2021年8月25日水曜日

いつも幸せでいよう、、

 

最近、私の頭の中に、

いつも幸せでいなさい、、

という言葉がよく浮かびます。

いつも幸せでいること、これは私の人生におけるテーマでもあります。


では、いつも幸せでいる為にはどうしたらいいのでしょう。

私は、これには心のレベルのおける二つのアプローチがあると思うので、書いておきたいと思います。

(ここで、心のレベルと書いているのは、体や外的なものを疎かにしてはならず、体や外的な環境も、その法則に則って整えるべきだと思っているのですが、今回は心のレベルに絞って書いておきたいと思います)


心のレベルのおける二つのアプローチというのは、

一つは、日常生活を送っていくなかで、外的な状況に左右されない心の習慣を築くこと。

二つ目は、日常的に瞑想を習慣とすること。


まず二つ目の瞑想について触れておきましょう。

NHKのある番組で、ムツゴロウさんがあるマンガ家と対談していたのですが、その中で、ムツゴロウさんは、

「人間の行動は半分以上は性によって動機づけされている」

ということを仰っていました。

半分以上か、、そんなもんかな~?もう少し少ないんじゃないかな~、でもたぶん半分前後くらいはあるのかもしれないなぁ~、、などと思いました。


しかし、私が思うに、人間の行動の大半は、心の本質的な喪失感、欠乏感に由来しているように思います。それは、私たちの心の本質、魂の故郷との繋がりが切れていることに  由来しているように思います。

物質は、心の粗大な部分で、心は物の微細な部分、と私は考えています。また心も表層の意識から、より深い心の本質、心の本源までと色々な階層があります。


私たちの心の本源、一番深い、根っこのところは、真我、仏性、神などと色々な名称で表現されますが、その本源である聖なる境地、やすらぎの境地に繋がる体験を普段からもつことで、心に満足を覚えていることが出来るし、人や外的なものから影響を受け、支配されにくくなると感じます。


逆に言うと、心の喪失感を、瞑想や祈りなどの自分の内面と向き合うこと以外で得ようとすると、人や物にコントロールされやすくなると言えると思います。様々な形態の依存は、誰もが持っている心の本質的な欠乏感を外的なもので埋めようとする努力のように思えます。


では、どのような瞑想をしたらいいのでしょうか。

ひとつめのポイントは、姿勢にあります。一番勧められるのは、座った姿勢です。寝た姿勢だと眠ってしまいますし、立っていると、あまり落ち着きませんし、座っているときより疲れやすいように思います。ま、それも人の好き好きですが。


結跏趺坐とかにこだわる必要は全くなく、椅子に座ってもいいし、座布団をお尻に敷いてあぐらをかいてもいいと思います。

私が一番好きな姿勢は、正座の姿勢で、お尻のところに座布団を入れる姿勢ですね。これが一番、入りやすい。背筋は伸ばす、というよりも、体重を背骨にかける感じにするのがいいようです。そうすると、筋肉に負担を掛けることなく、長続きするので。


あとは、湧き上がってくる想念を追いかけ無いようにするだけなのですが、いきなりこれをしろというのも難しく感じるときは、呼吸を意識してみたり、数を数えてみたりと、色々な方法があります。自分の好きなもの、自分にあったものをチョイスすればいいと思います。


私のお勧めは、言葉を用いることです。瞑想の始めに、天国や神様の特徴を表すような言葉を繰り返すと、意識が高まるので、ある程度高まったところで、静寂にとどまると、たいへん心地よいです。


では、どんな言葉がいいかというと、幾つかご紹介してみましょう。

日本人なら、アマテラスオオミカミ、という神様の名前はかなりいいと思います。

アマ・テラス・オオ・ミカミ と意味を感じながらゆっくり唱えると、

天において、遍く照らす光があり、それは大いなる神様である、

という感じになるでしょう。ここにインドで聖音とされている、

オームという語が出てくるのも不思議です。


オーム、という音を低いトーンで唱えるのも、私は好きです。

オームと一息でゆっくり唱え、数回普通の呼吸をして静寂を味わい、またオームと唱えるということを何回か繰り返すと、ある種の恍惚感に達します。

何回か、唱え終わった最後に、

オーム、シャーンティ・シャーンティ・シャーンティヒー、、


と歌のように節をつけて締めくくるとさらに良いです。これはインドで習ったもので、実際に音に出してみないと感じて頂けないかと思うのですが、やすらぎの境地にいざなわれるような感覚があります。


真言宗やゾクチェンでは、ア音は心の原初の境地に響ていてる音であるとされます。アー、という音が好きな人はア音を唱えたらいいと思いますが、私はオームの方が体質にあっているようです。


また話を言葉の方に戻すと、

聖なるものの内の聖なるもの、聖なるものの内の聖なるもの、

生かして頂いてありがとうございます、生かして頂いてありがとうございます、

というフレーズも良いですし、

神は、愛、無条件の愛、無限供給の愛であり、慈悲であり、光である、、というのもいいですし、


神は力、智慧、光、やすらぎ、微笑み、寛容、

などの言葉を自分の好きな組み合わせで唱えてみるのもいいかと思います。


笑いの所では、腹の底から、足の底から、体全体の細胞が笑っているようにして、実際に笑ってみるのもいいものです。


そんな、自分の本源、神、天国の境地を形容することばを列挙し、味わったのちに、何もしないで、寂静の境地を静かに味わう、というのが私のやり方です。


最初から、いきなり何もしないで、ただ湧き上がってくる想念にとらわれないようにする、みたいなアプローチより、断然早くやすらぎの境地に至れるので、言葉と心の作用を利用しない手はないと思います。ま、人の好き好きですが。。


こうして、心の本源と触れる習慣を毎日の中でもっていると、喪失感とか淋しさみたいなのがなくなっていくように思います。


たとえば、職場の同僚との話で、彦兵衛さんは普段、お酒飲まないの?あんな、人生で楽しいものがあるのに残念ですね~、、なんて言われたことがあります。

お酒より、瞑想の方が断然、気持ちいいし、心地いいし、継続するし、心と体に良いと思います。

私は、そういわれて、ははは、そうですか、、と流しましたが、むしろ瞑想の心地よさを知らない、その可能性すらも知らないって、かわいそうだなぁー、と思いました。


お酒とかギャンブルとかゲームなどもそうだと思いますが、世の中には依存させるものに溢れています。依存させるもので経済が回っていると思えるほどです。


そうした人を依存させるものはたくさんありますが、究極的な所で、それは人の魂の本源と切り離されてしまいってる喪失感に由来しているように思います。

そして、その喪失感は、外的な刺激では埋められないと感じます。では、瞑想以外に、そうした魂の喪失感を埋めるものはあるのでしょうか。


私はかつて、南米にいって、何人かのシャーマンを訪れ、ジャングルの中で一緒に薬草を体験していた時期がありました。なぜかというと、シャーマンたちが、仏教にあるマンダラと同じようなものを描いていたりするからです。


瞑想と薬草を使う方法は、どう違うのだろうか?

私の興味はそこにあったので、実際に数か月間滞在し、シャーマンのもとで一緒に体験してみました。


結論から言うと、瞑想がもっとも安全で最高の方法です。

薬草は、脳神経にショートを起こすような感じで、色々サイケデリックな色彩を見せてくれ、また音と視覚が溶け合うような感覚を現出されてくれます。


しかし私がそこで感じたのは、それは生物としての一種の退行で、ある種の一体感みたいなものも味わわせてくれますが、それは生物の進化を否定するものであるように感じました。


瞑想は、今ある最高の生理的状態を維持したまま、深い、本質的な統合感を得られるので、一番安全で正しい道であるように思います。恐らく、他の宗教における祈りも同じような効果を得られると思います。

瞑想における、ことばの使用により重きを置いたものが祈りと言え、祈りに置ける、より無為、静寂を意識したものが瞑想と言えるかもしれません。


宗教以外にも、魂の本源に触れられる方法というものが、いくつもあると思いますが、何よりも、自分に合った自然な方法というものを知り、日常生活の中に取り入れておく、というのがいいように思います。


以上が、いつも幸せにいるための方法としての、瞑想の紹介でした。


もう一つは、普段の心の習慣についてです。

例えば、日常生活の中で、アンラッキーと思われるようなことに遭遇したとします。

ふつうなら、うわー、なんでこんなことが起こるんだよー、ふざけんなー、ついてねー、、

とかネガティブワードを連発するのかもしれませんが、そこで、敢えて

ラッキー、ついてる、ついてる

といってみたり、どんなに悪いと思われることが降りかかったとしても、つねに

ありがとうございます

と心の中で言ってみる、ということを習慣にしてみることです。


もう起きてしまったことは変えようがありません。しかし、その外的な事項を自分がどのように受け取るかに関しては、私たちが選択することが出来るのです。

起きた事象に対して、ネガティブに反応し、心を痛めつけることもできますし、

ポジティヴな言葉を唱えて、心安らかに過ごすこともできます。


ここで一つの例をあげましょう。これはマーフィーさんの本に載っていた逸話だったように思います。


ある大佐がいて、息子も軍人で戦地に赴いています。

家にいた大佐は、戦地の息子が戦死したとの知らせを受け、心臓発作で亡くなってしまいました。しかし、後日、それは誤報であることがわかり、息子さんは生きていました。


ここで、その大佐が亡くなってしまった原因は何でしょうか。

もたらされた知らせによって亡くなったわけですが、もう少し分析すると、実はその知らせを不幸なるものとして受け入れた大佐の心の作用そのものにあるのではないでしょうか。


これはとても極端な例ですが、多かれ少なかれ、人はこのようなことをしているのです。自分の心を痛めつけているのは、実は自分自身なのです。外的なことはすべてニュートラルなのです。それを解釈するのは自分の心です。このことに気付いて、心に良い習慣をもちたいものです。


特に、自分の心の平安にとって障害になると思われるものが、日常生活を送っていたら、たくさん起こってくるものです。

しかしそれらは、実のところ、自分を鍛える絶好の材料でもあるのです。煩悩即菩提という言葉があるんですが、一般的に負と思っている物をすべてプラスのものに変えてしまう方法というものをもっていると強いですよ。

いま挙げた、ことばというものもそうだし、気分がネガティブになっているときに、その気分を変えてくれるような事柄を想像してみたり、これは英語でマインド・シフターなんて言ったりしますが、そんなものもの用意しておくのも手です。

実は、日常を楽しく、幸せに生活できるかどうかは、本当に、真に自分自身の選択にかかっているのであって、外側、他者、外部にあるのではないのです。

しっかりと、ハンドルを自分自身に取り戻し、自信(自神)をもって生きていきたいものです。


なんとなく、書いておきたいと思うことをまとめてみました。


おしまい


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