2010年12月31日金曜日
遊園地のリピーター
一年の締めくくりとして、ちょっとおマジメな話し
私のいまの見解でも書いておこうかなぁ~、と思います。
これまでも何回か書いてきたことですが、それをひとことで言うと、
あるがまますべてよし
ただこれに尽きます。
が、これだけでは分かりにくいので、もう少し噛み砕いて説明してみましょう。
人はなぜ生まれ、どこへ向かうのか。。。
まず第一に、臨死体験の研究などが示しているように、
人間は死んでも意識は残り、さらにインド哲学が示してきたように
人は転生を繰り返している、という見解に私はたっています。
自分のつたない体験を書くと、
私はインドや南米を旅していたことがありますが、ある所に来ると、
お、ワシここにいたことがあるも、、、
と強く感じる所がありました。
前は確か、あそこに住んでたよーな、、、
とそちらを振り向くと、ただ原野が広がっているだけで、とても寂しい気分になることもありました。
そもそもこの地球上で、ある特定の場所に行きたい!!
と強く思うこと自体が、何かしら自らの過去生と関連しているから、とも言われます。
(単なる希望的な思い込み、ということも十二分にありえますが(笑))
では、人は輪廻する存在であるとして、
私たちが「個」としての意識を獲得する以前、意識はどのような状態にあったのでしょうか。
おそらく、意識は何か大いなる心(=神)と一体であったのではないか、と私は思います。
悟りとは、個を失くすこと、そもそも個などというものはないことに気づくこと、
大いなる心と一つになること、そもそものはじめから"大いなる心と一つであること"に気づくこと、
といえるかもしれませんが、
個を失くして再び大いなる心と一体となった後、ではどうなるのでしょうか。
私はまた大いなる心が分化して、「個」という意識を生み出していくと思います。
つまり大きな大きな流れとして、
意識は"大いなる一体"の状態から個へと分化、
そしてまた再統合という壮大な循環を繰り返しているのだという気がします。
そうすると、意識はぐるりと輪になった線路の上を電車が走っているようなもので、
どこが先頭で、どこが後ろなのか、
どこにいるのが進んだ状態で、どの状態が劣っているのか、
などと言えないのだと思います。
つまり、あらゆる体験に価値があり、無駄なことなど一切ないのだということです。
なぜなら、体験することそれ自体に価値があるからです。
転生は遊園地に遊びに行くことにたとえることができるかな、と思います。
多くの人は、遊園地に遊びに来ていることを忘れて、
今いるところがすべて
だと思っている状態にいるような気がします。
多くの聖賢は、
遊園地(現世)がすべてではないこと、
遊園地に入ってくる前にいた場所があること、
さらに、遊園地から出る道、遊園地のリピーターにならない方法などを、
その聖賢が生まれた時代、文化、あるいは聞き手の資質(機根)にあわせて説いてきたように思います。
しかし残念なことに、多くの教えは宗派を形成し、
逆にそこに属する人たちの"我"を強化するための道具となってきたように思います。
さてそれはおいておくとして、
遊園地にそもそも来るって何のためでしょうか?
それは単に、
遊ぶため、
もう少しカッコよく言うなら、
経験を積むため
といえるでしょうか。
いずれにしても、魂の大きな循環、
大いなる心から始まって、個を生み出し、さらに大いなる心へと帰っていく
という流れを考えると、
遊園地で夢中になって遊ぶもよし、
飽きて出口を探して歩いてゆくのもよし、
楽しかったらリピーターとなってまた遊びに来るのもよし、
すべてアリ、
ありがたや、ありがたや
ということになるのでしょうか。
それがつまり、
あるがまま、すべてよし
ということです。
人生における目標は、悟りである
という方もいらっしゃいます。
私もかつてはそう思っていましたし、いまでも多少思ってます。
でも、大きな宇宙的な時間の流れからすれば、
たぶんそれは一面的な見方でしかないでしょう。
ただ、人はそれぞれ"選択"をして生きていく訳ですが、
その為には、そもそもどのような選択肢があり得るのか、を知っておく必要があります。
この遊園地がすべてである、
という見解をもっている人が周りにほとんどという世にあっては、
そうでない見解をお持ちの方々に触れたり(アブナイ、アヤシイゲな方々も多々存在!?)、
そのような人たちのご本を読ませて頂いたり、
やはり一人の体験だけでは、情報が圧倒的に少ないので、
他の様々なソースから情報を得て、どのような選択肢がありうるのか知っておきたいものです。
自らの生体としての体を見てみると、
それが個として存続するのに物凄い努力、エネルギーを要しているのが分かります。
それと同じように、意識における"個"を維持するのにも、
実は相当な努力が払われているのではないか、と私は思います。
従って個を失くすことは、もしかしたら意外と簡単なことなのかもしれません。
個を維持するためにやっている無意識の努力?のようなものに気づき、
それをやめればいいのではないか、という気がします。
しかし生体が傷つくと痛みがともなうように、
意識としての"個"をなくすのも、そうとうな痛みが伴うことでしょう。
あまり努力すると、返って我が強くなるようにも思います。
ほどほどに努力?して、あとは流れにまかせる、というのがいいのではないか、と私は思います。
そのためには、
好きなことをする
に限ります。
なぜなら、流れに乗るのは、"楽"なことであり、それは"楽しい"ことであり、
楽しいことは、好きな事をしているときだからです。
しかしその自分が真に好きなことをするには、
自らをよく観察して、自分が本当に何が好きなのか、何をやりたいのか、
をよく見極め、
他人に左右されない自分のカタチ、自分のリズム、自分のスタイルというものを知る必要があります。
結局は、
己をよく知ること
に尽きるのでしょう。
その己とは、究極的には、己でないもの、に通じているからです。
意志の行為によって自らの意志を超えることはできない
というスーフィズムの見解にも通ずるものがあるかも知れません。
最後に、大日経の住心品(じゅうしんぼん)に書かれている有名な一節(如実知自心)と、
ゾクチェンの教えのエッセンスをあますところなく表現しているとされる
六行の金剛詩『覚醒の境地のカッコー』
をあげておきましょう。
大日経住心品より
漢文:
秘密主云何菩提。謂如實知自心。
訳:
秘密主(大日如来)よ、悟りとはなんですか?
答えて曰く、あるがままに自らの心をしることである、と。
チベット文(訳):
秘密主(大日如来)よ、それでは悟りとはなんですか?
自らの心を正しく、あるがままに、悉く知ることであって、
それはまた、この上ない、正しい、完全な悟りである。
六行の金剛詩『覚醒の境地のカッコー』
多様な現象の本性は不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
あるがままの完全な境地にとどまること、それが三昧だ。
アレレ、なんか遊園地から出る方に話しが行っちゃったかな、、、。まいっか。
さて、年越し蕎麦も食べたし、明日は海岸に行って、
初日の出でも見よーーっと。
いい写真撮れたら、またアップしま~す。
それでは皆さま、良いお年を!
参考:
大乗仏典―中国・日本篇 (8) 中国密教 中央公論社 (1988/07)
ゾクチェンの教え―チベットが伝承した覚醒の道 地湧社 (1994/04)
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