物ですが、これの原産地はなんと「インド」だそうです。ということは、縄文と弥生以降の日本人が食べてきたもの、それに私の好きなインドからの穀物が合わさったものが“アズキクリご飯”だったのです。
目の前の茶碗を眺めながら、時にこんな悠久の昔に思いを馳せる今日この頃なのでした。
これは逆の側からもまた言えて、たとえばコーヒーを飲むと、それだけでは物足りないから、甘いもの、また乾いたものが欲しくなり、結局ケーキやクッキーなどを食べる事になります。
これに対しお米はどうかというと、水分も程よく含まれ、また味もニュートラルなので、それだけで食べても十分であり、もし加えるとしたら塩気のものが欲しいかなという感じです。そういう意味でお米というのはバランスのとれた素晴らしい食材だと思います。
かつて読んだマクロビオティックの本の中に、西洋人は主食である小麦をすりつぶして粉にし、それを加工してから食べるのに対し、日本などのお米の文化圏では米という穀物をまるのまま食べるため、それが考えの違いにもあらわれるということが述べられていました。
つまり、西洋で科学という“分化”の学問が発達したのはそのような食のあり方が一因となっており、一方、米をまるのまま食べる東洋の国ではそのような物事を全体から分けて考える発想はあまり発達せず、むしろ全体とのつながりや自然との調和を大事にしてきたと述べられていました。
なるほど、これは一理あるかもしれないと思いました。前に書いたバラモンの菜食主義 ではありませんが、やはり何世代、数千年にもわたってある同じ食習慣を続けていたら、小麦の文化圏と米の文化圏では自ずと考えの違いというのが出てくるだろうと思います。単に食べるということだけでなく、食べる前の作業というのも含めて、世代を通して刷り込まれる影響というのは相当なものだろうという気がします。
季節はすっかり秋になり、店には栗が並ぶようになりました。私が最近ハマっているのは、玄米に小豆と栗をいれて圧力鍋で炊いた、“アズキクリごはん”です。稲作が日本に伝わってきたのは弥生時代のころだと言われていますが、それ以前の縄文時代において日本人は木の実を主食として食べていたそうです。また小豆は古事記にも出てくる日本に古くからある穀物ですが、これの原産地はなんと「インド」だそうです。ということは、縄文と弥生以降の日本人が食べてきたもの、それに私の好きなインドからの穀物が合わさったものが“アズキクリご飯”だったのです。
目の前の茶碗を眺めながら、時にこんな悠久の昔に思いを馳せる今日この頃なのでした。
2008年9月27日土曜日
神道のこころ
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最近よく、伊勢ー白山 道さんのブログを読ませていただいてます。彼は霊的、神的なものを感じる能力がある方のようです。彼の説くところはたいへんシンプルでありますが、同時にとても本質をついていると感じます。(詳しくは伊勢白山道さんのブログまたは、著書『内在神への道』を読んでみてください。)
伊勢白山道さん曰く、最強の祝詞とは、
生かして頂いて、ありがとうございます
だそうです。また続けて
アマテラスオホミカミ・アマテラスオホミカミ
と唱えると良いそうです。
また、ご先祖の方々や神さまに対しては「お願い事」をするのではなく、ひたすら感謝をすることが大切だといっていますが、これと共通する「感謝することの大切さ」を説いた話を最近読んだ本の中に見つけました。
『神道見えないものの力』 葉室頼昭 春秋社 1999
という本です。作者は春日大社の宮司の方ですが、もとはお医者さん(大阪大学医学部卒)という変わった経歴の持ち主で、不思議なことに御親族は(たとえ血がつながっていなくても)みななぜか最終的には宮司をしているという変わった家系のようです。
この本のなかでは、生かされるいることに対する感謝の気持ちをもつことの大切さが説かれていて、なるほどなと思わされる点がたくさんありました。また「自殺」についてや「はたらく」ことの意味の解釈も面白かったのでついでに載せておきます。
------------------
バランスと真実の健康
日本人は、罪・穢、つまり我欲によってバランスが崩れることを知っていたから、常に我欲をなくして、神さまに生かされている生活を目指してきたのです。これは自分でバランスを整えようとしなくても、神さまはちゃんとバランスが整うように、人間の体をしてくださる。そういう考え方です。これが生かされているという考え方です。
自分で生きているというと、自分でバランスを整えなければいけない。不可能ですよ。百パーセントのバランスを自分の力で維持するなんていうことは、できるわけがない。歯を一ミリ削ってもバランスが崩れるわけですからね。
ですから、そんなことができるわけがないから、日本人は罪・穢を祓いましょう。我欲を亡くしましょう。すべて神さまに生かされる生活をしましょう。そうしたら神さまはバランスを整えてくださって、健康な生活をさせてくださる。そういって昔から真実の生活を送ってきたのです。これは最高の生き方だと思います。
ところが、外国人は、薬とか何かで、自分の力で健康を作ろうとするでしょう。そこで間違ってきてしまうんです。ですから、私は日本人の、つまり神道の考え方というのはすごいと声を大にして言っているのです。世界にまれなる考え方ですから、これを実践している日本人が世界を救うというのは当たり前なんです。何でもないようですが、しかしすべて我欲をなくす生き方というものが、これからの人間の生き方の目標にならなくてはならないでしょう。
<中略>
人間の体というのは疑いようもなくバランスで健康が保たれているのです。それは人間の力だけではほとんど不可能です。ですから、「ありがとうございます」と神さまに感謝しなさい。そうしたら我欲が消えてバランスが整います。薬の何百倍も効くパワーが生み出され、病気を消し、バランスを整え、健康になるのです。
<中略>
ですから、病気でも何でも不幸なことは、感謝というものの大切さを分からせるために与えられた神さまのお知らせだと思うんです。さっきも言ったように、夜を知らせるためにはまったく反対の昼を見せなければ、夜が分からないのと同じように、病気というのもを見せなければ、健康のありがたさというのは分からないんですね。
神様はすべて正反対のものを見せて、本当のものを知らせようということなんです。これが自然の仕組みです。神さまがいらっしゃるなら、なぜこんなに不幸があるのか、悩みがあるのかと言う人がいますが、そういうものがなければ、本当のありがたさというのは分からないんです。
<中略>
ですから、病気になったら、感謝が足りないんだなと気が付けばいいんですが、それに気が付かずに、薬とか何かで治そうというから間違ってくるんです。本当に感謝するということが一番大切なことなのです。
(p.180-187)
本当に生きるとは
― そういえば、お年寄りの方の自殺が非常に多いという話もききますね。
これも戦後の悪弊で、ひとつに人間は自分で生きているという考えになってしまってから、こういう自殺というのも増えているんですね。生かされているということを忘れてしまったんでしょう。才能に恵まれた人が自殺をする例が非常に多い。
<中略>
戦後、老人の自殺が多いというのそれですね。自分のことだけ考える。世の中の幸せのために生きるとか、そういうものがなくなってしまった。そうすると、行き詰ってしまうんですね。人間というのはそうではなくて、いつも言うように、神を認め、神をたたえなければいけない。それは人間に対しても同様で、人のいいところを認めてあげてほめるというのが、人の本来の生き方なんです。それなのに逆をやるようになってしまったから、しまいに人生に行き詰まりを感じるわけでしょう。
しかし、神を認めるということに行き詰るということはない。永遠に行き詰まりというのはないわけです。だから、人生に行き詰まりというのはないわけです。自分のことを考えると行き詰りになってしまうんです。
― 自分のことだけ考えていると行き詰ってしまうと。
ええ。だからそうではなくて、人を喜ばせることを考えれば、行き詰りということはないでしょう。一生懸命に働くというのは、外国では労働だけれども、日本語は「はた」を「らく」にする。周りを楽しませるというのが働くということです。これはすごいことだと思うんです。自分のために働くから、行き詰ってしまうんです。そうではなくて、人を喜ばせるためだったら、行き詰りというのはない。どれだけの人を喜ばせたら終わりというのではなくて、対象は無限でしょう。そうすると、自殺なんかしていられなくなるわけ(笑)。
(p.211-213)
--------引用終了----------
最近よく、伊勢ー白山 道さんのブログを読ませていただいてます。彼は霊的、神的なものを感じる能力がある方のようです。彼の説くところはたいへんシンプルでありますが、同時にとても本質をついていると感じます。(詳しくは伊勢白山道さんのブログまたは、著書『内在神への道』を読んでみてください。)
伊勢白山道さん曰く、最強の祝詞とは、
生かして頂いて、ありがとうございます
だそうです。また続けて
アマテラスオホミカミ・アマテラスオホミカミ
と唱えると良いそうです。
また、ご先祖の方々や神さまに対しては「お願い事」をするのではなく、ひたすら感謝をすることが大切だといっていますが、これと共通する「感謝することの大切さ」を説いた話を最近読んだ本の中に見つけました。
『神道見えないものの力』 葉室頼昭 春秋社 1999
という本です。作者は春日大社の宮司の方ですが、もとはお医者さん(大阪大学医学部卒)という変わった経歴の持ち主で、不思議なことに御親族は(たとえ血がつながっていなくても)みななぜか最終的には宮司をしているという変わった家系のようです。
この本のなかでは、生かされるいることに対する感謝の気持ちをもつことの大切さが説かれていて、なるほどなと思わされる点がたくさんありました。また「自殺」についてや「はたらく」ことの意味の解釈も面白かったのでついでに載せておきます。
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バランスと真実の健康
日本人は、罪・穢、つまり我欲によってバランスが崩れることを知っていたから、常に我欲をなくして、神さまに生かされている生活を目指してきたのです。これは自分でバランスを整えようとしなくても、神さまはちゃんとバランスが整うように、人間の体をしてくださる。そういう考え方です。これが生かされているという考え方です。
自分で生きているというと、自分でバランスを整えなければいけない。不可能ですよ。百パーセントのバランスを自分の力で維持するなんていうことは、できるわけがない。歯を一ミリ削ってもバランスが崩れるわけですからね。
ですから、そんなことができるわけがないから、日本人は罪・穢を祓いましょう。我欲を亡くしましょう。すべて神さまに生かされる生活をしましょう。そうしたら神さまはバランスを整えてくださって、健康な生活をさせてくださる。そういって昔から真実の生活を送ってきたのです。これは最高の生き方だと思います。
ところが、外国人は、薬とか何かで、自分の力で健康を作ろうとするでしょう。そこで間違ってきてしまうんです。ですから、私は日本人の、つまり神道の考え方というのはすごいと声を大にして言っているのです。世界にまれなる考え方ですから、これを実践している日本人が世界を救うというのは当たり前なんです。何でもないようですが、しかしすべて我欲をなくす生き方というものが、これからの人間の生き方の目標にならなくてはならないでしょう。
<中略>
人間の体というのは疑いようもなくバランスで健康が保たれているのです。それは人間の力だけではほとんど不可能です。ですから、「ありがとうございます」と神さまに感謝しなさい。そうしたら我欲が消えてバランスが整います。薬の何百倍も効くパワーが生み出され、病気を消し、バランスを整え、健康になるのです。
<中略>
ですから、病気でも何でも不幸なことは、感謝というものの大切さを分からせるために与えられた神さまのお知らせだと思うんです。さっきも言ったように、夜を知らせるためにはまったく反対の昼を見せなければ、夜が分からないのと同じように、病気というのもを見せなければ、健康のありがたさというのは分からないんですね。
神様はすべて正反対のものを見せて、本当のものを知らせようということなんです。これが自然の仕組みです。神さまがいらっしゃるなら、なぜこんなに不幸があるのか、悩みがあるのかと言う人がいますが、そういうものがなければ、本当のありがたさというのは分からないんです。
<中略>
ですから、病気になったら、感謝が足りないんだなと気が付けばいいんですが、それに気が付かずに、薬とか何かで治そうというから間違ってくるんです。本当に感謝するということが一番大切なことなのです。
(p.180-187)
本当に生きるとは
― そういえば、お年寄りの方の自殺が非常に多いという話もききますね。
これも戦後の悪弊で、ひとつに人間は自分で生きているという考えになってしまってから、こういう自殺というのも増えているんですね。生かされているということを忘れてしまったんでしょう。才能に恵まれた人が自殺をする例が非常に多い。
<中略>
戦後、老人の自殺が多いというのそれですね。自分のことだけ考える。世の中の幸せのために生きるとか、そういうものがなくなってしまった。そうすると、行き詰ってしまうんですね。人間というのはそうではなくて、いつも言うように、神を認め、神をたたえなければいけない。それは人間に対しても同様で、人のいいところを認めてあげてほめるというのが、人の本来の生き方なんです。それなのに逆をやるようになってしまったから、しまいに人生に行き詰まりを感じるわけでしょう。
しかし、神を認めるということに行き詰るということはない。永遠に行き詰まりというのはないわけです。だから、人生に行き詰まりというのはないわけです。自分のことを考えると行き詰りになってしまうんです。
― 自分のことだけ考えていると行き詰ってしまうと。
ええ。だからそうではなくて、人を喜ばせることを考えれば、行き詰りということはないでしょう。一生懸命に働くというのは、外国では労働だけれども、日本語は「はた」を「らく」にする。周りを楽しませるというのが働くということです。これはすごいことだと思うんです。自分のために働くから、行き詰ってしまうんです。そうではなくて、人を喜ばせるためだったら、行き詰りというのはない。どれだけの人を喜ばせたら終わりというのではなくて、対象は無限でしょう。そうすると、自殺なんかしていられなくなるわけ(笑)。
(p.211-213)
--------引用終了----------
2008年9月25日木曜日
息を吐く
-
最近、
『鍼を打つ人竹村文近-心とからだ、目覚めへの旅-』 金沢 英子 集英社 2004
という本を読んで、なるほどなと思うことがありました。それは、
ここぞというときには息を吐く
というものです。鍼灸師の竹村氏はよく腰痛の人を見るそうですが、ピアノを弾くにしても、写真を撮るにしても、とにかくここ一番という肝心な時に息を止めて力むと、一時的には力がでるものの、身体がその衝撃をもろに受けることにによって腰痛になるといっていました。
だから腰痛で来院する多くのひとには、ここぞというときは息を吐き、エネルギーを流すように指導しているそうです。そうすると、身体にいいばかりか仕事自体もいい方向に変わっていくそうです。
なるほどと思い、私も日常生活の中で力まなければならない場面でこれを応用してみました。息を吐くと確かに奥歯をくいしばって息を止めるときよりも力はでないような気がしますが、身体に負荷がかからない分楽で、続けられる感じがしました。
また力んで何かをやるというのは、小我でものごとをどこか強引に成し遂げるという感覚であるのに対して、息を吐きながら力まずにするというのは、小我を超えた大きな力、大きな流れみたいなものとひとつになってことが運ぶという気がするのです。
力む=息を止める=我でものごとを押し進める ⇔
力まない=息を吐く=大きな力を利用する
というこの三点はどこかでつながっているような気がします。またこれと関連していると思われるのが、鉢巻をまくのと帯をまくことの違いです。
鉢巻をまくのも、ここ一番という場面だろうと思いますが、気が上に上ってしまって落ち着かなくなるような感覚があるのに対して、武道などで丹田のあたりに帯をまくのは、気を引き締めつつも落ち着いて全体を見渡せるような気がします。
この二つは一時しのぎの力を出すために息を止めることと、息を吐いてリラックスして事に当たることと対応している気がします。
皆さんはどう思われますでしょうか。力を出さなければならない場面がありましたら、是非試してみてください。
最近、
『鍼を打つ人竹村文近-心とからだ、目覚めへの旅-』 金沢 英子 集英社 2004
という本を読んで、なるほどなと思うことがありました。それは、
ここぞというときには息を吐く
というものです。鍼灸師の竹村氏はよく腰痛の人を見るそうですが、ピアノを弾くにしても、写真を撮るにしても、とにかくここ一番という肝心な時に息を止めて力むと、一時的には力がでるものの、身体がその衝撃をもろに受けることにによって腰痛になるといっていました。
だから腰痛で来院する多くのひとには、ここぞというときは息を吐き、エネルギーを流すように指導しているそうです。そうすると、身体にいいばかりか仕事自体もいい方向に変わっていくそうです。
なるほどと思い、私も日常生活の中で力まなければならない場面でこれを応用してみました。息を吐くと確かに奥歯をくいしばって息を止めるときよりも力はでないような気がしますが、身体に負荷がかからない分楽で、続けられる感じがしました。
また力んで何かをやるというのは、小我でものごとをどこか強引に成し遂げるという感覚であるのに対して、息を吐きながら力まずにするというのは、小我を超えた大きな力、大きな流れみたいなものとひとつになってことが運ぶという気がするのです。
力む=息を止める=我でものごとを押し進める ⇔
力まない=息を吐く=大きな力を利用する
というこの三点はどこかでつながっているような気がします。またこれと関連していると思われるのが、鉢巻をまくのと帯をまくことの違いです。
鉢巻をまくのも、ここ一番という場面だろうと思いますが、気が上に上ってしまって落ち着かなくなるような感覚があるのに対して、武道などで丹田のあたりに帯をまくのは、気を引き締めつつも落ち着いて全体を見渡せるような気がします。
この二つは一時しのぎの力を出すために息を止めることと、息を吐いてリラックスして事に当たることと対応している気がします。
皆さんはどう思われますでしょうか。力を出さなければならない場面がありましたら、是非試してみてください。
2008年9月24日水曜日
パトリック・ハーラン氏
-右の写真は、、、
言わずと知れたお笑いコンビ、パックンマックンのパックンことパトリック・ハーラン氏です。
私は毎週欠かさず
NHK英語でしゃべらナイト
を見ているのですが、前回と今回は出演者のパックンがアメリカの故郷に帰るという
パックン里帰りSP in コロラド
という内容でした。
ご存じの方も多いかと思いますが、パックンはハーバード大卒です。アメリカでハーバード卒というとたいていまず聞かれるのが、「家、お金持なの?」だそうです。
というのも、私立で学費がそれなりにかかるという事と同時に、ハーバードやイェールなどのような私立は、1000万円ほどを大学に寄付することによっても入学できるからです。アメリカでは、お金があることもある意味そのひとのもって生まれた能力として評価するそうです。
そういうこともあって、私はパックンもアメリカの裕福な家庭で育ったボンボンなんだろうなぁと思っていました。
しかし事実はまったくの逆でした、、、。
彼の家庭は幼いころに両親が離婚していたので、パックンは母親との二人暮らし、家計を支えるためもあって9歳のころから高校卒業までずっと新聞配達のバイトをしていたそうです。9年間ですよ。
番組の中で、パックンはその時に使っていた自転車と新聞を配る為のバックを笑いながら懐かしそうに紹介していました。
また高校には卒業時の一番優秀な生徒の写真が代々飾られるそうなのですが、パックンの写真もその中にあり、先生いわく、ハーバードに行ったのはその高校始まって以来の快挙だったそうです。
学生時代の苦労話はまったくありませんでしたが、貧しい中でバイトをしながらも常に勉学に励み、成績はトップだったのでしょう。
また現在もそのような苦労を微塵も感じさせない明るさで人を笑わせているというのが本当に人間ができているというか、すごいの一言に尽きると思います。
アメリカの裕福な家庭に育ったボンボンが日本に来てお笑いをやっていたのかと思いきや、実は
道徳の本にでてきてもおかしくないようなとても立派な人物
だったのです。
人を見た目や先入観で判断しちゃだめですよね。ホント今回はこのことを痛感させられました。反省ひとしきりです。
パックンがんばれぇーー!
参考:
NHK英語でしゃべらナイト
パックン里帰りSP in コロラド
パックン里帰りSP in コロラド
2008年9月18日木曜日
ダニオン・ブリンクリー氏とその予言⑤
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ダニオンのインタヴューの後半を載せておきます。
ところで元の英文のHPを見つけたのでアドレスを付しておきます。
http://www.inlightimes.com/archives/2005/01/f1.htm
--------------
TM:あなたのおっしゃる「7つの真実」の二つ目には次のようにあります。「私たちは‘一なるものから発するひとつの力’(a Force of One)として、ここに来ることを選択する。人類により良い変化をもたらすために。真の変化をもたらす力があることを知って。」では、第三世界の国々に住んで餓えや病気に苦しんでいる人々をどう思われますか、、、彼らはどのようにして真の変化をもたらしているのでしょうか?
ダニオン:我々はすべて、人生におけるあるサイクルを経験します。あなたは病気や餓えで苦しんでいる人たちに対して当惑を感じ、質問している訳ですが、まさにそのことによって、彼らはすでにあなたの人生を変える最初の一歩を踏み出したことになるのです。そしておそらくこれが、彼らの個人的な使命におけるもっとも重要なことなのです。私は自分がすべてを知っているかのように振る舞うつもりはありません。私は確かに、なぜ苦しみが存在するかについて、その理由をすべて説明できるわけではありません。しかしそれは、我々の内に思いやりというスピリチュアルな意識を生みだすための一部としてデザインされているのだと私は確信しています。
AP:あなたは本の中で、4つの力の道(the Four-fold Path of Power)について書いていますね。祈り、信念、選択、愛(prayer, belief, choice and love)という四つですが、中でもとりわけ、愛がすべてを克服することのできる最高の力であると述べています。あなたが人生の中で、どのようにして偉大な力としての愛を知るようになったのか、具体的に教えてもらえませんか?
ダニオン:もし我々すべてが4つの道にそって生きようとするなら、自らを開いて、肉体をもったまま私が天国と呼ぶ霊的な場所を体験することができます。量子物理学は、原子が生命を形づくる基本構造であることを告げています。その原子は94.6%が空の空間で、そこには量子物理学がダーク・マター(暗黒物質)と呼んでいるもので満ちています。このダーク・マターの中で、惑星はつり合い、宇宙はまとまりをもち、安定を保っているのです。ダーク・マターというのはルーク・スカイウォーカーがフォースと呼んでいるものです。それを私は愛と呼びます。私が死に移行しつつある人のそばで目撃してきた愛は、私の人生に最大のインパクトをもたらしたものです。
1997年私は「思いやりの行為 トワイラト団」(Compassion in Action/The Twilight Brigade)を創設しました。この非営利の、人生の終末期を支援するボランティア団体は、退役軍人の方々がこの世からあの世へと移行する手助けすることを目的としています。我々は、誰ひとりとして孤独に死んで行く必要はないと思っています。 私個人としては、1万6千時間以上をベッドサイドで過ごし、349人の最後を看取ってきました。私が死を共にした退役軍人の方々の多くは、何ヶ月も病院のベッドに横になっていながら、他に誰一人として彼らを見舞いにくる者はいませんでした。私はまったくの赤の他人でしたが、ただ一つのテーマを携えて彼らを訪問していました。それは、彼らが国に仕え、自由を守ってくれた努力に対して、有難うという私の感謝の気持ちを伝えるということです。 その瞬間、これらの勇気のある人たちがどんな道をたどってきたかに関係なく、彼らは自分達の人生には力と目的があったことを知るのです。その瞬間以上に愛が強力になることはありません。まさにその瞬間、自分は神がお創りになった独自なる存在の一人であることを知るのです。
TM: 本の最終章のタイトルは、「最後のヴィジョン」(The Final Vision)となっています。天国を最初に旅した最中とその後に受け取ったヴィジョンを書いておられますね。これらのヴィジョンは、かなり見通しが暗く、驚くべき内容となっています。あなたは、来るべき世界にもっとも広がっている脅威は何だと感じていますか。
ダニオン:恐れです!我々の行使しうる力を、恐れの力に委ね、気力を萎えさせてしまうことは、人類にとっての最大の脅威なのです。私は、いくつかの憂慮すべき事態が起こるだろうことを書いたことは認めます。しかしそれらは大きな計画全体にとって必要な出来事なのです。 それらの出来事は、地球と人類、両方の進化を促すために計画されているのです。つまり、いつか気づくことでしょうが、我々は多次元の中に同時に生きており、宇宙における存在は我々だけではないということです。しかしこのことは何も恐れることではないのです。これらのことが、我々を脅かすことはないのです。彼らは我々が意識していなくても、調和をとって我々とともにずっと共存してきました。
繰り返しになりますが、我々にとっての最大の脅威は、恐れなのです。 恐れこそが、我々の自由を損なわせている根源なのです。死に対する恐れ、テロに対する恐れ、経済的な保証の無いこと、不安定であることに対する恐れ、これらすべてが我々の生活に対する精神的、肉体的なコントロールを手放してしまう原因となっているのです。恐れの種から、我々は一つの国家の意志を育み、宗教に対する民主主義の優位を示すために、子どもたちを遠く離れた砂漠に送り込み、彼らを死に追いやっているのです。 我々がこういった盲目的な恐れすべてを、力強い愛の光で置き換えるまでは、自分たちの力を政府や宗教、社会制度にゆだねてしまうという不利を背負って生きつづけることになります。私が学んできたのは、我々が様々な点であの世を恐れているために、人生における、いま、ここの大切さを見過ごしてきたとうことです。ヴェールで隔てられたこちら側の生活は、すべての点において天国での生活と同じくらい重要で、両者とも神聖な計画が展開していく事に関わっています。我々は死に対する恐怖をなくさなければなりません。そもそもそんなものは存在しないのだから。
私は死んで、天国を訪れました。私がこの世に送り返されたのは、自分が直接体験した死後の生命存続に関する知識を、地上の人たちと共有するという明快な目的によるものだと確信しています。あの世での生活は、光に満ちていて、成長と美と喜ばしい驚きに満ち溢れています。もしこの本が何かを伝えているとするなら、次のようなものであってほしいと思います。死というものは存在しない。すでにこの世を旅立った父、母、子どもたちが、あの世で楽しく、安全に、とても生き生きと暮らしているということを私たちは理解しなければならない。いのちに終わりはなく、愛はすべてにいきわたっている!
TM&AP:ありがとう、ダニオン。あなたの率直な見解と、たいへんオープンに話しができたことに感謝します。そして待望の本の出版、おめでとう。
ダニオン:どういたしまして。この機会を設けていただいて、ありがとう。
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これで一応ダニオンの予言シリーズを終わりにしたいと思います。
興味のある方は是非二冊の邦訳を読んでみてください。
また三冊目の未邦訳の本を日本語で読んでみたい方は、私の訳で良ければワードに落とした全訳があるので、言って頂ければメールに添付してお送りします。
(私のアドレスは、mshikonのあとにアットマークを入れgmail.comで届きます。)
ダニオンのインタヴューの後半を載せておきます。
ところで元の英文のHPを見つけたのでアドレスを付しておきます。
http://www.inlightimes.com/archives/2005/01/f1.htm
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TM:あなたのおっしゃる「7つの真実」の二つ目には次のようにあります。「私たちは‘一なるものから発するひとつの力’(a Force of One)として、ここに来ることを選択する。人類により良い変化をもたらすために。真の変化をもたらす力があることを知って。」では、第三世界の国々に住んで餓えや病気に苦しんでいる人々をどう思われますか、、、彼らはどのようにして真の変化をもたらしているのでしょうか?
ダニオン:我々はすべて、人生におけるあるサイクルを経験します。あなたは病気や餓えで苦しんでいる人たちに対して当惑を感じ、質問している訳ですが、まさにそのことによって、彼らはすでにあなたの人生を変える最初の一歩を踏み出したことになるのです。そしておそらくこれが、彼らの個人的な使命におけるもっとも重要なことなのです。私は自分がすべてを知っているかのように振る舞うつもりはありません。私は確かに、なぜ苦しみが存在するかについて、その理由をすべて説明できるわけではありません。しかしそれは、我々の内に思いやりというスピリチュアルな意識を生みだすための一部としてデザインされているのだと私は確信しています。
AP:あなたは本の中で、4つの力の道(the Four-fold Path of Power)について書いていますね。祈り、信念、選択、愛(prayer, belief, choice and love)という四つですが、中でもとりわけ、愛がすべてを克服することのできる最高の力であると述べています。あなたが人生の中で、どのようにして偉大な力としての愛を知るようになったのか、具体的に教えてもらえませんか?
ダニオン:もし我々すべてが4つの道にそって生きようとするなら、自らを開いて、肉体をもったまま私が天国と呼ぶ霊的な場所を体験することができます。量子物理学は、原子が生命を形づくる基本構造であることを告げています。その原子は94.6%が空の空間で、そこには量子物理学がダーク・マター(暗黒物質)と呼んでいるもので満ちています。このダーク・マターの中で、惑星はつり合い、宇宙はまとまりをもち、安定を保っているのです。ダーク・マターというのはルーク・スカイウォーカーがフォースと呼んでいるものです。それを私は愛と呼びます。私が死に移行しつつある人のそばで目撃してきた愛は、私の人生に最大のインパクトをもたらしたものです。
1997年私は「思いやりの行為 トワイラト団」(Compassion in Action/The Twilight Brigade)を創設しました。この非営利の、人生の終末期を支援するボランティア団体は、退役軍人の方々がこの世からあの世へと移行する手助けすることを目的としています。我々は、誰ひとりとして孤独に死んで行く必要はないと思っています。 私個人としては、1万6千時間以上をベッドサイドで過ごし、349人の最後を看取ってきました。私が死を共にした退役軍人の方々の多くは、何ヶ月も病院のベッドに横になっていながら、他に誰一人として彼らを見舞いにくる者はいませんでした。私はまったくの赤の他人でしたが、ただ一つのテーマを携えて彼らを訪問していました。それは、彼らが国に仕え、自由を守ってくれた努力に対して、有難うという私の感謝の気持ちを伝えるということです。 その瞬間、これらの勇気のある人たちがどんな道をたどってきたかに関係なく、彼らは自分達の人生には力と目的があったことを知るのです。その瞬間以上に愛が強力になることはありません。まさにその瞬間、自分は神がお創りになった独自なる存在の一人であることを知るのです。
TM: 本の最終章のタイトルは、「最後のヴィジョン」(The Final Vision)となっています。天国を最初に旅した最中とその後に受け取ったヴィジョンを書いておられますね。これらのヴィジョンは、かなり見通しが暗く、驚くべき内容となっています。あなたは、来るべき世界にもっとも広がっている脅威は何だと感じていますか。
ダニオン:恐れです!我々の行使しうる力を、恐れの力に委ね、気力を萎えさせてしまうことは、人類にとっての最大の脅威なのです。私は、いくつかの憂慮すべき事態が起こるだろうことを書いたことは認めます。しかしそれらは大きな計画全体にとって必要な出来事なのです。 それらの出来事は、地球と人類、両方の進化を促すために計画されているのです。つまり、いつか気づくことでしょうが、我々は多次元の中に同時に生きており、宇宙における存在は我々だけではないということです。しかしこのことは何も恐れることではないのです。これらのことが、我々を脅かすことはないのです。彼らは我々が意識していなくても、調和をとって我々とともにずっと共存してきました。
繰り返しになりますが、我々にとっての最大の脅威は、恐れなのです。 恐れこそが、我々の自由を損なわせている根源なのです。死に対する恐れ、テロに対する恐れ、経済的な保証の無いこと、不安定であることに対する恐れ、これらすべてが我々の生活に対する精神的、肉体的なコントロールを手放してしまう原因となっているのです。恐れの種から、我々は一つの国家の意志を育み、宗教に対する民主主義の優位を示すために、子どもたちを遠く離れた砂漠に送り込み、彼らを死に追いやっているのです。 我々がこういった盲目的な恐れすべてを、力強い愛の光で置き換えるまでは、自分たちの力を政府や宗教、社会制度にゆだねてしまうという不利を背負って生きつづけることになります。私が学んできたのは、我々が様々な点であの世を恐れているために、人生における、いま、ここの大切さを見過ごしてきたとうことです。ヴェールで隔てられたこちら側の生活は、すべての点において天国での生活と同じくらい重要で、両者とも神聖な計画が展開していく事に関わっています。我々は死に対する恐怖をなくさなければなりません。そもそもそんなものは存在しないのだから。
私は死んで、天国を訪れました。私がこの世に送り返されたのは、自分が直接体験した死後の生命存続に関する知識を、地上の人たちと共有するという明快な目的によるものだと確信しています。あの世での生活は、光に満ちていて、成長と美と喜ばしい驚きに満ち溢れています。もしこの本が何かを伝えているとするなら、次のようなものであってほしいと思います。死というものは存在しない。すでにこの世を旅立った父、母、子どもたちが、あの世で楽しく、安全に、とても生き生きと暮らしているということを私たちは理解しなければならない。いのちに終わりはなく、愛はすべてにいきわたっている!
TM&AP:ありがとう、ダニオン。あなたの率直な見解と、たいへんオープンに話しができたことに感謝します。そして待望の本の出版、おめでとう。
ダニオン:どういたしまして。この機会を設けていただいて、ありがとう。
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これで一応ダニオンの予言シリーズを終わりにしたいと思います。
興味のある方は是非二冊の邦訳を読んでみてください。
また三冊目の未邦訳の本を日本語で読んでみたい方は、私の訳で良ければワードに落とした全訳があるので、言って頂ければメールに添付してお送りします。
(私のアドレスは、mshikonのあとにアットマークを入れgmail.comで届きます。)
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