神社のような空間に来て思うのは、
一見非生産的に思えるような場所を確保しておくって
とても大事なことなんだろうなぁ~ということです。
藍ちゃんの「スランプに有難う」の所でも触れたように、
時間の中における非生産的なスペース
すなわち、人生の中の冬の時期、もぐる体験が次の飛躍の為に大切な様に、
一見無用に思える神社のような非生産的なスペースも、
実はものすごく大切なのだと思うのです。
厳しい冬があればこそ春があり、雨があるからこそ晴れのありがたさが分かります。
価値があると考えられているもの、スポットが当てられがちな側面を"陽"、そうでない側面を"陰"、
あるいは「実と虚」、「表と裏」、「顕と密」と当ててもいいのですが、
ものごとはこのような陰と陽が組み合わさって運行、存在しているように思います。
ここでは、仮に「実と虚」をあてるとすると、
"実"に大きく出るためには、それなりの"虚"をしっかり体験しなければならず、
逆に虚を疎かにして、あるいは虚の体験なくして実を得た場合は大きなツケをあと跡払わされるような気がします。
これは時間の流れだけに限らず、空間的な虚実の配置についてもいえそうです。
また、光には粒子性と波動性とがありますが、これに「実と虚」をあてて考えてみることも出来るように思います。
そしてこれはあらゆるものごと、あらゆる現象にも言えることで、
粒子性の強いものを私たちは、物質といいますが、実はすべては振動によって成り立っています。
仏教ではこれを色(シキ)と空(クウ)と表現したように思います。
色(シキ:イロ、カタチあるもの)もその実態は、空(クウ:個なる実態などない)と捉えています。
空性の説明として私が分かりやすいと思うのは、大日経にある旋火輪(セカンリン)のたとえです。
旋火輪とは、火のついた玉をひもの先につけて、ぐるぐるまわしてできる赤い輪のことです。
旋火輪は、赤い輪が"ある"ように見えますが、実際は火の玉がぐるぐる回ることで円という形が仮に出来ているように見えるだけであり、
その元となっている火の玉も、めらめらと燃える炎というあまり実体のないものです。
全ての現象は、この旋火輪のように回転や振動によって仮に存在しているように見えるというのが、おそらく正しい理解なのだろうと思います。
しかし私達の感覚としては、それを実体のある"個"としてとらえる習慣が強力にできあがっているのだと思います。
宇宙の爆発の中に、生命の爆発があり、、その中に"個々"の生命の爆発があり、
更にその中に、呼吸、心臓の鼓動、細胞の代謝、そしてそれらを構成している原子、素粒子の振動があるという、
波の中に波があり、その波の中に更に波があってという入れ子(フラクタル)構造になっているようです。
そしてそれぞれに個としてのカタチをなしていると思えるものもすべて、
旋火輪の如く、振動によって仮にそう見えているだけなのかもしれません。
だいぶ話しがそれましたが、
神社のようなスペース、
あるいはまた昔は田んぼを作るにも必ず他の生き物の為にとっておく沼のようなスペースを確保しておいたそうですが、
そのような空間的な"虚"のスペースは"実"を支える重要な役割を果たしているようです。゛
実の効率をとりすぎて、虚を削って行くと、実の方が萎えていくというふうになっているように思います。
睡眠を削れば効率が上がる訳でもなく、遊びをなくせば、無駄がなくなるわけではないのです。
昔の文明の多くは、木を伐採していったことによって滅びたそうですが、
森林のような一見無用な土地、虚のスペースも実は人間の実生活を支える上で大事な役割があったのです。
いまの日本の国土の七割が森林というのは、そういう意味でとても安心できることです。
虚の時間、虚の空間をしっかりと確保することは、なにごとにおいても大事なことだと思うのです。
神社にくるたびにやすらぎを覚えるのは、実の世界から離れ、
虚の空間で虚の時間をすごすことにあるのではないかという気がするのです。
なんか観念的な話しになりすぎちゃいました。
なんとなくかいておきたかったので、、、。
次回はちゃんと三浦富士に登った時の写真をアップ致します。
参考:
彦兵衛のブログ:
スランプよ、ありがとう!
http://mshiko.blogspot.com/2010/11/blog-post_20.html
生命は爆発だ!
http://mshiko.blogspot.com/2008/07/kolkata-20-250-1-1925-250-80-7-12.html
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