2021年8月29日日曜日

いつも幸せでいよう、、、~体・お金編~ 今を楽しみ、未来に投資しよう!

 

前回の続きとして、体・お金編として、思いつくことを書いておきましょう。


幸せを感じる要素として健康は重要な要素です。


健康を維持するためには、前回の心の持ち方、心がポジティヴで幸せを感じている意外に、

体の特性を知り、肉体をしっかりと維持・メンテナンスする習慣を持っておくことが大事だと思います。


体の健康の維持に重要な要素は、食事・運動・睡眠の三つになるかと思います。


食事、睡眠が欠けると、心に悪影響を及ぼすのは容易に想像がつきますが、運動も同様です。若いうちは、体も動くし、勢いでなんでもこなせてしまいますが、メンテナンスを怠っていると、次第、次第に自由が利かなくなってきて、心も消極的になっていくようです。


ある知り合いで、高齢の方が、背筋もピンと伸びていて、頭脳も明晰、とてもしっかりした生活をされていたのですが、ある時期から急激に腰が曲がり始め、みるみる内におじいさんのようになってしまいました。

聞くと、若い頃はプールに行ったりして運動もしていたが、次第にやらなくなってしまった、、とのことでした。背中が曲がってくる要因として、背筋の衰えと骨の劣化があるようです。


私は、自分とは違う世代の人たちと接する機会をもつことって大事だと思います。

特に高齢の方は、私たちが行く先を歩んでいるので、その方々がどのような生活習慣をもっていて、それがどのように老後の生活に影響を及ぼしているか、つぶさに見させて頂くことができます。

運動をしていない人は、どうなっていくのか、お酒好きな人はどうなっていくのか、などなど、他山の石として参考にさせて頂けるモデルがたくさんあります。

もし、あまりそうなりたくない老後を生きているようでしたら、参考にさせて頂いて、自分の生活の軌道を変えることもできます。


また逆も同じで、高齢なのに、生き生きとして楽しそうに生活している人がいたら、私はいくらでも尋ねて、いい習慣を自分の中に貪欲に取り入れるようにしています。


貯筋をしよう、なんてことを聞きますが、普段からある程度体を動かし、適度に筋トレもして、筋肉をつけ、維持していくと、年取った時に大変な思いをせずに済むかもしれません。


また運動というと、どうも修行のように我慢に我慢を重ね、歯を食いしばって続けていくもののようにとらえている人が多いようで、自分の周りでも、定期的に運動をしている人はあまり多くないようです。

それでいて、痩せたい、とか、痩せるにはどうしたらいいのか?と聞いてきて、その都度ポイントを教えるのですが、なぜか実行しない。。

まあ人の事、人が選択することだからいいのですが、恐らくそこには、大いなる誤解、やり方の間違いがあると思います。

それは、心に如何に負担をかけないでやるか、いやむしろ、いかに楽しく、心地よくやるか、そのための自分に合った方法というものを見つける、ということ、ただそれに尽きます。


私は毎日の体操的な運動の他に、週2回強めの筋トレ、週に一回のジョギング(5kmほど)を行っています。

何故続くかというと、単純に気持ちいいからです。運動をすると、心がリフレッシュされる感覚があるから、続けるのです。運動をすることによって、脳内から麻薬ような物質が生成されるといいますから、気持ちよくなるのは当然ですよね。気持ちいい強度、気持ちいい回数を心がけています。一度それがわかれば、ほぼ考える必要がないので、惰性で続けられます。


運動は正しくやれば、行うこと自体が気持ちいいし、また未来の自分の生活にプラスに働き、未来への投資でもあるから、積極的に継続して行えています。


何かを続けたいと思ったら、全部同じなのになぁ~、、と私は思います。


受験勉強もハチマキ巻いて睡眠時間を削ってやるものだというようなイメージをもっているひとがいまだにいるのかもしれませんが、受験勉強のようなものも、自分の心に如何に負担を掛けないでやるか、或は、如何に楽しんでやるか、がポイントになってくるのです。


睡眠時間を削るなんて言うのは、受験勉強をしている人のイメージとして思い浮かぶものなのかもしれませんが、それは本当に愚の骨頂であって、もっともやってはいけないことです。自分の心も体も味方につけて、順風満帆で楽々事にあたることがキモです。


そのコツを、ひとつのことに関してでもつかんでしまえば、あとは勉強だけでなく、運動だろうが、ダイエットだろうが、仕事だろうが、継続させたいと思うことすべてに応用できるのです。


それには、心に負担をかけないで、自分にあったカタチをいかに見つけるか、ということに尽きます。


そこに気づくためには、まず自分にあるとらわれ、思い込みから脱する必要があると思うのですが、その心のとらわれから出っするのってなかなか難しいことのように見受けられます。


気持ちいいから、そして、未来の自分のための投資でもあるから、適度に運動する習慣を持ちましょう、と提案したいです。



もう一つ、お金のことを書いておきましょう。

私は昔は、お金は右から左に動かしただけで利益を生むということは、自然の理に反している、と考え、投資的なことはあまりしてきませんでした。

しかし、私はもともとあまりお金を使う方ではなかったので、貯金をして、為替相場で円とドルでぼちぼち行き来させていたら、それだけで1年間で給料の一ヶ月分とかになりました。


これはなんなんだろう??と考えました。

今の結論から言うと、お金は、それ自体がエネルギーなので、お金がお金を生むというのは、お金の持っている性質であるということです。お金は、適切な位置に置いてあげることで、自然と増えていくものだというのが、私の見解です。


たとえば、潮力発電で、波の行き来、潮の満ち引きで自然に、人は何もせずに電力を利用できるようなものです。人にお金を貸せば、利息がついて返ってくるのも、お金自体にエネルギーがあるからです。


何が言いたいかというと、貯金してお金を置いておくだけ、というのは思考停止してしまっているのと同じだということです。


特に今からは、貯金しているだけで、お金がどんどん減っていきます。なぜでしょう?


それは政府がお金を擦りまくっていることにより、お金の価値が下がるからです。年2%のインフレを目指す、ということは、お金の価値が年2%下がるということです。今の0%に近い利子では、貯金しているお金の価値はどんどん下がっていきます。つまり、貯金しているだけという選択は、それ自体がリスクだということです。


昔、大学卒の初任給が1万円なんて表現を聞いたことがあると思いますが、ほんの50-60年前の事です。


お金は、貯金しておいておくものではなく、自分で考えて、色々なところに投資するものだという結論に私は至りました。


お金に対する考えも、お金の為に働く、のではなく、お金に働いてもらう、ような生活スタイルにしていくことが大事だという結論に至りました。


そのためには、ある程度核となるお金を作り、それを投資に回して、少しずつでも増やして、核となるお金は絶対に使わないで、増やす方向にもっていくということです。


イソップで金の卵を産むガチョウの話がありますが、そのガチョウを育てるというイメージです。決して、ガチョウを殺してはいけません。


欧米では、老年になるほど資産が増えていく人が多いそうですが、日本は逆で、高齢になるほど資産が目減りしていくそうです。その違いは、このお金に対する発想、投資に対する考えがあるどうかの違いのようです。


また、これからは、コロナ禍もあいまって、ただでさえ最悪であった国の財政が、一気に悪くなっています。

日本が破たんすること、日本円、日本銀行券が紙くずになることも見据えて、お金をしっかり移すべきところに移しておくべきだと思います。


参考になる本を3つだけあげておきましょう。


ミアン・サミ 『毎月5000円で自動的にお金が増える方法』


↑投資のお話し。貯金をしていることのリスクや仮想通過の話も出てきます。




藤巻 健史 『コロナショック&Xデーを生き抜くお金の守り方』 2020.7


↑日銀破たんの話。藤巻さんの本は、どちらかだけでも読んでおこう!↓





藤巻 健史『日銀破綻 持つべきはドルと仮想通貨』 2018.11


日本の破綻に備えて、藤巻氏は、ドルか仮想通過を持っておくべきであることを述べています。


私は、金(きん)をはじめとする貴金属(銀・プラチナ)の現物に変えるほか、暗号資産の口座も開くなど行動に移しています。


暗号資産に関しても、アヤシイと思っている人がまだまだ多いと思いますが、それがどのようにして生まれたのか、国が管理していないということはどういう意味を持つのか、よくその意味と機能を考え、自分なりの見解をもって利用すべきだと思います。


昔は、貨幣は貴金属でしたが、やがて紙になりました。紙自体に価値はありません。いまそれがデジタルになろうとしています。私は際限なく国が発行する紙幣より、いまや上限が決められている暗号通貨の方が、信頼できるような気がしています。


日本の国の財政状況というものをちゃんと認識しておきましょう。

たとえば、600万円の世帯収入の家が、毎月借金して1000万円を超える支出をしていたら、

あー、あの家は派手な生活しているけど、そのうち終わるなぁ~、、

と思うでしょう。しかも日本国という家には、そこにすでに1億円を超える借金があるのです。。


政府の目論見としては、藤巻氏が語るように、大衆に迎合する政治では解決しないので、ハイパーインフレーションを起こして(起きてしまったように見せて)、国民から一気に徴収して借金をチャラにしようとしているのではないかと思います。


もう、そこにしか着地点がないでしょう。もう、強制徴収です。1000万円が1万円くらいの価値になってしまうかもしれません。そういう可能性もあるので、ちゃんと目を開き、やっておくべきことはやっておくべきでしょう。


すでに渋沢栄一氏が刷られた新一万円札が用意されていることとも不気味です。2024年度から開始のようですが、状況によっては前倒しで使われるのではないでしょうか。その際に、新一万円札が、旧一万円札何枚と交換してもらうるか見ものです。


ハイパーインフレーションになってしい、財政が破たんしてから、政府を非難する、という構図は、私は日本人が昔から繰り返してきたことのように感じます。


戦争もしかり、原子力政策もしかり、思い込み、希望的観測でイケイケでやっていたら、最終的にダメになって、指導者を非難する。


失敗した後に、自分たちがなぜそんなとをやってしまったのか、しっかり反省して、次に生かせればいいのですが、

あれは、当時の一部の人だけがやっていたことだ、自分たちは悪くなかった、と振り返ることもなく、また別のことで同じように希望的観測だけでものごとを進めてしまい、大局観がないためにダメにしてしまう、このことの繰り返しのように思います。


こんなことを繰り返さないためにも、もし今回、日本が破たんしてしまうようなことがあれば、ちゃんと原因を究明し、我々日本人の陥りがちな過ちというものに思いを致し、反省し、改善すべき点は改善し、次に生かしたいものです。


またそうなった時に備えて、各自でお金を適切な所に移して資産防衛を図りたいものです。




パラリンピックが終わり、数か月以内でアメリカの株価暴落が起こる可能性も指摘されています。


最後に、テレビ東京の朝の経済番組モーサテの7/26の専門家インタビューを抜粋しておきましょう。

(この方は、リーマンショックを予想した方でもあります)








































































































体は神様からお借りしているもの神聖なる道具であり、お金もまた神様から与えられて神聖なるツール、それは感謝のエネルギーであり、人間の間を行きかう血液のようなものだと思います。


体もお金も、不浄なものなどとして、見ないようにして過ごすこともできますが、それはそれ相応の結果を招きます。


どちらもよくその原理を知り、大切に扱いたいものです。



以上、体とお金について、最近思うことつらつらと書いてみました。

知は力なりです。


世の中で起こっていることにしっかりと目を開き、しっかり貯筋金トレを行いましょう!

という話でした。


おしまい



2021年8月27日金曜日

いつも幸せでいよう、、、追加分:波、樹のカタチ、同胞愛について

 

前回の “いつも幸せでいよう” の追加として、

についてと、樹のカタチについて、そして同胞愛について書いておきたいと思います。


すべての現象はであるようです。何かをするときは、波の性質をうまく利用するとよいように思います。


たとえば、一日に夜と昼があり、意識に関して言えば、睡眠と覚醒がありますよね。呼吸も心拍も波だし、声、音も波だし、光も波だし、私たちが確固とした物質と思っているものも素粒子の振動で個物として存在しているように見えています。


物事は、自分にある波、対象の波などをうまく利用して、浮き沈み、浮き沈み、どんぶらこ、どんぶらこ、とやっていくとうまく進んでいくようです。


この波を無視して、片一方のみに価値を置いて、そればかりを追求するともう一方に引き寄せられる力が強くなり、うまくいかないようです。


例えば、岡本太郎さんの生前の映像を見ている中で、彼は絵や彫刻、執筆を行うのですが、絵をやっていて飽きたら次に彫刻をやり、また飽きたら執筆を行い、ということを自分の気分、感覚でぐるぐるまわしながらやると語っていました。

波を利用する、というのはまさにこのようなことです。


この波は、また円運動ともいえるし、立体にすると螺旋となります。波はまた振動であり、エネルギーと言い換えてもよいです。


私たちは、ものごとを恒常的なカタチとして捉えがちですが、ものごとの本質は、波でありエネルギーのうねりのようなものであることを頭の隅に置いておくと、物事が変化するときに、ああそもそも事象というものは波であり、エネルギーだから変化していくものだよなぁ~、、と平静をもって捉えられるかもしれません。


真言宗では、物事は旋火輪のようなものだと述べています。燃え盛るたいまつをぐるぐると回すと、赤い輪が出来ます。しかし、その輪は実体のあるようなものに見えますが、メラメラと燃える火が旋回しているだけに過ぎません。物事の実態は、旋火輪の如く、幻のような現象であると説かれています。うまい表現だなと思います。



波の別の側面として、波長があります。類は友を呼ぶという言葉があるように、同じ波長のものは引き合う性質があるようです。幸せでいたかったら、自らの波長を高めておくことに心がけたいところです。


作用、反作用の法則も波ですよね。良きことを行えば、よき結果が返ってきます。よき種をまいておけば、よき実を収穫することが出来ます。

様々な現象に通底する波ということを意識しておくと、ものごとをうまく進めていけるように感じます。



もう一つ、波の他に述べておきたいのは、世界は樹のカタチをしているようだ、ということです。


仮に、私たちは木の葉っぱだとします。そして私たちが仮に緑色しか認識できないとすると、私たちの周りにはたくさんの葉っぱが個々別々に存在しているように思います。


しかし葉っぱは実のところ、枝を通じて他の葉っぱと繋がっています。また、少し離れた枝も、幹を通じてまた繋がっています。私たちの存在というものは、このように、一つのものが多となってあらゆる形態をとって表れているようなもののようで、根底ではすべて繋がっているようです。これは、人間だけでなく、あらゆる生き物、あらゆる自然物すべてです。


この樹のカタチは、生物の進化の系統図であり、私たちの体の中にある血管の形であり、神経系であり、葉の葉脈であり、川が大地に刻むかたちでありと、至る所にみられるます。


同心円構造をもつマンダラは、私は、この樹の所を水平に切って、紙にペタンと押し付けた図であるように感じます。中央の幹が大日如来であり、それを取り囲む枝の無数の円は、様々な如来、菩薩、人間、動物、自然物です。


私たちは、の意識を持っています。その我の範囲というものは、人によって、また民族によって、時代によっても異なってきます。


自分の体だけが、我という人もいるでしょう。我というのは、兄弟、同胞、仲間と言い換えてもいいでしょう。


家族、一族までが我である、同じ地域に住む人までが我である、同じ民族が我でる、同じ肌の色の人たちが我である、ホモサピエンス全体が我、同胞である、という人もいるでしょう。


結局のところ、自分の葉っぱの位置から、どの位置までを我、同胞として捉えるか、意識の線引きをしているかで、その同胞愛の範囲が決まってきます。


昔は、肌の黒い人たちは人間ではないという線引きによって、あらゆる残酷なことが平気でできました。ユダヤ人はブタである、として人間のカテゴリーから外す操作をすることで、また同様の残酷なことを平気で出来るようになります。


逆に自然の中で暮らすネイティヴのような人たちは、人間という種を超えて、動物や植物までもが同胞である、という感覚をもっている人たちもいるようです。


おそらく、究極の存在である神様は、あらゆる存在は、自分の体の一部であり、同胞であり、愛おしいと思っているのではないか、と感じます。

もし、私たちが魂を向上させ、自らの心の本源、真我、神様に近づけたい、と思うなら、この我の線引きの範囲をすべてに広げる心掛けを持つことなのかもしれないなぁ、と感じます。


法律では、人を殺すことと、ペットを殺すことでは大きな違いがあります。でも人の心情からいったら、ペットを殺すことは、器物破損といった無機的なものではなく、もっと人が死んだときと同じような重いものがありますよね。

究極的に、人でなくとも、生き物を殺すということは、私たちが思っている以上に大きな、重いことなのかもしれないと感じます。

従って、食べるという行為は、他の生き物の命を頂く、ということであり、それはもっと厳粛な、神聖なものなのかもしれず、本当はもっと感謝の気持ちをもって、命を頂いている、生かして頂いている、という感覚をもつことが大事なのかもしれないと思います。


もし神様に近い心を持ちたいとおもったら、普段の生活の中で、同胞愛の範囲を限りなく万物に広げていくこと、広げて捉える心掛けをしていくこと、すべてを愛しく感じることなのかなぁ、などと思います。


そして、これは瞑想と対になっていて、瞑想をすることによって、その同胞愛の感覚が広がり、また普段の生活の中で、そのような同胞愛の範囲を広げて捉える習慣をもつことで、また瞑想も深まっていく、ということになっているのではないか、と感じます。


前回の、いつも幸せでいることに関連して、追加しておきたい事を書いておきました。


おしまい。


2021年8月25日水曜日

いつも幸せでいよう、、

 

最近、私の頭の中に、

いつも幸せでいなさい、、

という言葉がよく浮かびます。

いつも幸せでいること、これは私の人生におけるテーマでもあります。


では、いつも幸せでいる為にはどうしたらいいのでしょう。

私は、これには心のレベルのおける二つのアプローチがあると思うので、書いておきたいと思います。

(ここで、心のレベルと書いているのは、体や外的なものを疎かにしてはならず、体や外的な環境も、その法則に則って整えるべきだと思っているのですが、今回は心のレベルに絞って書いておきたいと思います)


心のレベルのおける二つのアプローチというのは、

一つは、日常生活を送っていくなかで、外的な状況に左右されない心の習慣を築くこと。

二つ目は、日常的に瞑想を習慣とすること。


まず二つ目の瞑想について触れておきましょう。

NHKのある番組で、ムツゴロウさんがあるマンガ家と対談していたのですが、その中で、ムツゴロウさんは、

「人間の行動は半分以上は性によって動機づけされている」

ということを仰っていました。

半分以上か、、そんなもんかな~?もう少し少ないんじゃないかな~、でもたぶん半分前後くらいはあるのかもしれないなぁ~、、などと思いました。


しかし、私が思うに、人間の行動の大半は、心の本質的な喪失感、欠乏感に由来しているように思います。それは、私たちの心の本質、魂の故郷との繋がりが切れていることに  由来しているように思います。

物質は、心の粗大な部分で、心は物の微細な部分、と私は考えています。また心も表層の意識から、より深い心の本質、心の本源までと色々な階層があります。


私たちの心の本源、一番深い、根っこのところは、真我、仏性、神などと色々な名称で表現されますが、その本源である聖なる境地、やすらぎの境地に繋がる体験を普段からもつことで、心に満足を覚えていることが出来るし、人や外的なものから影響を受け、支配されにくくなると感じます。


逆に言うと、心の喪失感を、瞑想や祈りなどの自分の内面と向き合うこと以外で得ようとすると、人や物にコントロールされやすくなると言えると思います。様々な形態の依存は、誰もが持っている心の本質的な欠乏感を外的なもので埋めようとする努力のように思えます。


では、どのような瞑想をしたらいいのでしょうか。

ひとつめのポイントは、姿勢にあります。一番勧められるのは、座った姿勢です。寝た姿勢だと眠ってしまいますし、立っていると、あまり落ち着きませんし、座っているときより疲れやすいように思います。ま、それも人の好き好きですが。


結跏趺坐とかにこだわる必要は全くなく、椅子に座ってもいいし、座布団をお尻に敷いてあぐらをかいてもいいと思います。

私が一番好きな姿勢は、正座の姿勢で、お尻のところに座布団を入れる姿勢ですね。これが一番、入りやすい。背筋は伸ばす、というよりも、体重を背骨にかける感じにするのがいいようです。そうすると、筋肉に負担を掛けることなく、長続きするので。


あとは、湧き上がってくる想念を追いかけ無いようにするだけなのですが、いきなりこれをしろというのも難しく感じるときは、呼吸を意識してみたり、数を数えてみたりと、色々な方法があります。自分の好きなもの、自分にあったものをチョイスすればいいと思います。


私のお勧めは、言葉を用いることです。瞑想の始めに、天国や神様の特徴を表すような言葉を繰り返すと、意識が高まるので、ある程度高まったところで、静寂にとどまると、たいへん心地よいです。


では、どんな言葉がいいかというと、幾つかご紹介してみましょう。

日本人なら、アマテラスオオミカミ、という神様の名前はかなりいいと思います。

アマ・テラス・オオ・ミカミ と意味を感じながらゆっくり唱えると、

天において、遍く照らす光があり、それは大いなる神様である、

という感じになるでしょう。ここにインドで聖音とされている、

オームという語が出てくるのも不思議です。


オーム、という音を低いトーンで唱えるのも、私は好きです。

オームと一息でゆっくり唱え、数回普通の呼吸をして静寂を味わい、またオームと唱えるということを何回か繰り返すと、ある種の恍惚感に達します。

何回か、唱え終わった最後に、

オーム、シャーンティ・シャーンティ・シャーンティヒー、、


と歌のように節をつけて締めくくるとさらに良いです。これはインドで習ったもので、実際に音に出してみないと感じて頂けないかと思うのですが、やすらぎの境地にいざなわれるような感覚があります。


真言宗やゾクチェンでは、ア音は心の原初の境地に響ていてる音であるとされます。アー、という音が好きな人はア音を唱えたらいいと思いますが、私はオームの方が体質にあっているようです。


また話を言葉の方に戻すと、

聖なるものの内の聖なるもの、聖なるものの内の聖なるもの、

生かして頂いてありがとうございます、生かして頂いてありがとうございます、

というフレーズも良いですし、

神は、愛、無条件の愛、無限供給の愛であり、慈悲であり、光である、、というのもいいですし、


神は力、智慧、光、やすらぎ、微笑み、寛容、

などの言葉を自分の好きな組み合わせで唱えてみるのもいいかと思います。


笑いの所では、腹の底から、足の底から、体全体の細胞が笑っているようにして、実際に笑ってみるのもいいものです。


そんな、自分の本源、神、天国の境地を形容することばを列挙し、味わったのちに、何もしないで、寂静の境地を静かに味わう、というのが私のやり方です。


最初から、いきなり何もしないで、ただ湧き上がってくる想念にとらわれないようにする、みたいなアプローチより、断然早くやすらぎの境地に至れるので、言葉と心の作用を利用しない手はないと思います。ま、人の好き好きですが。。


こうして、心の本源と触れる習慣を毎日の中でもっていると、喪失感とか淋しさみたいなのがなくなっていくように思います。


たとえば、職場の同僚との話で、彦兵衛さんは普段、お酒飲まないの?あんな、人生で楽しいものがあるのに残念ですね~、、なんて言われたことがあります。

お酒より、瞑想の方が断然、気持ちいいし、心地いいし、継続するし、心と体に良いと思います。

私は、そういわれて、ははは、そうですか、、と流しましたが、むしろ瞑想の心地よさを知らない、その可能性すらも知らないって、かわいそうだなぁー、と思いました。


お酒とかギャンブルとかゲームなどもそうだと思いますが、世の中には依存させるものに溢れています。依存させるもので経済が回っていると思えるほどです。


そうした人を依存させるものはたくさんありますが、究極的な所で、それは人の魂の本源と切り離されてしまいってる喪失感に由来しているように思います。

そして、その喪失感は、外的な刺激では埋められないと感じます。では、瞑想以外に、そうした魂の喪失感を埋めるものはあるのでしょうか。


私はかつて、南米にいって、何人かのシャーマンを訪れ、ジャングルの中で一緒に薬草を体験していた時期がありました。なぜかというと、シャーマンたちが、仏教にあるマンダラと同じようなものを描いていたりするからです。


瞑想と薬草を使う方法は、どう違うのだろうか?

私の興味はそこにあったので、実際に数か月間滞在し、シャーマンのもとで一緒に体験してみました。


結論から言うと、瞑想がもっとも安全で最高の方法です。

薬草は、脳神経にショートを起こすような感じで、色々サイケデリックな色彩を見せてくれ、また音と視覚が溶け合うような感覚を現出されてくれます。


しかし私がそこで感じたのは、それは生物としての一種の退行で、ある種の一体感みたいなものも味わわせてくれますが、それは生物の進化を否定するものであるように感じました。


瞑想は、今ある最高の生理的状態を維持したまま、深い、本質的な統合感を得られるので、一番安全で正しい道であるように思います。恐らく、他の宗教における祈りも同じような効果を得られると思います。

瞑想における、ことばの使用により重きを置いたものが祈りと言え、祈りに置ける、より無為、静寂を意識したものが瞑想と言えるかもしれません。


宗教以外にも、魂の本源に触れられる方法というものが、いくつもあると思いますが、何よりも、自分に合った自然な方法というものを知り、日常生活の中に取り入れておく、というのがいいように思います。


以上が、いつも幸せにいるための方法としての、瞑想の紹介でした。


もう一つは、普段の心の習慣についてです。

例えば、日常生活の中で、アンラッキーと思われるようなことに遭遇したとします。

ふつうなら、うわー、なんでこんなことが起こるんだよー、ふざけんなー、ついてねー、、

とかネガティブワードを連発するのかもしれませんが、そこで、敢えて

ラッキー、ついてる、ついてる

といってみたり、どんなに悪いと思われることが降りかかったとしても、つねに

ありがとうございます

と心の中で言ってみる、ということを習慣にしてみることです。


もう起きてしまったことは変えようがありません。しかし、その外的な事項を自分がどのように受け取るかに関しては、私たちが選択することが出来るのです。

起きた事象に対して、ネガティブに反応し、心を痛めつけることもできますし、

ポジティヴな言葉を唱えて、心安らかに過ごすこともできます。


ここで一つの例をあげましょう。これはマーフィーさんの本に載っていた逸話だったように思います。


ある大佐がいて、息子も軍人で戦地に赴いています。

家にいた大佐は、戦地の息子が戦死したとの知らせを受け、心臓発作で亡くなってしまいました。しかし、後日、それは誤報であることがわかり、息子さんは生きていました。


ここで、その大佐が亡くなってしまった原因は何でしょうか。

もたらされた知らせによって亡くなったわけですが、もう少し分析すると、実はその知らせを不幸なるものとして受け入れた大佐の心の作用そのものにあるのではないでしょうか。


これはとても極端な例ですが、多かれ少なかれ、人はこのようなことをしているのです。自分の心を痛めつけているのは、実は自分自身なのです。外的なことはすべてニュートラルなのです。それを解釈するのは自分の心です。このことに気付いて、心に良い習慣をもちたいものです。


特に、自分の心の平安にとって障害になると思われるものが、日常生活を送っていたら、たくさん起こってくるものです。

しかしそれらは、実のところ、自分を鍛える絶好の材料でもあるのです。煩悩即菩提という言葉があるんですが、一般的に負と思っている物をすべてプラスのものに変えてしまう方法というものをもっていると強いですよ。

いま挙げた、ことばというものもそうだし、気分がネガティブになっているときに、その気分を変えてくれるような事柄を想像してみたり、これは英語でマインド・シフターなんて言ったりしますが、そんなものもの用意しておくのも手です。

実は、日常を楽しく、幸せに生活できるかどうかは、本当に、真に自分自身の選択にかかっているのであって、外側、他者、外部にあるのではないのです。

しっかりと、ハンドルを自分自身に取り戻し、自信(自神)をもって生きていきたいものです。


なんとなく、書いておきたいと思うことをまとめてみました。


おしまい