先日、NHKのドキュランドへようこそという番組で、
輪廻の少年
というドキュメンタリーを観ました。
ドキュランドへ ようこそ!「輪廻(りんね)の少年」
インドのラダック地方にある少年が生まれます。
彼は大きくなるにつれて、自分はチベット、カム地方にいたある僧侶だったことを語り出します。
ただしチベットは中国に占領されているため、自由に行き来することができません。
そこで、その少年は転生仏=リンポチェとして、ラダックの僧院に託されます。
しかし、そのラダックの僧院では、いつまで経ってもカム地方から迎えが来ないということで、その少年僧はやがて追放されてしまうのです。
世話役のような年老いた僧侶がいて、彼はチベット医なのですが、その年老いたチベット医のラマが、追放されたそのリンポチェの世話をします。
その様子がとても心温まる映像なのですが、
やがて、その年老いたラマは、リンポチェはもっと高度な教育を受けて、立派な僧侶にならなければならない、と少年僧と一緒にチベットを目指して旅に出ます。
ヒッチハイクを繰り返し、なけなしのお金を使って、なんとかチベット国境付近の雪山にやってきます。
そんな僧衣で雪山を越えるのか、、というほどの軽装備で雪山を歩いていくのですが、結局山は越えられず、峠で、法螺貝を吹き始めます。
法螺貝は遠くまで音が響き渡る。これを聞いた、リンポチェのかつての弟子たちが、あなたを迎えに来るかもしれない、、と。
しかしその音はチベットに届くことはなく、山を下りることになります。
最終的に、リンポチェは、チベット国境近くのある僧院で、教育を受けることができるようになりました。
少年は、15年くらいたてば、立派な僧侶になるよ、と、その付き添いの年老いたラマにいいます。
年老いたラマは、元いたラダックの村に戻らなければならないので、リンポチェとはそこでお別れとなります。
リンポチェも、年老いたラマ僧も、涙を流し、泣きながら別れていく、、
と、こういうドキュメンタリーでした。
色々と考えさせられました。
私もラダックは訪れたことがあり、色々な僧院を訪ね、そこでリンポチェと呼ばれる小さな僧侶たちを見てきました。
ダライラマを初め、チベット仏教では、リンポチェと呼ばれる、かつての高僧の生まれ変わりを認める制度があります。
その認定にあたっては、本当にかつてのその高僧だったかどうかの試験があるようなのですが、仮に本当に、かつての高僧が輪廻して生まれかわっているとして、
また初めから仏教の教義を10何年も勉強しなければならないのか、、ということに疑問を感じました。
もし、その高僧がすでにある一定の心のレベルに達しているなら、生まれた先のその土地で、そのまま平安の境地に住しつつ、自分なりの方法で人を教化していくということができないのだろうか、、。
もし、そういうことができないのであれば、何のための、転生をする技術なのだろうか、と思うのです。人の関心を得るため、リンポチェとしての地位に甘んじたいがため?
チベット仏教では、迷い苦しむ人が救うために、何度も偉いお坊さんが転生し続けるということですが、
それも、もしかすると一種の囚われではないのか、、、などと、感じました。
仮に、死後も意識を保って、本当に転生する技術が確立されているとしても、
それ自体が実はとても不自然なことで、実際の所、本人は迷いにはまり込んでしまっている、
ということはないのだろうか。
私も、インドのチベット亡命政府があるダラムサーラではチベット語を学びつつ、ラダックなどのチベット文化圏を訪れました。
チベット仏教の大人の僧侶の方々には、思っていたほど清らかなもの、聖なる雰囲気を感じる方は少なく、むしろ、高邁さを感じることが少なくなかったし、
逆に小僧や青年僧たちのほうが、シンプルで親しみを持てる気がしました。
そうか、あまりこういう極端な世界にいても、真の心の修業というのは成り立たないのかもしれないな、ということをなんとなく感じました。
またリンポチェと呼ばれるような、無条件で崇拝されるような人たちに対しても、ちょっと距離を置いてみた方がいいように思います。
私はいまだに、毎日瞑想をして、朝夕と仏像に線香をあげたりしていて、それが自分にとってすごく普通で自然なのですが、
周りをみるとやはり自分の行動というのは、あまり普通ではない、というか奇異であるように感じます(笑)。
今回の映像をみていて、とても馴染みのある感覚が湧いてきて、
ああ、かつて自分もこんな生活をしていた、、と遠い昔の記憶に触れられそうな気がしました。
物質には慣性の法則がはたらきますが、人間の意識も、同じことを繰り返すはたらきがあります。
仏教では、それを熏習(くんじゅう)と呼びます。
香水を入れていた瓶は、香水がなくなっても、その香りを残しているように、
意識はかつてしていた行動の名残を、無意識のうちに繰り返すようです。
自分もどこかの人生で、僧侶として、かなり極端な生活をしていたような気がして、
今回、このドキュメンタリーを見たことで、そのときの感覚が触発された気がしました。
なんといって表現していいのか分かりませんが、懐かしいというか、切ないというか、それでいて充実しているような、それらの気分がミックスした感覚が湧いてきて、なんとも言えない気分になりました。
輪廻というものを考えると、一つの家族でも、かつての子供が親を育てていたり、
かつての弟子が、先生を育てていたり、
またまったく別の文化圏の人たちが集う、なんてこともあるのかなと思います。
子どもに対して、親がいて、男に対して女がいて、など
人は、それぞれの立場にいて、それぞれの役を演じているだけなのですが、
その役が自分である、と思い込んでしまうことに、色々な悲喜こもごもがあるような気がします。
本当の自分というのは、本来、そういう役、型にはまらない、もっと自由な存在であるようにおもいますが、
僧侶も含め、それに気づき、そこにいたり、自由の境地に遊ぶ、というのはナカナカ難しいことなのだろうな、、
などと、今回のドキュメンタリーを見て、色々と考えさせられました。
まだオンデマンドではやっているようなので、興味のある方は、ぜひ見てみてください。
輪廻の少年をみての感想でした。
おしまい
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