昨日12/28、職場で餅つきをしました。
餅をつくなんて、一体いつ以来だろうか、、、
最後に餅をついたのがいつだったのか、ちょっと思い出せません。
ついた餅が原因でノロウイルスに感染しないように、餅をひっくり返す人の手には
ビニール手袋などをし、感染症対策を施しての餅つきでした。
餅は、やはり一人ではつけないので、多くの人と協力せざるをえません。
多くの人がお互い助け合って、汗をかき、声を掛け合い、
一つのことを達成するというのは、知らないうちに絆が生まれるもんなんだな~、、
と感じました。
よく、丸いテーブルで、ナベをつつくと仲間意識、親近感が増すといわれますが、
餅つき同じだな~、と思います。
昔の日本では餅つきなんか当然の行事として行われていたのでしょう。
そこで、知らず知らずのうちに育まれる連帯感というのは強力だったんだろうな、、と想像します。
数え年というのがありますが、あれは正月になるとみんな一斉に一歳年をとる、というシステムで、
各自の誕生日を祝うという風習はなかったそうです。
そんな風土、習慣の中で生活していたら、一人の人間は、
個というよりは、全体の一部という感覚が当然のようにあったのだろうな、、などと思います。
また餅をついていて感じたのは、体の動きです。
それなりの重さのある杵を持ち上げ、振り下ろす、という単純作業ですが、
狙いを定めなくてはいけないし、強さや持続性も要求されます。
人それぞれ、打ち方に個性があり面白いな、と思いました。
やはり慣れている年輩の方々は、無理をせず打っているという感じで、
若い人たちは、力が入って無駄な動きをしている、
効率よく力が使えていない、
という感じがしました。
鍬を日常的に使っていた農民なんかは、こんな作業は朝飯前だったんだろうなと思います。
そうとう全身の力を使いますよね。体の動かし方も無駄がなく、体のつくりも半端じゃなかったんだろうと想像します。
少し話題がそれて、昔は個という感覚が今ほど強くはなかったのかな、、と思った延長で、
最近、AIに心をもたせる研究というのが最先端で行われているそうですが、
機械に心をもたせる、というのはとてつもなく難しいことのようで、
でも私は、我、すなわち、自分という感覚、ここまでが自分という境界線の感覚をもたせることで、
心が作られていくのではないか、、という気がします。
人間が宗教の世界に置いて、我をなくすことを目標としてきたのに対して、
機械に心、すなわち我を持たせようという研究が一所懸命行われている、
という対比が面白いなと思いました。
それだけ我というのは確立するのが本来は難しいものなのかもしれません。
そう考えると、我とか我欲なんて呼ばれるものも、なんだかいとおしい気がしてきます。
さて、AIに心=我が生じるのはいつのことなのでしょうか、どのようなものになるのでしょうか、
ネットに繋がった状態で、我は保てるのでしょうか、
とても興味深いところです。
餅つきして感じたことでした。。
おしまい
今図書館で借りてる本↓
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