2013年7月30日火曜日

プラトンのイデア



私が毎週欠かさず見ている番組に、

NHK教育でやっている

100分 de 名著

という番組があるのですが、

7月はプラトンの『饗宴』についてでした。

100分 de 名著 ~ プラトン『饗宴』
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/24_platon/index.html


饗宴というのは、シンポジウム(symposium)の邦訳だそうです。

シンポジウムというと、学術的な意見の交換をする場で、お堅いイメージがありますが、

もともとは、

ともに〔sym〕+ 飲む〔posis〕

という意味で、今でいう飲み会のようなものを指していたそうです。

まさにノミニケーションですね。

たまたま最近読んだ、五木寛之さん本








にもその語源が出ていたので、おっ!

と思いました。


さて、この 100分 de 名著 ~ プラトン『饗宴』の最終回で、

プラトンのイデア〔idea〕についての話がありました。


イデアはもともとギリシア語では、「(見えている)姿」という意味だったそうですが、


 
 
 
 
プラトンは、例えば「美」であったら、

美として見えているそのものの本来の姿

というように、その使い方を変えたのだそうです。


そのイデアに対して、日本語では「理想」という訳語があてられるのですが、




この「理想」という語は、

明治時代にプラトンの「イデア」の訳語として作られたのだそうです。






で、イデアの説明に入るのですが、

イデアを理解するには、という語がカギとなってくるのだそうです。

 

 
 
プラトンのイデアによると、
 
私たちの世界は「」なのだそうです。
 
 



そのことを説明しているのが、プラトンの『国家』の中に書かれている、

洞窟の比喩”だそうです。





番組内では、影絵をつかって説明されていました。




私たちは、暗い洞窟の奥で、手足を縛られ、洞窟の壁の方を向かされています。

その後ろには、火が灯されており、その火の前には人形が動いており、

その人形の影が壁に映っているのを見て、

私たちはそれを「現実」と思っている、

というのです。






しかし、手足の拘束を取ってもらい、後ろを振り向くと、

人形や火があることに気づくのですが、





壁に映っている像を現実だと思い込んでいた人には、

事態が全く把握できないのです。




そこで、その人が洞窟の外に連れ出されると、、、




初めはあまりの明るさになにも見えないのですが、

目が慣れてくると、そこには雄大な自然が広がっており




それらを生かしているのは太陽であり、

太陽こそが世界の中心であることに気づく、




という話です。


以下が、その概略図です↓




これって、まさにスピリチュアルの世界観ですよね。

すごいなぁ~。





現実の世界全体がならば、その外側は何なのでしょう、、、。


ソクラテスは対話を通じて、みんなを外に導こうとしていたそうです。



しかし、洞窟の壁に映った像が現実だと思い込んでいる人にとっては、




そのようなことを語る人物は、危険な存在であり、

最終的に、ソクラテスは死刑を言い渡されるのです。






 

 

ソクラテスというと、哲学の祖といわれますが、

ソクラテスが感得し、伝えようとしていたものは、

実はいわゆる言葉を色々弄して何か概念的な事を語るというもの、

今でいう哲学のようなものではなく、

自らの何かしらの実体験によって感得した、

(あの世を含む)この世の真実を語ろうとしていたのではないか、、

と思うのです。

あの時代に、このようなことをしっかり把握していたというのは、凄い事だな、と思います。


 
で、前回との関連で、向こうの世界の智について、

考えたことをちょっと書いてみたいと思います。
 


稲盛氏の発言を見ると、

深層意識に透徹するほどの強い願望をもつことが、成功につながる

ということをたびたび述べており、

意志を強く持つことの重要性を説いています。


一方、悟りの境地として、

すべてはあるがまま完全である

という立場があります。

老子は無為ということを言いました。

天は無為にして、しかも為さざるなきなり

(天地自然は、何も殊更に何かをしているわけではないが、すべてを成り立たせ、育んでいる)


この受容意志、言葉をかえるなら、

完全肯定変革という側面は、

どのような整合性をもってとらえたらいいのか、

と考えてみたのです。

で思いついたのが、

男性原理女性原理という視点です。

男性原理を、切る作用、意志によって能動的に切り開いていく働きとし、

女性原理を、すべてをあるがままに受け入れる、受容の働きをもつ、

と考えると、

本来、大いなる存在には、

この相反する二つの側面をもっており、

したがって、人間もこの相反する二つの特質を兼ね備えることが、

ひとつの目標になるのではないか、ということです。


神道(古事記)では、

アマテラスオオミカミが地上に降りるニニギノミコトに対して、

三種の神器を与えます。

三種の神器とは、鏡、剣、勾玉です。

鏡、剣は、分かるのですが、勾玉ってなんだ?

ってことになります。

私は以下のように考えました。

神様は人間に、

ものごとを切り開ていてく力(剣)と

すべてをあるがままに映す受容する能力(鏡)を与え、

人間というのは、その両方を兼ね備えた存在であることを忘れるな、

ということで、円と尖った部分からなる勾玉を渡したのでないか、、

ということです。

つまり勾玉というのは、男性原理と女性原理が統合されたものの象徴であり、

それは大いなる存在の特質でもあるとともに、

人間に備わった特質でもある、

ということなのではないかな、、と思ったのです。


これを真言宗の教義に照らして考えてみると、

真言宗では五智ということがいわれます。

大いなる存在(大日如来)の智慧(法界体性智:ほっかいたいしょうち)は、

4つの側面をもつとされています。

大円境地智(だいえんきょうち): 鏡のごとくすべてを映す智慧

平等性智(びょうどうしょうち): ものごと平等性を見る智慧

妙観察智(みょうかんざっち): ものごとの(違い)をよく観察する智慧

成所作智(じょうしょさち): すべてを育み、成し遂げる智慧

 
これらは、

男性原理としての

妙観察智成所作智、

すなわち、観察=切るという作用と、意志によって何かを遂行するという意志の作用

が対応し、

女性原理として、

大円境地智平等性智

すべてをあるがままに映し、物事の平等性をみるという

というように対応しているのではないか、

と考えてみました。


また真言宗では光明真言というものが唱えられます。

おんあぼきゃべいろしゃのう、まかぼだら、まにはんどまじんばら、はらばりたや うん

というものですが、

このサンスクリット原文は以下です。

オーム、アモーガ、ヴァイローチャナ、マハームドラ

マニ、パドマ、ジュバラ、プラバリタヤ、フーン

大いなる印をなす、不空なる大日如来よ、

マニと蓮華と光明を転じたまえ、

とこんな意味です。

ここで、マニとは、すべての願いをかなえるとされるマニ宝珠、つまり自由意志を表しており、

パトマとは蓮華、即ち慈悲の象徴であり、

これは、本来光の存在である私たちが、

男性原理であるマニ(宝珠)と女性原理である慈悲を与えられており、

それらを転じて悟りに至りなさい、

といっているような気がするのです。



悟るというのは、

すべてをあるがままに受け入れる、

というだけになってしまうと、

無為、何もしない、下手したら浮浪者のようなイメージになってしまいますが、

すべてを受け入れつつも、

意志をもって物事をなしとげる(創造していく)

というのが、この世に生を受けた私たちが目指すべき方向なのかな、という気がするのです。


空海が、ダムを建設したり、学校を造ったりと、様々な社会事業に尽力したのも、

この様な思想が背景にあったのかと思うのです。


禅の悟りの段階を説明している十牛図でも、

最後は世俗の生活に戻っているのは大切なポイントなのかもしれません。


悟ったら仙人のように、人里離れたところでのほほんと暮らす、、

というのも全然ありだと思いますが、

もしかしたらそれは、

物事を自ら生み出していく、意志の力を使って創造していく、

という側面が欠けているのかもしれない、、

などと思ったりしたのであります。


ソクラテス稲盛氏の生き方から感じたことを書いてみました。



おしまい


(プラトンの饗宴についての再放送は、7/31や8月にもあるようです、興味のある方はぜひ!)


【再放送】
2013年7月31日(水)午前5:30~5:55/Eテレ(教育)
2013年7月31日(水)午後0:25~0:50/Eテレ(教育)
2013年7月31日(水)午後11:00~11:25/Eテレ(教育)
2013年8月7日(水)午前5:30~5:55/Eテレ(教育)
2013年8月7日(水)午後0:25~0:50/Eテレ(教育)




参考:

100分で名著 ~ プラトン『饗宴』
 


 
 
 
 
 
 




2013年7月21日日曜日

サイエンスの心とオカルティックな心



この前の朝見たは、とても印象的なものでした。

イギリスの田園風景の中を、車で誰かと一緒にドライブしているのです。

ドライブ、といっても奇妙なことに、線路の上を車で走っているのです(笑)。

イギリスの海岸線や緑豊かな景色が車窓の外を流れていきます。

で、車に同乗しているのは誰かよくわからないのですが、よく気心の知れた年配の方であるようです。

その人と話をしているのか、コミュニケーションをとっているのですが、

頭の中には、イギリスはアメリカに次ぐノーベル賞受賞者を出すほどのサイエンスの進んでいる国であるが、

その下地にはキリスト伝導以前からあるケルトオカルティックな文化があって、

そのオカルティックな文化という土壌があってサイエンスという華開いているんだ、

というものでした。

私は、そうだろうな、うん、うん、と妙に納得しながら目覚めました。

あまりに鮮明な夢だったので、すぐに書き留めておいて、自分がこの夢からなにを感じたのかを暫く考えてみました。


ものごとを

”(顕れているもの)と“”(密やかなるもの、隠れているもの)

に分けると、

サイエンスというのは、顕在している現象をとらえるのに有効な手法です。


当ブログでも何度か紹介したかと思うのですが、

中谷宇吉郎氏の書いた名著


 



の本を読むとよくわかるのですが、

科学とは、

 私たちが捉える事の出来る現象(再現可能性のある現象)=数値化できる現象

を扱う手法であって、

そこには、再現可能性のない現象=数値化できない現象があることがあることが前提になっています。


またもうひとつのポイントとして、

たとえば一回きりの彗星の観測というのは、再現可能性がないわけですが、

この現象は今までの科学の体系から理解できることなので、一回きりの現象であっても科学の対象となりうるのです。

しかし、たとえば幽霊のような現象は、まず見れる人と見れない人がいること、

今までの科学の体系から理解できないので、科学の対象にはならないのです。

ここで大事なことは、

科学の対象に適さないもの=存在しない

ということではないのです。

あくまでも、数値化できない、科学の手法に適さない、というだけであって、そのような密やかな現象はいくらでもあるのです。

たとえば、身近なところで言えば、自分の内心の感情は、他の人には観測できないから“存在しない”とはいえませんよね。

そういう意味で、心理学は科学か、ということが昔から言われており、

心理学が科学であるようにみせるために、表に現れた行動として数値化できるものだけを扱う行動主義心理学のような一派も生まれました。

余談は置いておくとして、

科学の手法というのは、科学で扱えない現象が存在することが前提となっているのです。

そもそも科学は宗教、特にキリスト教に対する反発から生まれました。

ある本に書いてあるから正しい、誰か偉いひとが言ったからそれが真実である、とするのではなく、

主観を出来る限り排し、自然現象の観察から得られるデータを真なるものとして扱おうとしたのです。

つまり本来自然現象には、

顕なるもの=科学的手法に適するものと

密なるもの=数値化できない、科学が扱えない現象(心、魂に関わる現象など)

の両方が存在していて、

人間にとっては、車の両輪のようにその両方が大事なのだということです。


そして、その二つは相反するものではなく、実は人間にとって相補うものだと思うのです。

ちょうどカメが陸上の世界と水中の世界の両方を見ることができるように、

人間も、この両方の世界を悠々と楽しむ能力が本来備わっていると思うのです。

ただ、育ってきた時代、環境によって、どちらかに偏ってしまうことが生じるように思うのです。


顕密といえば、仏教においても顕密という言い方が存在します。

一般の小乗、大乗仏教を顕教というのに対して、真言や天台は密教といわれます。

およそ、宗教的な伝統には、

一般に教えられる顕教的な教えと、ある一部の人に口伝のように伝えられる密やかなる教え(密教)が存在するようですが、

真言密教を伝えた空海は、

秘密ということに関して『弁顕密二教論』という本のなかで次のようなことを言っています。

 
そもそも秘密なんてものはないんだと、すべては公開されているんだと。

しかし人が自ら目を覆い隠して見えないという秘密(衆生の秘密)と、

大いなる存在が時期を見て開示していく秘密(如来の秘密)という二つの側面がある。


しかし大いなる存在(大日如来)の視点からすると、すべてはそもそもの初めから公開されているんだと、

そのようなことを述べています。


顕教が無知な状態から悟り(光明)へと進んでいくというイメージであるのに対して、

密教はいきなり悟りの境地(光明の境地)から全体を俯瞰してみせるという大きな違いがあります。

マンダラのような図像はまさにそのための道具ですね。


話を元に戻すと、

顕なる(ものと感じる)現象も、密なる(ものと感じる)現象も、ともに本来一如であって、

その両方がともに大事なのであって、

どちらか一方のみ、ということになると、まさに片手落ち、全体を見失うということになると思うのです。


夢から、このようなことを色々と考えたのですが、

なんでこんな夢見たんだろうか、、と思いをめぐらしてみると、

一つには、いま読んでいる本が影響しているのかな、という思いに至りました。


いま読んでいる本の一つは、

前回にも紹介した矢作氏と遺伝子研究で有名な村上和夫さんとの対談本で、



 



という本で、まさに似たようなテーマが出てくるんですよね。


このなかで、アインシュタインのことばとして、

「宗教抜きの科学は足が不自由も同然であり、科学抜きの宗教は目が不自由も同然である」(p.56)

ということばが紹介されていました。


やっぱ天才というのは、スケールが違うなぁ~と感じました。


また他に読んでいる本に、


 



という本があります。


これは職場のスピリチュアルつながりの方から、

こういう本があるよ、ぜひ読んでみたらと紹介してもらった本です。

著者は谷口雅春氏で、生長の家という新興宗教の創始者です。


主な主張を要約すると、

我々人間は、本来神の子、光の子であって、完全無欠である。

病気になったりするのは、自分が身体であるという思いにあるのであって、

本来、私たちが完全円満な神の子、光の子であるという正しい思いをもてば、自ずと病気もなくなっていく。

私たちが現実だと思っているこちらの世界は、ちょど映画がスクリーンに投射された映像のようなものである、

実はこちらの世界は影なのであって、私たちの本質は光である、

とだいたいこんな主張です。

旧仮名遣いで書いてあり、読み進めていくのもナカナカ大変で、ようやく一巻を読み終えようとしているところですが、

その教えは概ね上記のようなもので、頷ける点が多かったです。

(天風さんの教えとも共通点が多いです)



実は、いま他に稲盛氏関連で、


 
 
 
 



という本を読んでいるのですが、

奇遇なことに、実は稲盛氏が若かりし頃、結核になって人生の方向を見失っていた時に、

先の谷口雅春氏の『生命の実相』に巡り合い、その人生観に影響を与えたという本なのであります。

(そのことも本の中に書かれていました)


上記の二冊の本を読むと、改めて稲盛氏の巨大さがわかります。

稲盛氏は、言うまでもなく、バリバリの実業家、現実家、サイエンスマインドの持ち主でありますが、

実は家の蔵書の7-8割は精神世界関連の書物が占めており、

その蔵書の多さに2階の床がぬけないか心配であるというほどの量だそうです。

まさに、オカルテックな世界を土台にしながら、サイエンスの心をもって成功を成した人物、それが稲盛和夫という巨人のようです。


まあ、色々とこういった本を読んでいる影響で、奇妙な夢をみたのかな~、などと思いました。

考えてみたら、日本も神道といういまいちよくわからん宗教を土台にして

ハイテクノロジーの華が開いているちょっと変わった文化ですよね。

東京のど真ん中に、明治神宮のような聖なる寂静の空間があったりと、

あの対比は、日本をよく象徴しているように思います。


せっかく日本に生まれ、日本人として生きている私たちは、

そのどちらも尊重し、育んでいくことが大切なんだろうな、と思うのであります。


なんか夢を見て、

実際にイギリス、アイルランドあたりに行ってみたいな~、

なんて白昼夢にふけっている彦兵衛ででありました。。。



おしまいっ!



参考:

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

 
 
 
 

 
 
 

 
 
 
 
 

2013年7月16日火曜日

背骨を回す(撼天柱 )、、、気功、ヤントラヨーガ、養道法、ケイシー体操



この春に、東大の医学部の先生で、

人はどうやら死後も生き続けるようだ、ということを書いた本、


 



を当ブログで紹介しましたが、

その中に中健次郎という気功師が紹介されていました。

共著もあり、

 
 


ご自身の著作も、


 



あるようなのですが、


かなり興味を持ち、どういう人なのだろう、、、

とネットで検索してみると、中健次郎氏のHPがありました。

中健次郎 公式ブログ
http://ameblo.jp/kamehenmura/


読んでみると、スケジュールの所に近くに気功の講習会に来るということだったので、参加してみました。(もう数か月前のことです)


で、その講習会の中で、いくつか気功の動作を習ったのですが、

その中で割と自分にあっていると感じたのが、タイトルにも載せた撼天柱という動作でした。

これは座って、背骨をぐるぐる回す動作なのですが、やっていて気持ちいいし、

また心が静まってくる感覚があります。


先に挙げた中健次郎氏の著書にも紹介されていたのですが、

面白いことに、この動作はチベットに由来するということが書かれていました。↓

(撼天柱の章を全部載せておきます)







 
 
 
 
 このチベットに由来するという個所を読んで思い出したのが、

ナムカイ・ノルブ氏が書いた本の中の、


 




チベットの秘密寺院(ゾンダク・ルカン)に描かれたヤントラヨーガをする行者の壁画でした。





 
 
 
私はこれを初めてみたとき、変なポーズだなぁ、と思っていたのですが、

この左ページ下の写真の図は、もしかしたら背骨を回している図なのではないか、、、

と思ったのです。


同様に背骨を回すことに関しては、

あの中村天風氏も養動法として述べており、

座禅をする前に、右回りに背骨を回すことの効用を説いています。

養動法
http://www.tempu-online.com/part2/chapter-sky.html


他に思いつくものとしては、

眠れる預言者エドガー・ケイシーが、

やはり背骨を回す体操(どちらかというと骨盤ですが。こちらは腕立ての姿勢で回す)の健康に及ぼす効果を説いています。

ケイシー体操(骨盤の回転)
http://www.youtube.com/watch?v=fdcTug7ujN8


どうやら背骨を回すことは、心身に対して、私たちが解剖学的に理解している以上の色々な効果があるように思われます。


興味のある方はぜひやってみてください。


さて最後に、、、

ヤントラヨーガが出てきたついでに、

ヤントラヨーガがどんなものか、その資料を載せておきましょう。


これは私がデリーにいた時に、ナムカイ・ノルブ氏から教わったときに使った資料です。

いつかはブログで載せようと思っていたのですが、

ちょうどいいタイミングのように思うので、今回アップしておきます。

すべて英語なので、興味のある方は辞書片手に読んでみてください。

文章を読んだだけではわからないのですが、

特徴としては呼吸がとても激しく、まるで武術か何かをやっているような呼吸法でした。

チベット体操はもっとマイルドですよね。

私はどちらかというとチベット体操の方が好きです。チベット体操もおそらく源流はヤントラヨーガでしょう。

(似たような動作も散見されます)















 



おしまい



参考:

人は死なない-ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索-

人は死なない。では、どうする?

病気が治る「気功入門」DVDブック―伝説の気功家・中健次郎が伝授!

虹と水晶―チベット密教の瞑想修行