2017年12月22日金曜日

神戸金史さんの講演を聞いてきました。。 ≪その参≫



講演の最後に、ビッグなお知らせがありました。

それは、12/29(金)夜9時から神戸(かんべ)氏がラジオ番組に出るそうなのですが、

それにあたって植松容疑者との面会を予定しているとのことでした。

ラジオ番組に出ること自体は公表しているが、植松容疑者と会うことに関しては秘密にしておいてほしいとのこと。

それはその面会が実現するかどうかわからないから。

彼と会うために手紙のやりとりをしているといいます。その返事の中に、

あなたは自分の息子をいつまで生かしておくつもりか?

という内容が書いてあり、その返信をまだしていないという。

その返答次第では面会は実現しないかもしれないということでしたが、

神戸氏が植松容疑者と会ってどのような対話がなされるのか、興味深い所であり、ぜひ録音して聞いてみたいと思っている。


今回、このような障害児をもつ家庭の内面を知る機会を得ることが出来てとても良かったと思います。

では最終的に大事なことは、なんなのかということを考えてみました。

結論としてそれは

‘知ること’ ‘知っていること’ ‘知識’

なのではないかという思いに至りました。

障害のことを知らない世間の人もそうだし、娘に対して「私も子育てでは苦労した、一時のことよ」と言ってしまう母もそうだし、

結局のところ諸々の悲劇は知らないことに根差しているように思います。

自閉症や障害に関して知っていること、それを抱える家族の死を考える程の悩みの現実があることを知っていること、

また私たちは常に意識の上で線引きを行っていることを知っていること、それに目を開いていること、その重要性を学んだような気がします。

まずは知ること。そして知っているならばまわりに啓蒙すること、これが大切なのかもしれない。知は力なりである。


今回、この講演に参加できたことはまことに幸運でした。

今後もこのような催しがあった場合は積極的に参加したいと思うし、また今後の神戸氏の動向に関しても注視していきたいと思う。


最後に講演の中で映像とともに紹介された障害を持つ息子への詩(相模原事件後にフェイスブックにアップし拡散して有名になった)が、

翌日にヤフーニュースにアップされるとのことでした。

調べてみると確かにアップされており、その詩も参考として付しておきます。

ぜひ読んでみてください。



・・・・・・・↓

 ◇神戸金史さんが相模原事件の3日後にフェイスブックに投稿した文章(全文)
「障害を持つ息子へ」

私は、思うのです。


長男が、もし障害をもっていなければ。
あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。

私は、考えてしまうのです。


長男が、もし障害をもっていなければ。
私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。

何度も夢を見ました。


「お父さん、朝だよ、起きてよ」
長男が私を揺り起こしに来るのです。
「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」
夢の中で、私は妻に話しかけます。

そして目が覚めると、
いつもの通りの朝なのです。


言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。
何と言っているのか、私には分かりません。

ああ。
またこんな夢を見てしまった。


ああ。
ごめんね。

幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。
いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。


想像すると、
私は朝食が喉を通らなくなります。
そんな朝を何度も過ごして、
突然気が付いたのです。

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、
人をいじめる人にはならないだろう。


生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。
お前の人格は、
この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。
お前は優しい、いい男に育つだろう。

それから、私ははたと気付いたのです。
あなたが生まれたことで、
私たち夫婦は悩み考え、
それまでとは違う人生を生きてきた。


親である私たちでさえ、
あなたが生まれなかったら、
今の私たちではないのだね。

ああ、息子よ。
誰もが、健常で生きることはできない。
誰かが、障害を持って生きていかなければならない。
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。


私の周りにだって、
生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。
生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。

交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、
雷に遭って、寝たきりになった中学生が、
おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、
嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、
実は私の周りには、いたはずだ。


私は、運よく生きてきただけだった。
それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。

息子よ。
君は、弟の代わりに、
同級生の代わりに、
私の代わりに、
障害を持って生まれてきた。

老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。
事故で、唐突に人生を終わる人もいる。
人生の最後は誰も動けなくなる。


誰もが、次第に障害を負いながら
生きていくのだね。

息子よ。
あなたが指し示していたのは、
私自身のことだった。


息子よ。
そのままで、いい。
それで、うちの子。
それが、うちの子。


あなたが生まれてきてくれてよかった。
私はそう思っている。
父より

新聞記事:
障害を持つ息子へ(詩)
https://mainichi.jp/articles/20171205/k00/00e/040/237000c



参考:
障害を持つ息子へ(詩と歌) (YouTube で‘障害を持つ息子へ’で検索)

『うちの子~自閉症という障害を持って~』【1】(RKB毎日放送制作)・・・公演中に流された映像
約10分×全5回

連続で見る場合↓
連続動画再生ビューア TBS (←表題で検索し、HP上でCTRL+Fで「自閉症」で検索する)

http://news.tbs.co.jp/3snewsi/index.htm
  



2017年12月21日木曜日

神戸金史さんの講演を聞いてきました。。 ≪その弐≫



講演では、資料として用意された新聞記事の話しと共に、50分ほどの映像が放映されました。

それは記者の自閉症の息子の様子とともに、他に2人、少し重めの自閉症の子と、

少し軽めで働いている自閉症の成人をドキュメントしたもので、実際にTBS系列で放送されたものらしいです(動画で視聴可)。


約10分×全5回


その中で、重めの自閉症の子を育てていた母が、今は頑張るが、10年後も状況が変わらないようなら一緒にいく、ということを目に涙を浮かべながら語っていたのがとても印象に残りました。

50分の映像が終わった後に、神戸氏はある図をかきだした。

それは自分の息子と映像の中に登場した少し重めの子と、軽度の方をグラフのように配して線でつないだ図でした。

障害の重い人から健常者までいろんな人がおり、そのどこかで障害を持つ人とそうでない人の‘線’を引く必要がある。

それは社会福祉を受けるために便宜上必要であるが、そのような線は絶対的なものではないのではないか、という問いかけでした。

誰でも年老いていけば限りなく障害者の方に近づいていく。つまりあらゆる人が障害者になりうるし、障害の方に向かって進んでい

障害者にやさしい社会をつくるというのは、高齢者に優しい社会をつくることであり、

それは住みやすい社会をつくることだと述べていました。私もその通りだと思います。

また線を引くということは必要であるが、線を引くことと、差別は別だということでした。

差別は区別したものに価値判断をし、劣ったものを排除しようとする動きです。神戸さんは現在あるヘイトスピーチのようなものとも戦っているということでした。


線を引くことに関して、これは私も常々考えてきたテーマでした。

線を引くというのは、切ること、分けることであり、それは分かることにも繋がっている。あるものごとと、そうでないことの違いが分かるということである。

サイエンス(science)の語源はスキーレというラテン語に由来する。それは切る、知るという意味である。科学の‘科’という字も科目の‘科’であり、それは分けることで、科学、学問の初めは分類、分けることにあった。

私はナチスの思想が当時科学の最先端であったドイツで生じたというのは決して偶然ではなかったと思う。

あれほど科学が進歩しているのに、ではなく科学が進歩しているからこそ、そういう思想を生む機運が高まっていたと考えるべきではないかと思う。

私たちはものごとを切る、知ることによって文明を発達させてきたが、その行きつく先に人間の分類、そして優劣をつけ劣ったものを排除するという社会が現出したと考える。その線の引き方というのは、時代により異なるし、地域によっても異なる。

私たちはナチスや植松容疑者の行ったことをおぞましい行為だと思うであろう。しかし私たちは人間と非人間の線を意識の上でひいて、同じことをしていないだろうか。

たとえば胎児に関して21週までは堕胎が法律的に認められており、障害児である可能性がある場合、そこで合法的に中絶することが出来る。では21週以前の胎児は人間ではないと言い切れるのだろうか。

それは便宜上引いている人間と非人間の線であって、時代や地域が違えばそれは犯罪になりうるし、

天の視点から見たらもしかするとナチスと同じレベルの大罪にあたるのかもしれない。それは分からない。日本では年間数十万人の胎児が中絶されている。

また誕生だけでなく死に関してもそのラインをどこにするのか臓器移植の問題と関連して喧々諤々の議論がなされた。


境界線のあやふやさに関して、ひとつ身近な例を挙げてみたい。数学で海岸線問題というのがある。ある島の周囲がある辞典には100km、別の辞典には200kmと書いてあり、それに疑問をもった学者が調べてみたのだ。

すると実は両方とも正解でありかつ間違いであったのである。

それはどういうことかというと、海岸線をどの長さの定規で測るかによって長さが変わってきてしまうのである。

例えば1mの定規と30cmの定規では凸凹の長さを測定した時にその長さが変わってきてしまう。

つまり海岸線はその細部を拡大すれば拡大するほど緻密な構造が出てきて、小さい定規で測れば図るほど距離は無限に長くなっていくのである。

すなわち当然長さが決まっているだろうと思われる島の周囲の長さというのも実は測定不能なのだ(詳しく知りたい方はフラクタル図形について調べてみると良い)。

このように身近な海岸線のようなものに関しても実はものすごくあやふやであり、そういったあやふやなもの対して人間は分かったつもりになってものごとをとらえている

きちんとした長さがあると思っている海岸線の長さも実はあやふやであり、またものごとの境界も実は人間が意識の上でひいている仮想のものであって、確固としたラインが自然界に存在している訳ではない

私たちは植松容疑者の行った行為をおぞましい非道なものであると感じる。それは、私たちが一般にとり決め、合意している人間と非人間の線を自分勝手に書きかえ、それを行動に移したからだと私は感じる。

しかしそのような行為は、また時代や地域が異なれば称賛されうる可能性があり、また日本においては何十万の胎児が合法的に中絶されている現状がある。

それらを考えると私は個人的には植松容疑者を頭から否定すること、声高に悪がなされたと非難することに抵抗を感じる。

かつてキリストは、罪を犯した女性を非難する周りの人たちに対して、罪のないものから彼女に石を投げるがよい、と語ったが、私はまさにその言葉を思い出す。

自分の属する日本の社会で合法的に堕胎のような制度が認められながら、植松容疑者のやった行為を一方的に非難することに抵抗を感じてしまうのだ。

では私たちはどうすべきか。

まず人間は意識の上で線引きを行うということ。

そして、その線は時や場所によって容易に変更されうるということ。

そしてその線引きをして‘外’と認識したものに対して、人は無感覚に相当残虐なことをなしうるということ。

この3点をよく自覚しておく必要があるのではないかということである。

線引きをどうするかはその都度社会でよく話し合われなければならないし、いま既にある線引きに対しても当然のものとして無思考になるのではなく、常に目を開いているべきであり、また時にその線引きは正しいのかどうかを考えてみる必要があるということである。


また講演の中では、相模原事件の被害者の匿名についての話題が出た。神戸氏によると、匿名というのはたいへんに恐ろしいことなのだそうである。

というのも戦前は逮捕されたときに、誰が逮捕されたのか、その名前が公表されなかったという。それは権力者にとってはとても都合の良い事で、それによって好き勝手にどんどん逮捕し、拷問が行われたという。

現在すべての名前を公表するというのは、そういった戦前の反省からきているのだそうである。

名前を公表することの副作用もあるが、公表することと発表の仕方を考えるというのはまた別のことで、もしこれが匿名でも良いという風潮になったとすると、それはとても危険だと述べていた。

私は、なんでも公表してしまうことに疑問を感じてきたが、とても腑に落ちる説明を初めて聞き、さすが元新聞記者だと感じた。


つづく、、



2017年12月20日水曜日

神戸金史さんの講演を聞いてきました。。 ≪その壱≫



先日、ある講演を聞きに行きました。

自閉症の子をもつ元新聞記者で神戸(かんべ)金史(かねぶみ)さんという方の講演です。

障害を持つ息子へ』(ブックマン社 2016)という本の著者でもあります。





とても考えさせられる内容だったので書いておきたいと思います。

まず紹介されたのが新聞記者時代に神戸さんが書かれた記事でした。

新聞記者だった神戸(かんべ)氏は、結婚する前に、12時前には帰らないから、と宣言していました。

それは新聞記事の締め切りが夜中の1時なので、1時までは原稿を書ける、というところかららしいです。

先輩からは、記者とはケンカを受けること、社会と戦うのが仕事だといわれており、結婚前の宣言通り12時過ぎの帰宅が続き、子育ては妻まかせであったそうです。

子供に障害があることがわかっても、それを本当に受け入れるまで4年かかったといいいます。

朝、子供が健常児のように話しかけてきて、やっぱり思い過ごしだったんだよ、と妻に言う夢をよくみたそうです。

息子の言動にこんな意味があるんじゃないか、、と思って妻に話すと、2年遅い、、といつも言われていたそうです。

そんな中、妻からあることを打ち明けられます。それは、子どもが2歳の頃、本気で子どもに手をかけようとしたことがあるとのことでした。

新聞記者である自分の家庭が事件現場になっていたかもしれない、と衝撃を受けたそうです。

ちょうどその時、あるワイドショーで一家心中が取り上げられていました。その画面には‘3人の子を殺した鬼母’というスーパーが踊っていたそうです。

それを見た時に、ひょっとすると無理心中した家庭には障害児がいたんじゃないか、と直感し、取材を開始します。

調べていくと、確かに障害児をもつ家庭の一家心中は多いということがわかってきたそうです。

その中で新聞記事にもとりあげられた事件について、更に記事に書かれていない裏の話を聞かされました。

  それは、母が、障害をもつ末っ子の男の子と上の健常の娘2人の首をしめて殺し、本人もマンションから飛び降りて自殺し、仏壇には骨壺が4つ並んでいるという記事でした。

お宅に伺い話を聞いていると、祖母(自殺した娘の母)がとつぜん収拾がつかないくらいの勢いで泣き出しました。誰にも話したことがない話があると言うのです。

それは、娘がまだ結婚する前のこと、別の男性ともお付き合いをしていたが、その男性に障害のある兄弟がいたので、母はその男性とは別れるように言ったそうなのです。

しかし結婚して子供が生まれると、3番目の男の子が障害を持っていました。

娘は自分のせいだと強く思っていたようで、また上2人の娘も、たぶん単なる発達の個人差であったのであろうが、一方は少し言葉が遅れ気味で、もう一人は足があまり速くなかったそうで、それらも自分のせいだと思っていたようです。

そして兄弟に障害者がいれば、二人の娘は結婚できないだろう、と思い詰め、自殺に至ってしまったのではないか、ということでした。

なんと母の障害者に対する差別が、巡り巡って自分に戻ってきたということのようで、なんとも痛ましい、悲惨としかいいようのない事件です。

神戸さんが話されていたのは、最終的に一家心中をしてしまう時にはあるキーワードがあるといいます。

それは娘が実母に子育てに関して相談した時に「私もたいへんだったけど、一時のことよ」という言葉なのだそうです。

そう言われて絶望し、手をかけてしまうという。母は娘をねぎらっているつもりで言っているのに、その一言で心中を決意してしまったケースが多いそうです。

もし母が自閉症や障害に関して少しでも知識があれば、そのような発言はなかったのかもしれません。


つづく、、


2017年12月18日月曜日

スターウォーズ エピソード8 ~最後のジェダイ 観てきましたー!



日曜日に、最後のジェダイ観てきました!

場内はほぼ満席。上映時間は3時間近くです。

ジェダイね、、うん、ジェダイは滅びないのか、、、なんて。

細かい感想はやめておきましょう、これから観る方もいるでしょうし。


いくつか、おおざっぱな感想を書いておきます。

ストーリーがあっちに飛び、こっちに飛びと盛り込みすぎという感じで、

昔の作品ほど入り込めなかったかな~、、と感じました。

製作費もCG技術もがふんだんにあるから、好きなだけ話が作れる、というところから緊張感が薄くなっているのでしょうか

ストーリーをパッションで作っているというよりは、

商業主義にのっとって作っているという感じが強く、

新しく出てくんるキャラなんかも、浮いてて、あまり入り込めないものもありました。

お金や時間や技術に限度があるときこそ、名作が出来たりするものなのかもしれませんね。

何がなんでもこういうシーンを取りたいんだー、

と知恵を絞ってその箇所に意識を集中させるので、結果いいものが出来るのかなぁ、などと思いました。

適度に制限があることって芸術を生み出すのに必要なのかなぁ、、などと感じました。


あとは、なんかどこかで見たシーンだな、、と感じさせる箇所も多く、次の展開が予想できてしまいました。

たとえば、前回のフォースの覚醒でも、敵の核となる設備は、確かに巨大なのですが、

デススターと基本的に同じ発想で、それが惑星並みに大きくなっただけのこと、

昔の流れを踏襲していて発想の転換が感じられません。

兵器に限らず、ストーリーにおいてそれと同じようなものを感じました。

大作の続編ともなればしょうがないのでしょうか、、、。

これは大企業が大きな転換をなかなか図れないというのと似ているのかもしれないな、、なんて思いました。

まあでも、映画館の大スクリーンで観る価値は十分にあります。


さて私はこの週末で感動したのは、意外にもスターウォーズでなく、

前にブログで取りあげた、映画『パーソナル・ソング』の方でした。

結局、安くなるチケットがあったのでアマゾン・ビデオの方で見たのですが、

話的には、スターウォーズより、こちらの方が心に刺さりました。

認知症でぼーーーっとして生きる屍のような感じになっている方に、ipodで音楽を聞かせると、

ある人は、急に体を動かして、曲に合わせて歌い出し、

ある人は、目を輝かせて、その曲のこと、それにまつわる昔のことだとかを生き生きと語り出すのです。

その変わり様には本当に驚きました。

音楽がこんなにも人に影響をもたらすものなのか、、と。



そういえば、父方の祖母も、最晩年は意識がほとんどなく、まったく寝たきり状態になっていました。

お見舞いに行って言葉を掛けても無反応でしたが、

♪まいごの、まいごの、子猫ちゃん、あなたのおうちは、どこですか~、、

と、今思うとなんでこの歌を私が口ずさんだのか覚えていないのですが、その歌を歌うと、

つーーっと涙を流していました。言葉とかにはまったく反応がなかったのにです。


音楽は人の深いところに訴えかけ、その人全体に働きかける力があるようです。

認知症の方々には、こういった音楽療法というのがもっと広がるといいなぁ~、と思うとともに、

健常者の人も、もっと音楽の力というものを利用、活用した方がいいのかもしれない、、なんて感じました。

パーソナル・ソング、素晴らしい映画です。ぜひ機会があったらご覧ください!


おしまい




2017年12月15日金曜日

ブレードランナー 2049



先日、終了寸前のブレードランナー2049をようやく見てきました。







3時間ものの大作ということで、始まる前にしっかり出すモノは出し、上映に臨みました()

3時間、あっという間で、途中トイレに立つことなく無事見ていることができましたが、

終わってもなんだかスッキリしない感じが残りました。

なんなんだこれは?

と思って色々考えてみました。

一つには、35年前のブレードランナーが、

レプリカント(人造人間)を狩る方の人間の立場から作られていたため、それなりに痛快感があったように思うのですが、

今回はレプリカントを狩るのもレプリカントで、最後まであまり救いがなかったという点なのかなと思います。

あと、やたらと冗長な感じを多く受けました。

この場面、そんなに引っ張らなくてもいいでしょ、、と感じるシーンが多かったです。


前作主人公だったハリソン・フォード今回も登場しました。

35年たってもかっこいい!

彼が一人で写っていても画面が持つ、そんな渋みと深みのあるいい役者さんだなぁ~

と改めて見てて思いました。

ですがこちらも今回は追われる立場、、、ストーリーが全体的に重く、スッキリしない映画でした。


SFは当たり外れが大きいジャンルですが、それでも私はSFが好きです。

新しい世界観が提示されて、ワクワクドキドキするのもあるのですが、

色々と本質的なことを考えさせられることが多いからかな~とも思います。

いまAIが巷で話題になっていますが、

何十年か前にSFの世界で起きていたことが現実になろうとしている今、

参考になる点が多いように思います。

アシモフのロボット三原則だとか、AIが進んでいったときにどのような事態が予想されうるのだとか、、。

そういった意味でSFは大切だと思います。結局、未来を作って行くのは人間の心です。

SFが提示する未来像というのは、その未来を作って行く人間の心に少なからぬ影響を与えていると思います。

なので、自分は時代を画するようなSF作品というのは意識して見るようにしています。

いずれ考えておかなければいけないテーマのようなものがあったりしますからね。。

なんて、単にエンターテイメントとして楽しいというのが大部分なのですが、、。


SFといえば、いまNHK 100分で名著で、初のSF小説がとりあげられています。

ポーランドの作家が書いたソラリスというSFの原点といわれる名作です。

こちらも壮大な世界観とともに、人間ってなんなんだろうか、、という哲学的な問いを突き付けられます。

代表作として、他に砂漠の惑星という作品が紹介されており、

え、もしかして私の好きな

デューン砂の惑星』のことか?

と思ったのですが、調べてみるとこれとは違う作品のようでした。。

100分で名著、次がまだ第二回ですが、楽しみであります。


ブレードランナー2049の本編が始まる前の映画の予告では、

来年の夏だったかに上映予定のスピルバーグの最新作が流れていました。





バーチャルの世界の中で起こる話のようで、

なんとガンダム〔RX-78やら、アキラで出てきたバイクだとかも登場するということで、


いまから興奮してしまいます。

こういったストーリーを奔放に発想して映画にしてしまうスピルバークというお方は、

本当に凄いなぁ~、天才だなぁと思ってしまいます。


年を感じさせない、若さがはじけています。


結局、人間の限界って、かなりの部分本人が規定してしまっているのだろうな~、、、


なんて思わされます。(12/18で71歳!)


最後に、日本のマンガ、銃夢が実写化されるという話があります。






私は最初の全9巻のマンガしか読んでいないのですが、調べてみるとさらに続きがでているようで、

この冬休みにでも、また最初から通しで読んで、続編の方もフォローしておこうかなと思っています。


いやー、やることいっぱい、楽しいこといっぱい、いいね~、、。


まずは週末のスターウォーズ新作!

(本日よる9時から、前作フォースの覚醒、地上波初放送やります!)

いろいろ書きましたが、


( ^_-)  SF最高!

という話でした。


おしまい


  

2017年12月11日月曜日

いよいよ今週スターウォーズ!



今週の金曜、12/15(金)からスターウォーズ エピソード8が公開となります。




前作が主人公レイがルークと出会うシーンで終わってますが、

そこからどのようにストーリーが展開していくのか、とても楽しみであります。

すでにネットで今週末のチケット確保済です(笑)。


このスターウォーズ公開に合わせて、先週の土曜の『世界ふしぎ発見』では、




と題して、スターウォーズの撮影現場の特集がされていました。

やるな~、、。


私はずっと、レイとルークが出会うあの名シーンの島はどこなんだろうと思っていました。







地形や植生から、北大西洋の方の島なんじゃないかな、、

と思っていたのですが、なんとその通り、

アイルランドのスケリッグ・マイケル島という島らしいです。





行ってみて~、、。世界遺産らしいです。


番組では島に上陸する予定だったようですが、悪天候のため上陸できませんでした。。

天気による船の出航率が30%ということですから、なかなか渡るのは難しそうですね。


見逃した方、動画があるのでぜひチェック






あー、早く週末こないかな~、、




2017年12月7日木曜日

音楽の力~映画 パーソナル・ソング



いま見てみたいと思っている映画があります↓





アルツハイマーの患者に音楽を聞かせることで劇的な変化が起こることをまとめた

2014年公開のアメリカのドキュメント映画です。

それまでボーっとしていた患者さんが急に生き生きと語り出したりする場面が予告で流れていました。





すげぇーなー、音楽の力って、、。

ぜひ見てみたいとツタヤに行ったのですが、置いてなく、

店内の端末で検索してリクエストしようと思ったのですが、それにもヒットしないんです。。

どうしよかなー、、

と思っていたのですが、いまこれを書くのにユーチューブを見ていたら、

ユーチューブムービーというのがあり300円払えばユーチューブで見れるようです。

便利な時代になりましたね、、。


休みの日にでも見てみようと思います。


おしまい





2017年12月6日水曜日

戦場の指揮者~柳澤寿男さん



先日のNHKスイッチインタビューで、米米CLUBの石井竜也さん柳澤寿男さんという方が対談していました。








私は柳澤さんという方は知らなかったのですが、世界的な指揮者で、コソボの楽団で指揮をとっている方だそうです。

コソボというのは、ご存じのとおり、旧ユーゴスラビアで、民族の対立から内戦をしていたところです。

その内戦の終わった直後のコソボで、柳澤さんは、対立していた各民族から成るオーケストラを作り指揮をとっていたのだそうです。

対談の中のエピソードで、ある楽団員から、

もしこれから戦争になったら自分は楽器を置いて銃をとって戦いに行く

といわれたのだそうです。

その時、柳沢氏は何もいえなかったのだそうです。しかし時間がたったある時、その楽団員から、あのときはすまなかったと謝られたそうです。

それぞれの民族が一つの音楽を作って行く過程を通じて、銃より楽器の方が大事だと気付いたのだそうです。

柳澤さんが最初に、

いや銃をとってもなんの解決にもならないよ、、

などといっても恐らく本人には響かなかったが、

一緒に音楽を作って行く過程で音楽の力に気付いたのではないかということでした。


音楽は言葉を越えるという表現がありますが、まさに音楽が対立を越えて人をひとつにする力って凄いなぁと思いました。

それを内紛でつい数年前まで殺し合いをしていたコソボの地で実現してしまうというのは、まことにスゴイとしかいいようがありません。

柳澤さんは音楽を通じて平和が実現できればとおっしゃっていました。

ある時、川一つ隔てて一方はアルバニア系住民の地区、もう一方はセルビア系住民が住む地区があり、

つい数年前まで川を挟んで銃を打ち合っていた地区があるのですが、

その橋を渡った両方の地区で、柳沢さんのオーケストラが演奏を行ったのです。

しかしそれには条件があり、3日前までそれを発表しない(爆弾を事前に仕掛けられる恐れがあるから)、

チラシはどの言語が最初にきてもいけない、英語だったら英語だけでつくること、

演奏中は、建物の内外に警官や軍を警備にあてること、などなど諸々の制約がついたそうです。

そんな中、両方の地区での演奏は大成功におわり、民族融和のひとつの象徴になったのだそうです。


そんなエピソードが話されていたなかで、石井竜也氏が、

楽器って武器なんだよね、

と語っていたのが印象的でした。

作家にとってはペンが、画家にとっては筆が、そして音楽家にとっては楽器が武器なんだね、、と語っていました。

人への影響を考えると、本当に楽器は銃に相当するほどの力をもっているのかもしれない、、と感じました。

武器は、人を傷つけ、対立させることもできますが、逆に対立を終わらせ、人を結び付ける平和の手段に使うこともできます。これは楽器も同じなのかもしれません。

楽器を弾くということは、もしかしたらそれぐらいの覚悟をもって弾く必要があるのかもしれない、、と感じました。


私は柳沢さんという方は知らなかったのですが、世界の尊敬できる人物100人にも選ばれているということで、

今後の活動に注目していきたいと思います。


こちらの番組、再放送が次の金曜の深夜にあるので、興味のある方はぜひぜひ見てみて下さい。




ホント、とてもよかったです。


おしまい


↓ HPより解説

米米クラブのボーカルでありソロアーティストとしても活躍する石井竜也と、紛争地帯だったコソボで指揮者として活動している柳澤寿男がトーク。

激しい紛争が続いたコソボ。柳澤はここで、対立していた民族が共に演奏する「バルカン室内管弦楽団」を作り、国際的に評価されている。

そんな柳澤が大ファンで、心の支えとしていたのが、石井が作る音楽だった。

映像、美術、音楽を一つのエンターテインメントとして提供する石井の姿勢は、柳澤に大きな示唆を与えたという。また石井が積極的に行っている社会貢献に関して、そのあり方について意見を交わす。