2021年8月27日金曜日

いつも幸せでいよう、、、追加分:波、樹のカタチ、同胞愛について

 

前回の “いつも幸せでいよう” の追加として、

についてと、樹のカタチについて、そして同胞愛について書いておきたいと思います。


すべての現象はであるようです。何かをするときは、波の性質をうまく利用するとよいように思います。


たとえば、一日に夜と昼があり、意識に関して言えば、睡眠と覚醒がありますよね。呼吸も心拍も波だし、声、音も波だし、光も波だし、私たちが確固とした物質と思っているものも素粒子の振動で個物として存在しているように見えています。


物事は、自分にある波、対象の波などをうまく利用して、浮き沈み、浮き沈み、どんぶらこ、どんぶらこ、とやっていくとうまく進んでいくようです。


この波を無視して、片一方のみに価値を置いて、そればかりを追求するともう一方に引き寄せられる力が強くなり、うまくいかないようです。


例えば、岡本太郎さんの生前の映像を見ている中で、彼は絵や彫刻、執筆を行うのですが、絵をやっていて飽きたら次に彫刻をやり、また飽きたら執筆を行い、ということを自分の気分、感覚でぐるぐるまわしながらやると語っていました。

波を利用する、というのはまさにこのようなことです。


この波は、また円運動ともいえるし、立体にすると螺旋となります。波はまた振動であり、エネルギーと言い換えてもよいです。


私たちは、ものごとを恒常的なカタチとして捉えがちですが、ものごとの本質は、波でありエネルギーのうねりのようなものであることを頭の隅に置いておくと、物事が変化するときに、ああそもそも事象というものは波であり、エネルギーだから変化していくものだよなぁ~、、と平静をもって捉えられるかもしれません。


真言宗では、物事は旋火輪のようなものだと述べています。燃え盛るたいまつをぐるぐると回すと、赤い輪が出来ます。しかし、その輪は実体のあるようなものに見えますが、メラメラと燃える火が旋回しているだけに過ぎません。物事の実態は、旋火輪の如く、幻のような現象であると説かれています。うまい表現だなと思います。



波の別の側面として、波長があります。類は友を呼ぶという言葉があるように、同じ波長のものは引き合う性質があるようです。幸せでいたかったら、自らの波長を高めておくことに心がけたいところです。


作用、反作用の法則も波ですよね。良きことを行えば、よき結果が返ってきます。よき種をまいておけば、よき実を収穫することが出来ます。

様々な現象に通底する波ということを意識しておくと、ものごとをうまく進めていけるように感じます。



もう一つ、波の他に述べておきたいのは、世界は樹のカタチをしているようだ、ということです。


仮に、私たちは木の葉っぱだとします。そして私たちが仮に緑色しか認識できないとすると、私たちの周りにはたくさんの葉っぱが個々別々に存在しているように思います。


しかし葉っぱは実のところ、枝を通じて他の葉っぱと繋がっています。また、少し離れた枝も、幹を通じてまた繋がっています。私たちの存在というものは、このように、一つのものが多となってあらゆる形態をとって表れているようなもののようで、根底ではすべて繋がっているようです。これは、人間だけでなく、あらゆる生き物、あらゆる自然物すべてです。


この樹のカタチは、生物の進化の系統図であり、私たちの体の中にある血管の形であり、神経系であり、葉の葉脈であり、川が大地に刻むかたちでありと、至る所にみられるます。


同心円構造をもつマンダラは、私は、この樹の所を水平に切って、紙にペタンと押し付けた図であるように感じます。中央の幹が大日如来であり、それを取り囲む枝の無数の円は、様々な如来、菩薩、人間、動物、自然物です。


私たちは、の意識を持っています。その我の範囲というものは、人によって、また民族によって、時代によっても異なってきます。


自分の体だけが、我という人もいるでしょう。我というのは、兄弟、同胞、仲間と言い換えてもいいでしょう。


家族、一族までが我である、同じ地域に住む人までが我である、同じ民族が我でる、同じ肌の色の人たちが我である、ホモサピエンス全体が我、同胞である、という人もいるでしょう。


結局のところ、自分の葉っぱの位置から、どの位置までを我、同胞として捉えるか、意識の線引きをしているかで、その同胞愛の範囲が決まってきます。


昔は、肌の黒い人たちは人間ではないという線引きによって、あらゆる残酷なことが平気でできました。ユダヤ人はブタである、として人間のカテゴリーから外す操作をすることで、また同様の残酷なことを平気で出来るようになります。


逆に自然の中で暮らすネイティヴのような人たちは、人間という種を超えて、動物や植物までもが同胞である、という感覚をもっている人たちもいるようです。


おそらく、究極の存在である神様は、あらゆる存在は、自分の体の一部であり、同胞であり、愛おしいと思っているのではないか、と感じます。

もし、私たちが魂を向上させ、自らの心の本源、真我、神様に近づけたい、と思うなら、この我の線引きの範囲をすべてに広げる心掛けを持つことなのかもしれないなぁ、と感じます。


法律では、人を殺すことと、ペットを殺すことでは大きな違いがあります。でも人の心情からいったら、ペットを殺すことは、器物破損といった無機的なものではなく、もっと人が死んだときと同じような重いものがありますよね。

究極的に、人でなくとも、生き物を殺すということは、私たちが思っている以上に大きな、重いことなのかもしれないと感じます。

従って、食べるという行為は、他の生き物の命を頂く、ということであり、それはもっと厳粛な、神聖なものなのかもしれず、本当はもっと感謝の気持ちをもって、命を頂いている、生かして頂いている、という感覚をもつことが大事なのかもしれないと思います。


もし神様に近い心を持ちたいとおもったら、普段の生活の中で、同胞愛の範囲を限りなく万物に広げていくこと、広げて捉える心掛けをしていくこと、すべてを愛しく感じることなのかなぁ、などと思います。


そして、これは瞑想と対になっていて、瞑想をすることによって、その同胞愛の感覚が広がり、また普段の生活の中で、そのような同胞愛の範囲を広げて捉える習慣をもつことで、また瞑想も深まっていく、ということになっているのではないか、と感じます。


前回の、いつも幸せでいることに関連して、追加しておきたい事を書いておきました。


おしまい。


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