2016年7月31日日曜日

津久井やまゆり園 障害殺傷事件について思う




とても痛ましい事件が起きてしまいました。

とても悲痛で、残念な気持ちになる一方、

私は加害者を一方的に批判する気持ちにもなれないのです。


私はキリストの言葉を思い出します。

「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」

当時、石打の刑に値する罪を犯した女性を前に、キリストは、

このよう述べたといいます。〔ヨハネ8-3~11〕


今回の事件で、加害者は、

障害者はこの世からいなくなればいい

と言っていたといいます。

では、もう少し広げて、我々の中で、

(自分と異質な)あの人がいなくなればいいのに

と心の中で思ったことのない人がいるでしょうか。


また、ふとしたことがきっかけで、

普段なら決してとらない言動をしてしまった

ということがない人がいるでしょうか。

自分を振り返ってみるとき、そんなことは一度や二度では済みません。


もし自分が加害者と同じ境遇に育ったなら、

自分も或は同じことをしてしまったかもしれないことを思うと、

彼を悪の権化のようにただ非難することはできないように思うのです。


また加害者は、措置入院先の病院で

「ヒトラーの思想が降りてきた」


などと言っていたようです。

このブログでも取り上げたように、

ナチスはまさに、ユダヤ人の虐殺を始める前に、

20万人にも及ぶ障害者を虐殺していたのです。


彦兵衛のブログ: な、なんじゃこれゃ~、写真じゃないのぉ~!!!2015127日〕



あの聡明な国民であるドイツ人が、

国を上げてシステマティックに障害者を社会から排除していたのです。

つまり世が世なら、彼の行いは勲章ものだった

ということもできるのです。


また、通称アイヒマン実験でも分かっているように、

そのような残虐な行為は、実は誰でもやってしまう可能性がある

ということがアメリカの心理実験によってわかっています。


私は、残虐な事件が起こった際、

とんでもない悪がなされた!

と声高に叫ばれるときにこそ、

逆に危険が潜んでいるように思うのです。


あの悪をなしたものを、正義の立場にある私たちがなんとかしなけばならい、、と。

そこには、憎悪と復習と排除の原理があります。

でも考えてみると、加害者に対するその感情は、

まさに加害者自身が抱いていた原理そのものではないでしょうか。


私たちはそのようなとき、

自分たちが正義の立場にあるように思う時にこそ、

もっと謙虚さをもつ必要があるように思います。


宗教者なら、慈悲の心、大いなる愛をもって、

罪を憎んで人を憎まず

ということになるのでしょうか。


少なくとも私たちは、

憎悪や嫌悪、復習や排除の気持ちからではなく、

加害者を理解しよう

という態度で接することができるのではないかと思うのです。


加害者を自分たちから切り離して、

あのような悪魔のような所業をなした者は、

異常なんだ、特別なんだ、

ととらえることもできます。

しかし私は、加害者を自分の延長としてとらえたときにこそ、

そこに学びがあると思うのです。


物理学の法則が、“異常な現象”

(例えば、光の速さとか、強い重力場や極微の世界でのものふるまいだとか、)

日常の物理法則の延長としてとらえた時に発展があるのと同じで、

彼らの、心理、振る舞いを私たちの延長としてとらえた時に、

いち人間として、人類としての進歩があるように思うのです。


なので、慈悲の心で見ることができないとしても、

少なくとも理解の姿勢で加害者に接したいと思うのです。









という本があるのですが、

実は、犯罪を犯すひとのかなりの割合の人が、

精神障碍者や知的障害者であることが指摘されています。

実は、刑務所は第二の社会福祉施設という呼ばれ方があるのです。


今回も、措置入院の後のフォローのことが問題になっていますが、

司法と福祉の間には制度的に溝があって、福祉で捉えきれなかった人が

刑務所が受け皿となっているという実態があるのです。


それを考えると、犯罪を犯した人を一方的に非難するということは

とてもできないな、と思うのです。


また何が正しいのか、ということに関しても、

時代によって変遷しています。


極端な例が、1930年代のドイツの正義(ナチス)ですが、

では現代はどうなのか。


たとえば、4か月くらいまでの胎児を堕ろすことは認められていますが、

それは殺人ではないのか?と指摘する人たちもいます。


また私は、動物園で動物を飼っていいのか?

と時にふと思ったりします。

何もしていない人間を檻に入れれば監禁という罪になりますが、

野生の動物を彼らの故郷から連れ去って、

人間の観賞用に閉じ込めておくのはいいのか?

と。


ある時代、ある地域で正しいと考えられていることも、

別の地域、また後世の人たちからすると、

よくもあんな残酷なことができたものだ、、

ということになり得るということです。


だから私たちは、時に立ち止まって、当たり前に正しい

としていくことに対しても、振り返ってみなければならないと思うのです。


どこに正しさの線引きをするのか、そのラインというのは、

時代や地域によって異なるのです。

そして、その線引きをひょいと変えてしまうときに使われるのが、

イメージのすり替えです。


ユダヤ人はブタだから、動物のように扱っていい

だとか、そのようなイメージの変換によって、

人は簡単に残虐な行為をすることもできます。


私自身、障害者って本当に必要なのか、、

と考えたことがあります。

突き詰めてみると、それは、

労働生産性があってこそ人間に価値がある

という考えに基づいていることがあるが分かります。


では、そうした場合、赤ちゃんは別にして、

老人は無用ということにはなりはしないか、

またペットや庭の草木も不要ということになりはしないか、

(労働生産性がないものすべてが無用ということにもなってきます。

私は生きている意味の一つは学びにあると思っています。

そしてその学びというのは、対象物があって初めてできるのです。

他者は自分の鏡

という言い方がありますが、まさにいろんな角度の鏡があってこそ、

自分をよりよく知ることができるのです。


そういう意味で、障害者の方々は色々なことを教えてくれます。


自分も同じようなことやってるな~、とか

もっと自分もこうしなきゃな~、いかん、いかん、

などと思わされることがかなりあります。

また彼らの存在によって、心から癒されることもあります。


そういう意味で、

障害者の方々は存在しているだけで価値がある

と私の中では結論づけています。

ご家族や周りで支えるひとたちが大変なのは重々わかっています。

ですが、多様性というものを認めてこそ、真の平和な社会が築かれると私は思うのです。


いまドイツは、難民を多数受け入れています。

もしかすると、あまりに寛容に受け入れすぎて、

今度はまた移民排斥の方向に振り子が大きく傾くかもしれません。

理性だけで自分を律して過ぎてはいけないと思うし、

感情に走り過ぎてもいけないと思います。

そこら辺は、無理をしないように、ほどよいバランスを保ってということになるでしょうか。


私たち生命体は、異質なものを排除することによって成り立っているともいえます。

異質なるものを排除しようとするのは、私たちの性なのかもしれません。

しかし一方で、多様な生き物がいて初めて私たちが生きている、生かされている

という実態もあります。


話が広がり過ぎてしまいましたが、

今回の事件、極端に走ることなく、

冷静に、できたら理解の心をもって見守りたい

と思うのであります。


今回亡くなられた障害者の方々には、心からご冥福をお祈りします。

今後、このような痛ましい事件が起こらないことを想いつつ、、。





0 件のコメント: