『博士の愛した数式』の著者小川洋子さんと、お亡くなりになる直前の河合隼雄さんとの対談本を読みました。
随所にキラリと光る河合さんの智慧に満ちたことばに、しばしば読書が中断し、いろいろと考えさせられました。
------------------------------------
小川 私、先生のご本の中で印象深かったことがあるんです。京都の国立博物館の文化財を修繕する係りの方が、例えば布の修理をする時に、後から新しい布を足す場合、その新しい布が古い布より強いと却って傷つけることになる。修繕するものとされるものの力関係に差があるといけないとおっしゃっているんです。
河合 そうです。それは非常に大事なことで、だいたい人を助けに行く人はね、強い人が多いんです。
小川 使命感に燃えてね。
河合 そうすると助けられる方はたまったものじゃないです。
p.14
------------------------------------
カウンセリングはひたすら傾聴して、クライエントが自分の道を見つけていくのを手助けするものですが、その患者との関係において、カウンセラーが強者の立場にたって弱者を導くというやり方では決してうまくいかないというのが河合さんの意見でした。
これはカウンセリングだけに限らず人助けをするとき、また医療全般に関してもいえるような気がします。
前にあげたパッチ・アダムスは自ら精神病院に入院するほど深刻な精神状態にあったそうですが、その体験があったからこそ、医療には愛やユーモア、人とのふれあいが大事だと気付いたのでしょう。
強者が弱者を導くというのではなく、弱い立場に有る人に寄り添う事でともに学びあうという姿勢が本来の治癒なのかな、と河合さんの言葉を読んで感じました。
------------------------------------
河合 無限の直線は線分と1対1で対応するんですね。部分は全体と等しくなる、これが無限の定義です。だからこの線分の話が、僕は好きで、この話から、人間の心と体のことを言うんです。
線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。
小川 ああ、2.00000・・・・・・。
河合 そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
p.27
------------------------------------
人間の本質や無限について考えるときに数学的なモデルを持ち出す所は、さすが数学科を卒業して数学の先生をしていただけあるなと感じました。
部分と全体が一致するというのは、東洋の宗教が目指してきたもの、インド的に言えば梵我一如(ブラフマンとアートマンの根源的な一致)というテーマであり、それを図像的にあらわせばマンダラであり、現代の数学で言えばフラクタルということになると思います。
分けられないものをわけてしまうと、、、というくだりには、これまでに再三述べてきた科学のもつ特質(切るということ)とその限界を感じさせられます。
単に分化、分類し、専門化していくという手法だけではなく、切らないで全体を見渡すという両方の視点が大事なんだろうと思います。若い頃に数学的な思考法を身に付けられていた河合さんはこの両方ができた稀有な存在だったと思います。
しかしこの本でもあいかわらず、河合さんのギャグが光っていました。
------------------------------------
河合 僕、オイラーの公式とかもうすっかり忘れてましたけど、今度、ダジャレを集めて、おいらの公式を作ろうと思ってますから。
p.42
------------------------------------
うーん、さすが、、、。
単に親父ギャグをかましているようでいて、実に深い。オイラーの公式は前にココで取り上げたやつですが、私はこのダジャレから、河合隼雄さんは、伝統=型を身につけながらも、最終的にはその型にとらわれないでそれぞれが自分の型をつくることの大切さを説いているような気がします。
最晩年になって河合さんはますます冴えてはるなぁ、、。
------------------------------------
河合 僕らは、人が話すのをただ聴いていて、その人自身が何かを作るのを待っているだけです。自分では何も作らない。
小説家と私の仕事で一番違うのは、「現実の危険性を伴う」というところですね。作品の中なら父親を殺すことも出来るけれど、現実に患者さんが父親を殺すと、大変です。
小川 殺したいという気持があっても実際には殺さないために、物語が必要なわけですね。
河合 そうです。そしてその物語をわかる人もいないといけない。その辺がものすごく難しい。よくいうことですが、「若きウェルテル」は死ぬけれど、ゲーテは長生きする。
小川 なるほど。
河合 患者さんは、実際自殺する方へ行かれますからね。それでも僕がその人たちのために物語を作ることはない。その点は、小説家がしていることと全然違います。その違いは、ちょっと面白いところですね。
p.47-48
------------------------------------
この本の核心部といってもさしつかえないでしょう。
人が生きるということは、すなわちそれぞれが物語をつくっていくことであり、小説家が作品を生み出すのに悩むのと同じで、患者が物語を創出していくのをじっと待っているのがカウンセリングのようです。
この時期のことをユング心理学では「創造の病」といいますが、 ここで内面の世界と外側の世界のバランスをうまくとっていくのがたいせつなのですね。
「若きウェルテル」は死ぬけれど、ゲーテは長生きする、という表現はとても面白かったです。
この対談は河合隼雄さんが亡くなったことで、中途でおわってしまったそうで、本の最後には小川洋子さんによる「少し長すぎるあとがき」というのが付されていました。そのなかで、
------------------------------------
「ブラフマンというのは、ユングが大好きな言葉ですよ」
この続きを次回の対話の取っ掛かりにしましょう、とお約束したのが最後になりました。ブラフマンは、私が以前書いた小説に出てくる、とある動物の名前です。
p.154
------------------------------------
つまり、河合さんはどこかで自らの「死」を予見していて、「死」を通して、小川さんに対してブラフマンについて語ったのではないかということです。
ユーモア好きな河合さんならやりかねない、と思いました。
もしかすると、死ですべてが終わりになるわけじゃないよということを暗に伝えようとしたのでは、、、と私なんかは深読みしてしまうのです。
河合さんの著作はだいぶ読んだのですが、また機会があったら読み直して見たいなぁと思いました。
おしまい。
参考:
アマゾン:『生きるとは、自分の物語をつくること』
彦兵衛のブログ:博士の愛した数式、フラクタルについて
http://mshiko.blogspot.com/2009/03/blog-post_19.html
http://mshiko.blogspot.com/2009/03/blog-post_20.html
0 件のコメント:
コメントを投稿