2012年12月10日月曜日

究極の真言とは、、、

 
 
12月に入り、いよいよ一年もおしまいですね。
 
この時期に、一年の締めくくりとして、今の心境をつづっておこうかなと思います。
 
 
私は結構いろいろと精神的な教えを学んできましたが、
 
毎日楽しく過ごすキーワードは、
 
笑い 感謝
 
かな~と思ってます。
 
 
瞑想は10代の後半からずっと続けてますが、特に大事なのは感謝の気持ちだと最近つくづく思います。
 
というのも、この世とあの世を貫く法則に波長の法則というものがあり、
 
こに波長をあわせるかで、その人の心の状態が大きく左右されるからです。
 
もし楽しい気持ちで過ごしたいなら、
 
やはり神様に近い心境、明るく、思いやりの気持ちでいることは大切だと思います。
 
特に瞑想は心をカラにするので、良きにつけ、悪しきにつけ、この波長の法則をもろに受けるようです。
 
従って、瞑想中であろうが、日常生活の中であろうが、ネガティヴな想念、言葉はさけ、
 
陽気で感謝の気持ちを常に心がけることは、極めて重要であり、それがすべてだという気がするのです。
 
 
最近は瞑想中だけでなく、普段の生活の中でも、
 
すべてはやさしさに満ち満ちているんだな~、
 
としみじみと感じることがよくあります。
 
仏教でいうなら慈悲、キリスト教でいうなら“”という表現になるのでしょうが、
 
私がいちばんしっくりくる言葉は
 
慈愛
 
です。
 
この世は、なんと慈愛に満ち満ちているのか、、
 
と時に、感極まって泣きそうになってしまうことがあります。(ヤバ、、(笑))

うまく説明できないのですが、
 
こうして生きているというのは、ものすごく貴重で稀有な体験であり、
 
常にものすごい温かい愛のまなざしで見守られている感じがするのです。
 
 
例えるなら、水槽に熱帯魚を飼っているとして、
 
その魚は飼い主から、水槽や水、砂利を用意して貰い、水草を植えて貰い、サーモスタットを入れてもらって温めて貰って、
 
定期的に餌を与えられているという、なんとも恵まれた環境で過ごしている訳ですが、
 
当の魚はその環境は当たり前当然のものとして受け取っている訳です。
 
でも、その空間で熱帯魚が生きているというのは、スゴイことなのです。
 
ものすごいケアがあって初めて可能なことなのです。
 
このたとえがあっているのかどうか分かりませんが、これに近いものがあって、
 
私たちがこうしてただ生きていること、生かされていることが、
 
なんと貴重な事なのか、なんと温かい眼差しで見守られているのか、
 
とただ訳も分からず感じいってしまうことがあるのです。
 
これ以上、なにを望むのか、、と。
 
 
日本語にありがとうのかわりに、すみません、という言葉がありますが、
 
最近なんで、“すみません”なのか分かる気がするんです。
 
それは、こんなに気をかけて頂いて、もったいない、ごめんなさいねという気持ちなんです。
 
感謝のの字は、謝罪のですよね。
 
すまない、という気持ちをあらわすのが感謝ということを最近よく感じるのであります。
 
ホント、すんません、たくさん頂いてしまって、、、
 
ありがとうございます
 
ってそんな感じなんです。
 
 
で、そんな感謝の波に圧倒されてしまうときに思いだすのが、ユングの晩年の言葉です。
 
彼は亡くなる何年か前に、臨死体験をしているのですが、その体験後に次のような事を言っています。
 
私は臨死体験をしてあることに気づいた。
 
それはすべてのことに対して無条件にYESと肯定することである、
 
と、そんな趣旨のことを述べています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
あー、そんな感覚だよ、とふと思うのです。
 
仏教的にいうと、
 
あるがまますべてよし
 
とそんな感じでしょうか。
 
そして、胸に浮かんでくる言葉が、
 
ありがとう
 
ただ、これだけなのです。
 
何に対してでなく、すべてに対してです。
 
 
そしてこの“ありがとう”は、
 
ただ受け身で浮かんでくるにまかせるだけでなく、
 
ありがとう、ありがとう、
 
と、いつ何時、真言のように唱えてもかなりの効果があるようなのです。
 
歩きながら、自転車に乗りながら(笑)、ジョギングしながら、
 
チベット体操をしながら、料理しながら、皿を洗いながら、、
 
太陽が照っていれば、ありがとう、キレイな花が咲いていれば、ありがとう、です。
 
 
で、気づいたのは、諸々の精神的な教えの中に真言(マントラ)というものがありますが、
 
おそらく究極の真言は、
 
ありがとう
 
ただこれだけではないのか、ということです。
 
英語圏の人なら、サンクス、だし、他の言語のひとは、その言語にある感謝の言葉です。
 
 
私がチベット文化圏にいたころ、チベットの人たちは、
 
オンマニペメフーン
 
と観音の真言をよく唱えていました。
 
 
 
 
数珠をくったり、お寺のマニ車をぐるぐる回したり。
 
私も真似して、オンマニペメフンを唱えたり、お寺に行って勢いよくマニ車をぐるぐるまわしたりしたものですが(笑)、
 
あんまり神聖な気持ちにはなりませんでした。
 
本当にその意味、マニ(マニ宝珠)、ペメ=パドマ(蓮華、慈悲)を感じて唱えるなら別なのかもしれませんが、
 
ただ呪文のように真言を唱えても効果はないと思います。
 
それはチベット人にとっても同じだと思うのです。
 
もっと身近で手軽かつ強力なチベット人にとっての真言は、ありがとうを意味する
 
トゥジチェ ナン
 
ではないのか、と今になって思うのです。
 
オンマニペメフンを何万回も唱えるなら、
 
感謝の気持ちを生じさせるトゥジチェナンを毎日の生活の中で発している方が、
 
相当心境が高まるのではないか、と思うのです。
 
 
 
 宗教においては、真の神様の名前がどうとか、神様の形象はどうとかで争ったりしますが、
 
あまり意味のないことだと思うのです。
 
 
言葉とはイメージを喚起するものなので、その人にとって聖なるイメージを喚起することばなら、
 
それがその人にとっての神様を示す言葉だと思うのです。
 
 
神様の形象にしても、例えばイスラムでは偶像崇拝を禁じていますが、私はそれもよく分かるのです。
 
すべてを生み出すもの、大いなる存在に決まった形などないですから。
 
でも言葉と同じで、その人、ある文化圏のひとたちにとって、聖なる存在を喚起する形象というものがあるように思います。
 
だから、形はあってもいいし、形がない、といってもいいのです。
 
神道では神様を偶像化してませんが、私は真言宗の教えを学んだこともあり、
 
やはり大日如来(マハーヴァイローチャナ)が、一番しっくりくる図像です。
 
 
 
 
 
しかし、どの文化圏にあっても、
 
究極の真言は、ありがとう、を意味する言葉ではないかと思うのです。。。
 
 
 
ありがとう、と感謝の気持ちで満たされてるとき、
 
誰に、どうやってこの感謝の気持ちをお返したらいいのか、ホントよく分からなくなって、とまどってしまうことがあります。

そのとき思い浮かぶのは、仏教の回向という言葉です。

回向というのは、回すということですね。

つまりこの気持ちを“行為”を通じて、
 
周りの人たち、周りの生き物、目に見えない諸々の霊の方々にお返しすればいいのかな、と思っています。
 
 
この前、自転車でツーリングに行った際に、ある神社に寄ったのですが、
 
そこに下のようなポスターが貼ってありました。
 
伊勢神宮のポスターで、そこには「ありがとう」と大きく書かれていました。
 
 今の心境にとても近いものがあるので、載せておきます。 

 
 
 



太陽に、光に、この星の温かさに、ありがとう。

雨に、川に、きれいな水に、ありがとう。

大地に、杜に、お米に、ありがとう。

祖先に、父に、母に、私の命に、ありがとう。


感謝するべきものに気づいたら、大切なものを守ることができます。


この鳥居の向こうでは、二千年以上ものあいだ、

感謝の心を捧げる祈りがつづけられています。



つづく、のかな、、、


参考:

アマゾン:

ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)

ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)





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