2017年1月26日木曜日
圧倒的な愛の光、、、
香川、満濃池、善通寺、、と空海ゆかりの地を訪ねたことで、
空海に思いを馳せてみました。
空海はいったい何を伝えたかったのだろうか?
うどんの美味しさか?(笑)
彼が伝えたかったのは、
私たちの本質、そしてすべての本源は圧倒的な愛の光である
ということ、だと思います。
彼は唐に渡る前、空と海を前に行に入っている最中に、
大いなる光と一体となる体験をしています。
彼は、その体験を説明する方法、一般の人たちがその光にいたる方法として、
真言密教がぴったりだと感じたのだと思います。
おそらく、多くの宗教家も体験の深さなどの違いはあるものの、
みなその境地を伝えようとしたのだと思います。
なので、そういう境地を伝えようとした人、そのような人たちゆかりの地というのも大事ですが、
それより大事なのは、彼らが伝えようとした境地そのものだと思います。
そういう境地を伝えようとした人たちを崇拝するのもいいのですが、
それが行き過ぎでしまい、それ以外は認めない、ということになってしまうと、
それはその人たちが伝えようとした境地と反するものになってしまうのかな、、
と思います。
たとえば、ある素晴らしい映画があった場合、それを伝える媒体、、
ビデオテープやDVDやあるいは映画館、を通して私たちはその素晴らしさを知る訳ですが、
その自分が知りえた媒体そのものを崇拝したり、
その場所を聖地としたりしないわけで、
大事なのは、DVDを通じて知りえた内容そのものです。
私たちは、それを知るに至った媒体を大事にするのもいいですが、
その媒体を通じて得られる内容そのものを忘れないようにするのがもっと大事なことなのかなと思います。
むしろ、その内容たる本質がわかってしまえば、あとは自由で、
それこそが、媒体として果たした人たちがもっとも喜ぶことであるのではないか、と思います。
その媒体というのは、時代や場所、文化によって異なるもので、それは違って当然であると思います。
では、私たちの本源たる圧倒的な愛の光を常に感じているにはどうしたらいいのでしょぅか。
それも色々な方法があるのでしょうが、
簡単な方法としては、神は圧倒的な愛の光である、
無条件の愛の光、
笑いとユーモアにあふれた愛の光である、
私は常に愛の光と一体である
ということを一日の内何度か思い出す、
というだけで相当違うのではないかと思います。
神やその他の部分を、自分のフィーリングにあったもの変えてもよいと思います。
人は、自分の思い描いたものに近づいていく性質があるようです。
なので、日頃思い浮かべることに、聖なるものを少しつけ加えてあげればいいのかな、、
と私は思います。
それが観想であり、入我我入観、月輪観であると思います。
空海のことについて書いて、考えたことでした。
おしまい
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