貪欲(とんよく)とは、仏教で三毒と呼ばれる代表的な煩悩のひとつです。
三毒とは、貪瞋癡(とんじんち)の三毒といわれるもので、無明・貪り・怒りをさします。
無明、すなわち自分たちの存在に対する根源的な無知、私たちの心の本源には光に満ちた至福の境地があるということを知らないことによって、
外的な刺激による満足を得ようとする貪りの心が生じ、
そういった欲求は、さらに大きな不満足感を生み、満たされることがないので怒りが生じる。
これが三毒です。
チベットの六道輪廻の図においては、
中央に豚と鶏と蛇がお互いのしっぽを噛みあって円をなしている様子が描かれています。
豚は無知を鶏は貪りをそして蛇は怒りを表しています。
この三毒が引力となって、私たちは延々と輪廻の輪の中で生まれ変わりを繰り返しているとされています。
(しかし実際は人間が他の動物に生まれ変わることはないようですが、、)
さて、それではまた元に戻って、どうして貪りの心、もっと欲しい、もっと欲しいと思う気持ちが生じてくるのでしょうか。
それは心が満足を得られないからです。常に不満足を感じているからです。
そして、その不満足の解消法には、二つのアプローチがあると思います。
一つはいまの人類の文明がひたすら追い求めてきた、外的な刺激によって感覚器官を喜ばそうとする方法で、どちらかというと貪りを助長する方向のものです。
もう一つのアプローチは、仏教をはじめとする多くの宗教が説いてきたように、感覚器官を静めて、瞑想や祈りを通じて心の本源に至ろうとする満足の得方です。
おそらく、前者の方法によってこれまでと同じような満足の得方を続けようとするなら、大きな破たんを来たすだろうと思います。
なぜなら、外的な刺激の対象は常に変化し過ぎ去っていくものであり、また刺激は常に大きなっていかないと満足をえられなくなってくるからです。
よくお金持ちが美食を追求していった挙句、最終的に普通の感覚からすると腐ったようなものとしか思えないものを美味しいと感じるようになったりする場合がありますが、
これに見られるように、感覚は常にさらなる刺激を求める傾向にあります。
先にあげたように、すでに人間の健康や経済、社会のシステムの中で、貪りの方向による弊害が顕著に出てきています。
物を持てば持つほど人は欲しくなり、食も食べれば食べるほど、もっと食べたくなるのです。
ホント不思議なのですが、これが真実のようです。
私はここで、甲田光雄氏の著作を紹介しつつ断食について少しふれましたが、
一日でも半日でも試しに断食をしてみるとよく実感出来るのですが、
断食のあとは小食になり、余計なものを食べたいと思わなくなります。
また体の感覚が鋭くなって、体に必要なものが何なのか食べ物を見ただけでわかるようになります。
しかし逆に一回でも腹いっぱい食べると、次にもまた腹いっぱい食べたくなってくるのです。
おそらくこの食に対する感覚器官をさらに満足させようとする循環が、生活のあらゆる分野に及んで、
もっともっとという連鎖が生じて今の社会が成り立っているのではないかと推測されるのです。
食の実験は誰でもすぐに体感できるので、オススメです。
半日でも一日でも断食をやってみると世の中の機構、人の欲とそれに拍車がかかっていく様子がとてもよく見えてきます。
最初にあげた三毒の話しに戻りますが、それではなんで人が満足を得ようとするとき「貪り」の方向に行ってしまうのでしょうか。
ブッダはその原因は、avidya(アヴィディヤ=無明)にあるとしました。
このアヴィディヤというサンスクリット語は、否定のアと光明を意味するvidyaから成っています。
つまりこの言葉の通り、私たちの心の本源である光の境地、至福の境地があることを知らないこと=無明にすべての不満足の原因があるとブッダは観じました。
ブッダは苦しみがどのように生起してきているのかを十二因縁として説明していますが、その縁起の一番初めにこのアヴィディヤ=無明を置いています。
つまり自分たちの存在に対する根源的な無知によって、貪りの心が起こり、その欲求はいつまでも満たされることがないので苦しみが生じると観じたのです。
もっとも決定的な分かれ目は、このヴィディア=光明の境地を知る方向の満足の得方だと思います。
このヴィディアの境地を、心の原初の境地、悟りの心、大いなる心と呼んだり、大日如来、あるいは神と呼んだりする場合もあるでしょうが、いずれも同じことだと思います。
外的な刺激によって満足を得る方向、貪りの方向に進むのか、内的な寂静の境地に満足を見出そうとする、「足るを知る」方向にいくのか、
これが大きな分岐点であるように思います。
しかし究極的には、どちらの方向が正しいというものはないのだろう、と思います。 それぞれが自由に選んでいいのだと思います。
心の原初の境地、私たちの輪廻が始まる以前の魂の領域が至福の世界であるなら、なぜ私たちはそもそも肉体をもってこの世に生まれてくるのでしょうか。
もし心の原初の境地にとどまっていることが正しいことなら、そもそも肉体をもって生まれてくる必要などなかったわけです。
よく精神世界の本の中では、この世は魂にとっての学校のようなもので、
体験を通じて魂が成長するため肉体をもって生まれてくるのだという説明がなされています。
その説明はそれで正しいと思います。
しかし究極的には、
遊び
ということなんだろうと私は理解しています。
つづく、、、
参考:
三毒
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%92
十二因縁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81
マンダラ図:ダルマワークスオンラインショップ
http://shop.oddiyana.com/index.php?main_page=index
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