2009年3月16日月曜日
建築に思う≪最終回:ガウディの教育観≫
それでは教育において独創性を育むためにガウディはどのようなことに注意しなければならないと考えていたのでしょうか。「学び」とはどうあるべきだと考えていたのでしょうか。
ガウディはまず教育というものをふたつに分けて考えていたようです。『ガウディニスモ 』の著者である松倉保夫は、それを次のように解説しています。
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ガウディの教育に関することばには「教育」と「豊かな教育」とがあり、「教育」では設計教育に対する批判が、「豊かな教育」では彼の理想が述べられている。
このことばは、科学において、原理あるいは法則を見出すときは、多くの実験結果を見渡して、本質的な性質に注目し、その原理を発見するに至るのが本来の姿であることをいっているのである。
このように事実全体を見通して、その本質を考える訓練が設計教育において大切であるにもかかわらず、実際の教育では、既にえられた結果である原理をあらかじめ生徒に教えておき、その原理の適用方法のみを訓練しているだけである。
これでは新しい原理の発見につながる教育とはなり得ない。また芸術教育においても、数ある芸術作品の批判を通して、何を学ぶべきであるかの議論が大切であるにもかかわらず、このような全体を見通す訓練は何もしないで、教師は一方的に手本を与えて教育しているとガウディは述べているのである。(p.92)
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ガウディは「原理の発見」を学びとるべきであるとしているのに対し、従来の設計教育は「既にえられた結果」とその「適用方法」の伝授ばかりをおこなっていると批判しています。
これを踏まえて、ガウディの教育に対する言葉をみてみます。
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教育
教育の評価は無条件に訓練によっている。教授たちの判断の基準は、生徒たちの訓練が良くなされているか、いなかによるのであって、生徒の能力にはよらない。(p.92)
豊かな教育
教育においては、すべて〔分析と総合〕について誠意を払わなければならない。それが学問の条件である。これは教授と学生との間に親密さをもたらすだろう。(p.92)
学校の教育において、分析のみに力を注ぎすぎることは、卒業生の目から見るとつまらないものにしているにすぎない。すなわち、これでは何も教えない方が学生にとって役立つと思われるからである。(p.91)
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ガウディの述べている教育に対する批判は、どうやら現代の日本にもそのまま当てはまりそうな気がします。
私は前から「学力」というものを二つに分けて考えるべきだと考えています。ひとつはテストの点数として測れる知識の量、学習の到達度であり、もうひとつは学ぶ意欲、やる気、好奇心です。
出来上がった結果を覚えさせることに重きを置く日本の教育においては、前者の「学力」の出来不出来を議論しますが、この「学力」を上げるために、後者の学力=学生のやる気をそいでしまったら、まったく本末転倒になってしまうなと思います。
学力の国際比較などで点数が世界で何位などと言うのは、あまり気にしなくていいのではないかと思うのです。
そんな一時的な点数を上げるため(大人のエゴを満足させるため?)に子供に知識を詰め込もうとするのではなく、未来を見据えてもっと長期的に子供のやる気、好奇心を育むようにもっていくべきだと思います。
アメリカやイギリスなどのノーベル賞学者を多数輩出している国々が、意外と小中学の学力国際比較で低い位置にいるのは、おそらくそんなところで知識の量ばかり増やしてもあまり意味がない事を知っているからではないかと思います。
このような国は、点数が低くても理科や算数が大好きと言う生徒の割合が多いのに対して、日本の学生は点数はいいのに、理科や算数が嫌いと言う人が多いのは悲しいことです。
willという言葉は未来を表すときに使われますが、willというのはまた「意志」という意味も有ります。点数で測れる学力だけでなく、未来を見据えてwill=意志・意欲を育む教育というものを今後考えていく必要が有ると思います。
そのときに、以上に挙げてきたガウディの言葉 -分析とその知識の押し付けだけでなく、知識の本質を探究し、考え、総合し、味わうこと―も参考になるのではないかと思います。
でも、人にいい教育をしてもらおうとするよりは、一人ひとりがガウディのように、自分の興味の持っている事を自ら育み、自ら学んでいこうとする姿勢が大事なのかな、、、とそんな気がするのです。
おしまい
参考:松倉保夫
『ガウディニスモ ガウディのことば・形・世界』九州大学出版 1984
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