2025年7月27日日曜日

心のビタミン、、!?

 

先週末に、久しぶりに百名山登山に行ってまいりました。登った山は、笠ヶ岳(2898m)という山です。


当ブログの最後の‘おまけで、画像などをご紹介していけたらと思っています。

(先行してちょっちだけご紹介↓)





↑笠ヶ岳 山頂

(実は下に虹が掛かっているのです、、)



↑向こうに見えている尖った山が、
かの有名な槍ヶ岳ぇ~♪

(3180m、日本で5場面目に高い山!)



久しぶりに登山に行って、旅行というのは頭と体を使うなぁ~と感じました。


まずは旅行の計画というものが結構たいへんですよね。


ルートを考え、宿や乗り物を予約するのってかなりの段取り力が要求されます。


そして、それに合わせて行動する力(気力・体力)が必要で、総合格闘技みたいなものです。


数日生活できるだけの荷物をリュックにつめて背負って移動なんていうのは、一人引っ越しみたいなものだなぁ~、、と歩きながら時に考えたりしていました(笑)。


今回の旅のお供に、以前から当ブログで紹介している、『菜の花の沖(六)(最終巻)を携えていきました。


宿や電車の中などで結構読み進めることができたのですが、その中の描写で、主人公の嘉兵衛(かへえ)が、ロシアに5人の従者とともに拿捕されるというシーンがありました。


彼らはロシアに連れて行かれるのですが、彼の地で、従者のうちの3人が次々と亡くなっていくのです。


その原因が、もっていった白飯をずっと食べていたことによる脚気だそうです。


ロシアでも医者に診てもらったそうですが全く治らず、3人は亡くなってしまうのです。


白米を食べることによる脚気は、玄米を食べていた地方では起こらず、白米を食べていた江戸に来ると人が脚気になり、地方に戻るとまた治ることから、江戸病などと呼ばれていたそうで、


病気の原因が栄養不足からくるものだという知識のある我々からすると、こんな単純なこと一つで知識不足から病になり、亡くなってしまうというのはなんとも残念なことだと感じます。


しかし翻って、栄養の知識が十分にある現代において、確かに体を維持するのに必要な栄養素が何かということは知っていますが、


現代はむしろ栄養過多によって、食事自体が体の毒になっているという状況にあるのかもしれない、と私は思います。


あと、もう一つは、未来の人が現代の人たちの医学の知識に対して、


ちょうど私達が江戸時代の人たちを見るような視点で、こんな単純なことに気づかないで生活しているなんて、残念だなぁ~、、と思うかもしれません。


それは心のビタミンとでも呼ぶべき考え方だと思います。


必須栄養素であるビタミンが欠乏すると、脚気などの様々な病を引き起こしますが、それと同じで、心にもビタミンが足りないと当然、病になりますよ、という視点です。


一般的に、ネガティヴなストレスの状態が長く続くと、人は病気になるという認識はあるかと思います。


心にストレスが過多になった状態によって、胃に穴が空いたり、髪の毛が抜けたり、様々な症状が出てきます。


これらは、心にネガティヴな思いが募って起こるものですが、心の状態をポジティヴにしてしまえばいいことです。


ではその心の状態をポジティヴにするもの、いうなら心のビタミンとはなんぞやというと、それは恐らく斎藤一人さんの説くところの天国言葉だろうと私は思います。


まずは、逆の地獄言葉とはなんぞやというと、


不平不満、グチ・泣き言、悪口・文句、心配ごと、ついてない、 許せない、、


などなどです。


この地獄言葉地獄思いと置き換えてみると、ネガティヴな心の状態そのものということになります。


心はコロコロ変わるからこころと言われるという説がありますが、


心の状態が、地獄思いに傾きそうになった時に、まさにそういうときにこそ、一人さんの説く天国ことばを口にすることによって、心をポジティヴな方向にもっていってしまうのです。


天国言葉

ありがとう、感謝してます、愛してます、許します、

嬉しい、楽しい、しあわせ、ついてる


これらの言葉によって生み出される天国思いに心を変えてしまえば、心がポジティヴになり、いつまでも心がネガティヴな状態に留まらなくなります。これらは、まさに心のビタミンと言えると思います。


別に一人さんの説く天国言葉でなくとも、自分にぴったりくる天国ことばを口にすることで、心が地獄思いに傾きそうになったときに、天国思いの方に切り替えてしまうのです。


そういう自分にあった天国言葉をたくさんストックしておくととても心強いです。私は常々その威力を実感しています。


心は見えないため、科学の対象にはなりにくく、必須栄養素のように、目の前に、これとこれとこれを摂取しましょうなどとは言えません。


ですが、人間は体と心からできていて、それぞれの状態が人間の健康状態を規定していることを考えると、


心のビタミンを普段からしっかりとっておくこと、心のビタミンを日頃から摂る訓練しておくことは、健康にとって極めて大事なのではないか、、と私は「菜の花の沖」の該当部分を読んで考えたりしていました。


一人さんは、自分の機嫌は自分で取ること心の舵は自分で操作できるということ、


それはすなわち、運勢というものも、実は我々自身に委ねられており、我々自身が決めているということを述べています。


せっかく1度きりのこの人生なのだから、体のビタミンだけでなく、心のビタミンもしっかり摂って、健康で生き生き、楽しく生活していきたいな~と思います。


タイトル:心のビタミン、、!?


でありました。


おしまい


<(_ _)>




2025年7月21日月曜日

木と水と、、

 

  いい神社だなぁ~、、と感じる神社には特徴があるように思います。


一つは、木が生えていること。

特に御神木のような齢を重ねたぶっとい樹があると、もうその周辺がただならぬ神気にみたされています。


また本殿の裏手に鎮守の杜があったり、山があって、それ自体が御神体であったりする場合も安らかな、あるいは厳かな空気が境内全体を包んでいたりします。


もう一つは、水かと思います。

水が湧いていたり、境内の中や近くを清らかな川が流れていたり、また池があったりする場合もあるかとおもいますが、


とにかく流れのある水があることで、その場が清められ、浄化されているような感じがします。


だいたい伊勢神宮をはじめ、ただならぬ神気が漂っていて、ひたすら素晴らしいな、、と感嘆してしまう神社には、少なくとも、このふたつの特徴があるように思います。


なぜこのようなことを書くのかというと、自分の部屋に、神棚を祀っており、榊(さかき)を瓶に挿して両脇に生けているのですが、夏だと榊が水を吸って、水が少なくなってきたり、また水が悪くなってきたりするのです。


だいたい今の時期だと1周間に2回は、榊の水は交換して、満水にするのがいいのかと感じていますが、


これを特に一日のはじめに、榊を新しいものにしたり、水を変えて減っていた水を満水にしたりすると、その日一日が、とても心の状態も含め、非常にスムースに流れていく感覚があるのです。


もしかしたら、これは単なる気のせいで、たとえば、部屋が散らかっているのを片付けてスッキリすると心も整理整頓されたような気持ちになり、


散らかっていることに心が煩わされることがなくなる、というのとも通じているのかもしれませんが、どうも神棚の榊と水にはそれ以上の何かがあるような気がしています。


それは、木には神気を寄せる依代(よりしろ)の役割があり、水は浄化と関わっているのではないかと感じる点です。


榊がアンテナのように、神気の依代の役割があるため、それが枯れていたり、少なかったりすると、心が落ち着かなくなるのではないかという気がしています。浄化を司る水に関しても同様です。


榊を新しいものに変えたり、水を取り替えたりするのは、一日のやることの優先順位としてはあとでもいいような気がしますが、


どうもこれを最初にやっておくことで、全体がスムースに動いていく感覚があるのです。


すべては神様のあらわれであると考えると、神様は土台中の土台であり、ここをしっかりメンテナンスすることで、心も含めた全体が支えられるという感じがあります。


神棚を置くことにの効用というものがあると思いますが、神棚の掃除を怠ったり、疎かに扱ったりしていると、逆に心身両面によくないので、むしろ置かないほうがいいのだろうなと私はこのところつよく感じます。


神棚を置くなら、しっかり管理して、定期的に掃除をし、清潔に美しく、清らかに保つべきで、そうしてこそ初めて神棚を置くことの効果が得られるような気がしています。


それと関係しているのか、スピリチュアルカウンセラーの江原さんが、海は浄化に関わっており、山には癒やしの効果があるということを述べていたように思いますが、これらとも共通するのかもしれません。


神棚から少し視野を広げて、家にある植物や水の流れというのも、運気と関係しているのかもしれません。


植物を育てているなら、緑が美しい状態を保ち、水回りはきれいにしておくというのが、精神衛生面から運気の点からもいいように思います。


ということで、神棚の榊が枯れてきたり、水が減ってきたら、優先順位の上位において、なるべく早めに交換するといいようですよ、ということが今回書きたかったことです。


神棚を祀られている方はぜひ参考にしてみてください。


タイトル:木と水と、、


でありました。


<(_ _)>



おまけ、、、


今年最後のユリです↓








↑斑入り、神がかりピンクカサブランカ

も一輪だけ咲きました。

今年もユリがたくさん咲きましたが、種類が減ってきたので、

また色々な種類を植えようかな、、と思っています。



おまけ2、、


今はユリは終わり、ミニトマトの収穫時期、真っ只中です↓












最近は、毎食、カラフルなミニトマトを頂けています。
朝取りの超フレッシュミニトマトです♪(笑)


今年は、赤玉2種、黄、オレンジ、黄色アイコの5種ですが、
赤のアイコも入れればよかったなと思います。

来年は、6種にして、バリエーションを楽しもうと思います。


トマトを育てて思うのは、成長戦略に長けているなぁ~という点です。

普通、ミニトマトは脇芽は摘んで、1本か2本だけを伸ばして育てるようで、

枝をたくさん伸ばしすぎて、そちらに栄養がいかないようにするもののようですが、

私もはじめは1本だけ残すというつもりでやっていても、知らないうちに、下の方からとか脇芽がいつの間にか成長してきていて、かなり伸びてから気づくということがあります。

私の中ではルールがあって、脇芽は基本摘むのですが、気づかずに伸びてきて花をつけられたらコチラの負けで、それは摘まないということにしています(笑)

今年は5本の苗で育てていますが、間隔が狭いこともあって、けっこう死角から脇芽を伸ばしてくるケースがかなりあって、

結局、最後は脇芽が伸び放題、ジャングルのようになって、そこに実がバンバンなっていく、、という野生の状態になって枯れて終わります。。

今年もジャングルになってきていて、最後、どんなふうに実がなるのか楽しみです。

予定調和より、意外な育ち方をしてくれた方が、見ている方は楽しいですが、、。

また写真をとる機会があったらアップします。


おしまい

<(_ _)>




2025年7月13日日曜日

神様からのキラーパス!?

 

7/5の大津波の予言に関しては当ブログでも取り上げましたが、来なくてよかったな、、と心から思います。


私は一応、前日までに自分の住んでいる場所の標高と、付近の一番高い所が何メートルあるのかを確認しておきました。


時に防災の視点で回りを見直すことって大事ですね。


また生きていること、生かされていることの有難さにも気づかせて頂けます。


7/5の大津波の予言に関しては、斎藤一人さんも発言していたようで、


7/5に大津波は来ません、おしまい


と一言、心強いお言葉をどこかで発信しているとの情報を聞き、私は大いに安心していました。


というのも、一人さんは、お弟子さんの顔をじ~っとみて、


~ちゃんは、どこどこの保険に入っているでしょ、そこの保険会社つぶれるから、今のうちに解約しておいた方がいいよ、、


と言っていたことがあったようです。


世間的には、あるいはそこの社員さんでさえ知らないような倒産の情報を前もって言って実際に本当に当ててしまうとか、


バブルがはじけて土地が下がるとか、結構大きい所を前もって周囲に伝えているので、一人さんの今回の発言はとても心強かったです。


私たちは、生まれてくる前に、おおよそこの人生で体験することを設定してくるようです。


なので、心の奥底では、この人生でどのようなイベントがあるのかを知っているようですし、それによって自分の魂をこのように成長させようと思ってこの世界にきているようです。


ただ、一人さんの最近読んだ本の中に、そのように大筋は設定してきているけど、


途中で変更したいと思ったら、いくらでも生き方を自由に変更していいんだよ、、


という記述があり、へー、そんなものか、、と思いました。


自分がその箇所を読んで、自身、結構運命論者だったことを認識しました。


かなりの部分で自分の人生は決まっているでは、、と。


しかし、生きてきて、ちょっと変更したいな、、と思ったら変更していいし、出来るんだな、、と。


考えてみたら、画家にしろ、作家にしろ、こういうものを描きたいとある程度の大きなイメージをもって作品をつくり始めると思うのですが、


作っていくうちに、 ここはもっとこういう風にしよう、とか、


作家だったら、キャラクターが個性をもって、勝手に動き出した、、ということがあるようで、途中の変更というものも、当然あるんだろうなと思います。


画家や作家が、その世界における創造主=神さまであるように、


私たちも人生という作品を創造している小さな神様であり


途中でこういう風にしたいと思ったら、自由にどんどん変更していっていいし、出来る訳ですよね。


この世界は、神様という大きな創造主とともに、我々小さな神様が共同でいまこの瞬間も世界を創り上げているのであって、


今回の津波の予言のように、何月何日きっかりにこのイベントが起こる、ということは恐らくなく、


また我々一人ひとりの思い、言動というものも、気づかないだけで、大きくこの世界の創造に関わっているのだろうと思います。


そういう意味では、実は一人ひとりが思っている以上に大きな責任を負っているのかもしれないと思うのです。。



ところで、これからが本題なのですが、先日、職場でこのようなことがありました。


他セクションの割と普段から冗談を言い合う人が用事で来ていて、雑談の中で、相手が


ウチは~神社で、、


と言っていたので、すかさず、


へー、~さんのおウチは神社なんですね~、、


と言ったのです。すると、その人は、


そうやって、すぐ人の上げ足を取る~、、


と、ご機嫌斜めになってしまったのです(笑)


その人は、ウチ(がよく参拝する)神社は、という意味で言っているのはもちろん分かった上で敢えて言ったのです。最高のフリを差し上げるつもりで、、。


私だったら、


そうなんだよ、ウチ神社だから、さい賽銭箱があってね、みんな通りかかる人がちゃりーん、ちゃりーんと、お金入れてくれるんだよーー、、って、んなワケあるかい!

ふつーの家だよ、でっかい鈴とかないから!

とノリ突っ込みするんですけどね、、、。


あー、なんてもったいない、というか、チコちゃんみたいに、あーつまんねーやつだなー、、と内心思ってしまいました。


考えてみたら、ユーモアで返せるかにはいくつかの条件があるのだなと思いました。


一つが、心の構えです。いつ何が来ても、楽しく返せるようにしようという心の準備が必要です。


また、心に余裕がないと出来ないかなと思います。

心に余裕がないと、言われたことをユーモアにして返せないかなと思います。


また三つ目として、機知に富んでないとできないかなと思います。頭の回転が速く、発想をすぐに切り替えられる頭の良さもないとできないのかもしれないな、、と思いました。


その方は、いつもは冗談を言い合う仲なのですが、その時は、余裕がなかったのかもしれません。


そして、言われたことに真正面からぶつかって、不機嫌になってしまったのかな、、と推測しています。


その方が去った後、ウチのセクションの中で、


事故っちゃったね、、( *´艸`) うぷぷっ


みたいな感じになりました。


ウチのセクションでは、私をはじめ、こういったノリ突っ込みみたいなことを普段からしているので、


みんな心の準備をしているし、返しがうまいので、一日に何度も、ガッハッハ、、という笑いが起きています。


それが普通だというノリで今回のようなフリを出したのですが、


他セクションの人は、心の余裕がなかったのか、心の準備が出来ていなかったか、とっさにそのような受けがとれなかったようです。


考えてみたら、神様も色々な形で、我々にこのようなプレゼント、時にキラーパスのような最高のプレゼントを与えてくれているのかもしれません。


一人さんが言うように、神様は、幸せなことそのものを与えるのではなく、私たちがひと工夫して幸せになるような材料を提供してくれているのだと言います。


レモンが来たら、そのまま飲むのではなく、はちみつを加えてレモネードにしちゃいな♪


というやつです。


私たちはレモンをそのまま飲んだり、なっている青梅をそのまま食べて、


なんだこれゃ!なんで私にこんなことが!


と不平不満を言って、天をうらんでいるのかもしれませんが、本当は、神様は絶好のキラーパスのつもりでこれらのことを私たちに与えてくれているのかもしれません。


真正面からぶつかって、不平を言っている我々を見て、神様は、


あーつまんねーやつだな、、


とこぼしているかもしれません(笑)


一人さんは、どんな大変だと思うことが来ても、まずは、


あ~楽しいことになってきた、幸せだな~♪


と言ってみるといいます。

こういってみることで楽しく解決する方法が思い浮かんでくるそうです。私も実際やってみるとその通りだと感じています。


神様からキラーパスが来たら、ちゃんとひと工夫を加えて、自分も楽しく、まわりも楽しく、それを見ていた神様も喜ぶような返しをしたいなと私は思い、常々心の準備をしています。


こう考えていたら、どんなことが起きても平気だし、一人さんがいうように、


波乱万丈どんと来い!


という気分になりますね。



タイトル:神様からのキラーパス!?


でありました。


(^_-)b



2025年7月6日日曜日

平清盛すげぇ~、、

 

最近、録りためていたNHK歴史探偵平清盛 編を見ました。


平清盛というと、平家にあらずんば人にあらず、の言葉で知られるように、傲慢で狭量、悪者というイメージがありますが、


これは恐らく源氏に滅ぼされたことによる、勝者からみた歴史観という影響も多分にあろうかと思います。


今回の番組の中で、いくつか驚かされたことがありました。


その一つが宮島 厳島神社です。


昔の貴族の屋敷は、寝殿造といって、庭に海に見立てた池を配したりしますが、


なんと、厳島神社というのは、海を池に見立てた壮大な寝殿造りになっているとのこと、、。



当時の人は、宮島で厳島神社を目にしたとき、そのあまりのスケールの大きさに度肝を抜かれたことでしょう。


こういう発想は、斎藤一人さんのいうところの、押し出し、というやつですね。


豪華絢爛、壮大で人を驚愕させるようなものを建てることで、人を一瞬にして圧倒させてしまう効果です。


あらゆる権力者、宗教施設は、この効果を利用しているとのことで、一人さんは、私達一人ひとりも、この押し出しの効果を利用しない手はないといっています。


一人さんは、見た目が100%ということも言っているように(笑)、


もちろん心が優しくて積極的で明るいというのも大事ですが、それと同じくらい外見も大事だといいます。


ちゃんと顔にツヤを出して、笑顔で、服装はなるべく華やかなものを身に着け、光り物をつけることを勧めています。


これが個人における押し出しで、成功の秘訣だと仰っています。


平清盛も、この押し出しの効果をねらって、宮島に厳島神社という巨大装置を造りあげたようです。



また平清盛の凄いところは、貨幣経済の基礎を作ったということろにもあります。




当時の中国で使われていた宋銭という貨幣を輸入して、日本で流通させたそうです。







当時の日本は、貨幣が流通しておらず、米や絹織物などを貨幣のように現物交換をしていたようです、、。









んん、では、富本銭和同開珎といった、日本で初めて鋳造された貨幣はどうなってるんだ、、?

と調べてみると、富本銭や和同開珎は、700年ころに鋳造されたとされているようですが、

畿内とその周辺のみで使われただけで、あまり流通しなかったそうで、

その後は、秀吉が金貨・銀貨を作りまで、日本では貨幣は鋳造されなかったそうです。

それまでの間に使われていたのが、この宋銭のような中国から輸入されたお金だったそうです。


この輸入された中国のお金は、使用禁止例が度々出されたにも関わらず、その利便性からずっと使われ続けたようです。




それゃ、米とか絹織物を持ってきての交換じゃ、重いし、嵩張るし、やってられませんよね、、。


また平清盛の凄いと感じたところは、その人柄です↓

どんなにいやなことをされても、
冗談だと思うことにしていた。

おもしろくなくとも、
相手をいたわってにこやかに笑い、

とんでもない失敗を犯しても、
声を荒げることが無かった。






私は、この平清盛の性格を知ったとき、まさに一人さんの教えじゃん、、と思ってしまいました。

嫌なことも楽しいものに変換してしまう、
いつもにこやか上機嫌でいて、人に優しい、

失敗をしても許すという寛容の精神、、

すべて一人さんの教えそのものです。。

人の上に立つ人というのは、自ずとこのような性格を身に着けているものなのですね、、。

一人さんは、明るくしていると、照明と同じで上に掲げられるということを言っていますが、

このような性格をもっていると自然と人々から担ぎ上げられるのかもしれません。

ほぼ一年前の番組でしたが、とても参考になることの多い内容でした。


あ~、歴史って面白いなぁ~、、




おまけ、、、






↑ある夏の早朝、
うろこ雲がきれいに並んでいました