2009年12月10日木曜日

言語表現と数学的思考 ~ その宍 ~



たとえば私は家庭教師をしていた時に、中学生に数学を教えていました。

その中学生が取り組んでいる問題集を見ると、例題があったあとに、同じ問題が4-5題並んでおり、

学校ではこの問題をすべてやるように言われているとのことです。

おそらく学校の先生は、練習問題をやればやるほど生徒の身につくと思ってのことなのでしょう。

しかし人間は機械ではありません。大学生である私が見ても、

カッタリ~~~


と思わずにはいられませんでした。

なにせ問題のやり方はもう例題を見て分かりきっていて、数字が違う問題をただ機械的に解いていくだけなのです。

なんだこれゃ?数学を嫌いにさせるためにこんなことやらせてんのか?

と思わせるような形式で、この構成が延々と続くのです。


人間が面白い!と感じるのはカオスと規則性の中間なのです。

本当は、数学の定義を勉強したら、すぐに例題を自力で解いてみる(適度なカオスに取り組む)。

そしてもし不安だったら、そこにある類題を一題解くぐらいで十分なのです。

解き方を知ってしまったあとに、分かりきったことを何度もやらせる(まったくの規則に沿ってやる)というのは、

私たちはマシーンではないのでやる気が失せてしまうのです。


同様に数学の問題をやるときは、難しすぎるのをいきなり解くのもだめなのです。

それは自分にとってはあまりにカオス性が強すぎて、これまた学習意欲をなくす要因になるのです。

従って、ここら辺のバランスをうまく取りながら、自分が面白いと感じれるラインをうまくたどっていくと、勉強はゲームのように面白くなっていくのです。

これを人に与えられたやり方-問題集の構成通り、教師にいわれた通り-が正しい勉強法だと信じて頭から全部やろうとしたりすると、

多くの人は勉強ってつまらねぇ~~ってことになってしまうのです。

本当は人間は新しいことを知り、何か問題を解くことを面白いと感じるものなのです。

新聞のクロスワードパズルや、絵の中の七つの違い、果てはテレビゲームまで、私たちが面白いと感じてハマるのはなぜなのか考えてみると、

必ずそこに出来そうで、出来ないという構造、つまりその問題がカオスと規則の中間にあるのがわかります。

あまりに簡単すぎるゲームやあまりに難しすぎてクリアーできないゲームは、クソゲーと呼ばれます(笑)。


このように勉強をするのでも、少しフラクタル構造を意識して取り組むだけで、歯車がどんどんまわっていくように自分を導いていくことが出来るのです。

これは私たちが自然から与えられたギミック(仕掛け)で、この仕掛けに気づくと、色々なことに応用ができます。

様々な場面でフラクタル構造を意識しながら自分のカタチを見つけることが出来ると、ものごとをとても効率よく処理することが出来ます。

そのためには、人から与えられたことを鵜呑みにして自分に強いるのでなく、それらのカタチを参考にしつつも、

自らの感覚、主観を大切にして、自分と対立することしなく、自分のカタチを模索していくのです。

マイペースというのは、自分のリズム、すなわち自分の中にあるフラクタル構造をくみ取ってものごとを行っていくことだと思います。


私は一年という期間をもらえれば、今でもゼロから勉強を始めて、理系文系を問わずたいていの大学に入れると思います。

それは自分との折り合いのつけ方、流れに乗る方法が分かったからです。

自分と対立して、自分を律するのではなく、自分のリズムを理解して大きな力を利用する、流れにのる方法が分かったからです。

たいていの受験生は、睡眠時間を削るとか、問題集にある問題をすべて解くとか、

何時間は机に向かって勉強をするなどという、不自然で無理な計画を自らに強いがちですが、

これは自分と対立してしまっているのでとても効率の悪い勉強法で、とてももったいないなとわたしは思うのです。


本来なら、学校で勉強を習う前に、「勉強の仕方」という科目があってしかるべきだと思うのですが、こういうのがないのが不思議です。

勉強の仕方さえマスターしてしまえば、それは樹でいうであり、根っこであり、まさしくそれは根本、土台をなすものになります。

あとは何科目あったとしても、それは枝葉を茂らせるように簡単に扱うことが出来るのです。


さて、若者の言語力の低下の問題にはじまって、言語表現と数学に関する私の想いをつらつらと書いてきました。

結局ここでのテーマは、「わかりやすいこと、わかること」だったように思いますが、

分かる」の漢字があらわしているように、分かる、分かりやすいというのは、

分解すること、複雑でこんがらがったものごとを分割して提示することで、

これはまさしく分化・分類の学問である科学の知であります。

しかし分割して分かったつもりになっていても、今度は全体とのつながりを失っている危険があります。

そういう意味で、フラクタルの知というのは、分化に対する統合の視点を提供するもので、

それゆえにフラクタルは新しい科学という呼ばれ方がされます。

フラクタルの研究者によると、それまでの研究はそれぞれが細分化する方向にあったのが、

フラクタルによって異なる分野の研究者がつながるようになったという話しをしていました。

私は学問だけに限らず、フラクタルという全体を見渡すことのできる視点全体とのつながりを意識する視点がこれからの世の中にますます必要になって来るだろうと思います。

というより、統合・つながりの視点がないまま細分化だけが限りなく進んでけば、おそらくこの文明もそう長くないだろうと思うのです。

多くの過去の文明においては、目先のことにとらわれ過ぎて、大局を見失うことで滅んでいったように思います。

私たちは、常に分化と統合目先のことがらと大局観を同時にバランス良く持つ必要があり、

そのためにフラクタルの概念は多くのことを教えてくれていると思うのです。


フラクタルは、マンダラを見てもわかるように精神世界とも関わりのあるとですが、

今回のシリーズはここら辺にして、そのことに関しては別のシリーズでかきたいと思います。



おしまい




2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いやー、おもしろい。勉強の仕方とかもっともっと詳しく知りたいです。

塾の教師とか向いてるのでは?彦兵衛先生に東大に入れる方法、勉強の仕方学びたかったですよ。

彦兵衛式勉強術シリーズをホントに細かくブログで書いて欲しいです。対立しない方法とか。

ハマの諒

彦兵衛 さんのコメント...

ハマの諒さん、コメント有難うございます。

そうですねぇ、実はブログとは別にHP立ち上げて、勉強法のこと書きたいなぁと前々から思っているのですが、なかなか。。。

今はブログに力を入れているので、そこで触れればいいかなと、少し妥協する考えもあったりして、今回少し書いてみました。

年度内を目安にやってみようかなぁ。

タイトルは、、、