最近、藤原正彦さん関連で『数の歴史』↓という本を読みました。
インドではゼロという数字だけでなく、マイナスも発明していたこと、
西洋の人たちが、無理数だけでなく、マイナスや虚数、を受け入れるのに何世紀もかかったこと、
円周率πや自然対数eなどの方程式の解として与えられない無理数を超越数と呼び、それに関する研究があることなど、
数の歴史自体において新しく知ったことも多くあったのですが、
この本のなかでもっとも印象に残ったのは、最終章「数と人間」の次のような記述でした。
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計算する、測る、数量化する、番号をつける、数値化する…。
数はいたるところに存在する。自然科学はもちろん、確率、統計、帳簿、経済学、心理学…。
数値化はいたるところで進み、日に日に力を増していく。
だがこれで生活の質が向上するわけではない。
真実の探求が数の計算と同一視されるほど、精神的な貧困化は進むのだ。
指数、偏差値、平均値、時価、株価、配当金…。
数にあらゆる現実を代弁させてしまうと、逆に人間のほうが数に操られてしまうのではないか。(p.130)
ドゥニ・ゲージ著 藤原正彦訳『数の歴史』創元社1998
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私はこの文章を読んだとき、最近読んだいくつかの本の内容が自分の中でつながるのを感じました。
ひとつは、同じ藤原正彦さんの著作で『国家の品格』↓
もう一冊は、
アメリカの一流ホテル「プラザホテル」で日本人でありながら、経営陣の一人として10年間働いた経歴をもつ奥谷啓介さんの著作『プラザでの10年間』↓です。
まずこの「プラザホテル」の内容で印象に残ったのは、アメリカ人の発想の原点がすべて「数字」であるということでした。
なぜアメリカのホテルでオーバーブッキングが起こるのか、
なぜ日本のホテルのようなきめ細かなサービスがアメリカの一流ホテルといわれるところでもできないのか、
すべては「数字」を判断の基準にしていることにあるようです。
つまりいかに効率よく利益をあげるかということが最優先事項であり、それを基準にすべてが動いていることで日本人の理解のしがたいあらゆる事態が起こってくるのだそうです。
この考え方はある意味とても効率的ではあるのですが、あまりにドライで、単純すぎるのではないかという気がしました。
(アメリカ人と日本人の発想の違いがよくわかって面白い本でした。興味のある方はご一読をオススメします)
アメリカ人の多くは、人を判断する基準がお金らしく、数学者のピーター・フランクルさんの著作などを読むと、
彼がアメリカを去り日本に来た一番の理由も、やはりアメリカ人があまりにすべてをお金で判断することに辟易したからだといっていました。
『国家の品格』によると、藤原正彦さんもアメリカで数学を教えていたりしたそうで、一時期はアメリカ的な考えにどっぷり浸ったそうなのですが、そうした中で得た最終的な結論は、
大切なのは論理よりも情緒
だそうです。
つまり論理を構成する数字というものは客観的な指標ではありますが、日本人は昔からもっと繊細な情緒というものを感じることができ、それは素晴らしい能力であるということ。
また論理がいくら正しくても、その思考の出発点であるところの動機、感情、すなわち情緒の部分が誤っていたら、結論はいくらでもねじ曲がったものがでてくるというのです。
私はこの文章を読んだときに、一時期「あーいえば、じょーゆー」などとしてマスコミで騒がれたひとを思い浮かべました。
確かに一見、彼の言っている事は筋が通っているのですが、内容が空っぽで、うすっぺらく感じた事を思い出しました。
結局彼の言っていたことの多くは嘘であることが後でわかるのですが、何に重きを置いた上で話を組み立てているのかをしっかり見極める必要があると感じた出来事でありました。
藤原正彦さんは、数学者というもっとも論理を重んじる学問の研究者であり、しかも欧米の社会で長年生活した経験のあるひとではあるのですが、
その人が大事なのは論理より情緒だという結論に至ったことに、その結論の重さを感じました。
(この本は一時期話題になったそうですが、私は知りませんでした。これからの日本、そして世界はどのような方向に進んでいくかべきかを考える上で、読む価値のある本だと思いました。)
人はどのようにしたら「満足」を得られるのか、
それが社会のシステムを生み出し、またそれがあらゆる時代の人にとっての根本的な命題だったと思うのですが、
その満足というものを数字で理解しようとするのは、とても危ういように思うのです。
先日NHKスペシャルで、
マネー資本主義 第1回“暴走”はなぜ止められなかったのか
~アメリカ投資銀行の興亡~
というのをやっていました。
これはリーマン・ブラザーズなどのアメリカの大手証券会社がどのように成長し、また崩壊に至ったかを詳細に追ったドキュメンタリーでしたが、
これも結局は、利益、利益と表面的な数字だけを追った結果、今回のような金融崩壊を引き起こしてしまったというものでした。
中には、あまりに利益、数字だけを追いかけることの危険性を指摘した人がいたそうですが、経営陣からは聞き入られず、行きつくところまで突っ走ってしまったということでした。
数字というのは、その原点に「切る」という作用があります。
ある現象の中から「個」として分離し、認識したものが数字です。
つまり数字というのは、客観的な指標であるとともに、切れているという状態を含み持っています。
しかし本来満足というのは、主観に属するもので、究極的には「つながり」という感覚と関係していると思います。
満足とは、いかに「つながって」いるか、どれだけ「つながり」を感じれるか
ということと同義だと私は思っています。
だから極端な例をあげるなら、
インドやチベットの聖人と言われる人たちが、
乞食のような格好をして地べたで寝起きしていたとしても、彼の内側は常にあらゆるものとの「つながり」を感じていて、恍惚の状態、最高に幸福な状態にあるということもあるのです。
つまりアメリカ的な発想で、満足、幸福感というものを相対的な数字というものにに置き換えてとらえようとすると、いつまでも満足ができず、
人間の行動がガン化するのではないかと思うのです。
アメリカの金融市場が崩壊したように、よかれと思って努力していたことが、実は社会を崩壊に導く方向に作用していたという事態が起こりうると思うのです。
だから私たちは、今、この時期に至り、一度原点を見直す必要があるかと思うのです。
それは、「満足」とはいかにして得られるのか
というもっとも本質的な問題です。
おそらくその答えの方向の一つは、
満足を数字に置き換えない、
ということであるような気がするのです。
人間が作り出した道具である
数字に振り回されないようにする
ことだと思うのです。
京都の龍安寺(りょうあんじ)には、
「吾唯足知」(ワレ、タダ、タルヲ、 知ルノミ)
という文字が石に刻まれていますが、
It says, "I only know plenty"
at Ryoanji temple in Kyoto
「足るを知る」ということは、禅僧だけでなく、この地上で生きるあらゆる人にとっての根本的な命題だと思うのです。
というのも、満足ということが原点となって社会が動いているからです。
聖人と呼ばれるてきた人たちは、おそらくどんな状態にあっても、常に「満ち足りた」状態にあり、あらゆるものとの「つながり」を感じれるのだと思います。
数字というのは測れるもの、つまり全体のなかの顕現している部分、表層の部分しかあらわせませんが、
主観とは数字化できない密やかなるものを感じることができます。
私たちが聖人のような境地に至るのは難しいかもしれませんが、
満足を得る方向としては、
数字というツールを利用しながらも、数字に振り回されないようにする
ということだという気がします。
表面的な数字のみを究極まで追いかけた結果崩壊してしまった現況において、
「満足」というすべてのひとにとっての根本命題を今一度考えてみる良い機会ではないか、
と私は思うのです。
おしまい。
参考:
奥谷啓介 『世界最高のホテル プラザでの10年間』 小学館 2007
ドゥニ・ゲージ著 南条郁子訳
『数の歴史(「知の再発見」双書 74)』 創元社 1998
藤原 正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005
NHKスペシャル:マネー資本主義 第1回
“暴走”はなぜ止められなかったのか
~アメリカ投資銀行の興亡~
http://www.nhk.or.jp/special/onair/090419.html
龍安寺〔ウィキペディア〕
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA
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