遊びの最後として、精神科医町沢静夫さんの著書
遊びと精神医学―こころの全体性を求めて
吉本隆明 著, 町沢静夫 編 創元社 (1986)
から「遊び」に関わる個所を引用して終わりにしたいと思います。
この本はずいぶん前に読んだものですが、「遊び」に関してナルホドと思わされる事が多くあったので、ピックアップしてあったものです。
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分裂病の患者の人の中にはどんなに状態が悪くても、何か遊びのできる人、また自然に遊びを始めている人ほど回復がよいということを感じていた。
患者がいかに妄想や幻覚をもち、支離滅裂な状態であっても、喜んで卓球をやったり、野球やテニスに夢中になったりしていた人は知らぬ間に寛解状態に到っていることが多かった。
またスポーツでなくともゲームや歌の好きな人でも同様のようであった。さらに言うなら同じスポーツ好きでも、器用な人ほど回復力が旺盛だという印象を受けていた。(p.5)
遊びの持つ自由性は程よい退行を生じさせると共に、言語を使わないで感情を表現することは感情のもつ不合理性にとって欠かせない。
従って遊びによる一時的、部分的退行は心理療法のみならず、日常生活にも精神的健康上も重要である。(p.22)
ユーモアは体液という意味から発生したものであるが、「遊」とは水の流れのように、よどまず自在に動くことを意味するという。
本来宗教的な神霊の動き回ることに主に使われていた。従って「遊び」とは「人間的なものを越える状態」「神とともにある状態」であった。
論語にも「仁に依り、藝に遊ぶ」とあり、「藝に遊ぶ」ことを、孔子も人の至境としているという。
この遊の本来的意味を考えても「遊」とはよどまず流れるが如く動くこととし、
さらにまた人間的なものを超えたものと共にあるということであり、
このことを現代流に人間の無意識的生命、ないしユング派的な元型に接していることを考えてみると、
「遊」とは精神療法が目指す本質であり、人間の生きることの秘密とも言えるかもしれない。 p.50)
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町沢静夫さんは、自らの精神科医としての臨床経験から遊びの重要性に気づいたそうですが、
遊びというのは宗教的なことがらとも通ずる、人間の本質に関わることのようです。
そういえば子供って、そこまでするかっていうぐらいよく遊びますが、
あの遊び心、そして笑いというのは人間であることの証しなのかもしれないなぁと思うのです。
大人になっても日常生活に遊びやユーモアを積極的に持ち込むこと、
また人生自体も大いなる遊びとして見てみることで、心に余裕が生まれてくるのかなぁと思います。
最後に、私がこの本を読んでいた同時期に、興味をもって読んでいたスーフィーの本
の中の一節が、今回の「遊び」の引用文の近くに抜き書きされていたので、それを引用して締めくくりとしたいと思います。
われわれは意志の行為によって自分自身の意志を越えることはできない。 (p.36)
参考:
町沢静夫(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E6%B2%A2%E9%9D%99%E5%A4%AB
遊びと精神医学―こころの全体性を求めて
吉本隆明 著, 町沢静夫 編 創元社 (1986)
説明:精神医学の臨床においても、遊びの問題は重要なテーマである。第1部で、心理学、生物学、人間学的視点から遊びの問題に迫る。第2部では吉本隆明を相手に鋭い対話を交す。
目次
第一部 遊びの精神医学的意義
遊びの生物学
遊びの心理学的機能
病前性格と遊技性 など
第二部 吉本隆明との対話
遊び、芸術、精神医学
フロイト、ユング、そして人生
スーフィー イスラムの神秘階梯
イメージの博物誌16 ラレ・バフティヤル/竹下政孝 訳 平凡社 1982
説明:イスラムの神権主義者<スーフィ>にとって、瞑想・称名らの修行も、種々の造形表現も、<神との合一>へといたる諸階梯を象徴していた。詩、絵画、紋様、建築など、日常の世界のなかに、スーフィの、そして神の隠された意味をよみとる。
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