2023年10月15日日曜日

異文化にふれて、、

 最近、仕事で米軍の人たちと一緒にホットドッグ売りをやったのですが、


彼らと接していて圧倒的に日本人と違うな、と感じるのは、笑顔かな、、と感じました。


日本人は、人に迷惑をかけないようにしよう、、というのが根底にあって、どこか人と接するときに緊張感が漂っているように感じるのですが、


彼らアメリカ人は、まず最初に笑顔があって、オープンでフレンドリーに接するというのがベースにあるようで、


表情も日本人に比べ、常に口角があがっていて、楽しそうにしていると感じました。


今年もノーベル賞の受賞があり、多くのアメリカ人が例年のごとく受賞していましたが、


彼らのオープンで笑顔で過ごすという習慣をベースにしているところに、ノーベル賞受賞者の多さの秘密の一端があるように感じました。


つまり、常に笑顔で明るく、オープンでいるということは、何事に対しても楽観的にとらえる傾向が生まれ、


わからないことに対しても、積極果敢にチャレンジしていく気概が生まれてくる素地となっているのじゃないかな、、という気がしました。


一人ひとりがこのような傾向をもっているとしたら、国全体としてはものすごい力となっているのでないか、、という気がします。


アメリカ人にはアメリカ人の良さがあり、日本人は日本人の良さがあると思いますが、


違う文化の人と接するというのは、他者を知り、また自分を知るという意味でとても勉強になることだな、、と改めて感じました。


この異文化との接触という意味で、最近、ものすごく面白い本を発見してしまいました。それがコチラ↓





先日、私の好きな、NHKのブラタモリで、利尻島のことをやっていました。

島の中央に聳える利尻岳は百名山の一つで、

あ~、わしも登ったな~、、

と感慨深く見ていたのですが、番組の中で、

実は、この島にアメリカの捕鯨船の乗組員であったマクドナルドという人物が漂着し、

長崎に護送され、その人が日本で初の英語を母語とする英語教師となって日本人に英語を教え、

その教えを受けた通訳者が、ペリーとの交渉にあたって活躍したのだ、ということをやっていました。


え゛--、ナニそれ!?
そんなことあったんだー、知らなかった~!!

とオッたまげた彦兵衛は、何かそれについての資料がないかを調べ、先の歴史小説の存在を知ったという訳であります。

現在、まだ読んでいるのですが、めちゃめちゃ面白すぎて、どんどん読み進めてしまいます。

この漂着したマクドナルドというのは、白人とネイティヴアメリカン(インディアン)とのハーフだったので、見た目も黒髪、黒い目で日本人に似ていたそうです。

そんな彼がどのような経緯で、日本に漂着したのか、

アメリカ史から紐解き、どうしてネイティヴアメリカンとのハーフとして生まれ、何を夢見て日本に来たのか、

またその当時の日本がどのような対応をし、日本人との接触がどのようなものであったのか、興味深い描写がたくさんあり、とても楽しめます。

マクドナルドから英語を教わる以前、日本人はオランダ人を通して英語を習っていたようですが、

その学んだ英語の一端が書かれていましたが、例えば、座るはスィットゥ・ダウンですが、

その発音がカタカナ表記で、セクト・トウンとかだったようで、、そんなもので通じる筈がありません。。(笑)

それを英語として教えていたオランダ人も凄いなと思いますが、そのような知識で英語圏の人たちと話をしようとしていた通訳者も凄いな、、と思いました。。

マクドナルドによる英語の授業も描写されており、最初は、体の部位の名称から始め、身の回りの物、そして日常会話へと移っていったようで、

言葉の通じない相手と次第に会話ができるようになっていって、とても楽しい授業だったのだろうな、、と想像します。

私は、この小説は漂着したマクドナルドがアメリカ船で長崎から日本を離れたところで終わるのかと思っていたのですが、

ペリーが来航し、マクドナルドから英語を教わった通訳者を交え、日本の代表とペリーがどのように折衝を重ねていくかも描かれており、

ペリーの側からみた日本、そして日本から見た黒船の両方の立場がわかって、あぁ、そういうことだっのか、、ととても勉強になります。

黒船来航の事件は、教科書ではほんの数行で語られることですが、

利尻島に漂着したアメリカ人に始まり、英語をならった通訳者、ペリーとの幾度にもわたる折衝と壮大なドラマがあったことを知りました。

といっても、実際にペリーとの交渉はオランダ語で行われたようですが、、。

マクドナルドに関しては、ウィキペディアを見ると以下のように書かれています。

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帰国後は日本の情報を米国に伝えた。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えた。

日本ではただの英語教師としてしか記憶されていないが、アメリカの歴史ではかなりの重要性を占める人物として、研究や紹介の書籍が多く公刊されている。

日本から帰国したのち、活躍の場を求めてインドやオーストラリアで働き、アフリカ、ヨーロッパへも航海した。

父親が亡くなったあと、1853年に地元に帰り、兄弟らとビジネスをした。晩年はオールド・フォート・コルヴィル(現・米国ワシントン州)のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られ亡くなった。

死の間際の最後の言葉は、
「Sayonara, my dear, sayonara...」であったという。

「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれた。フェリー郡のインディアン墓地に埋葬されている。


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いや~、知っているつもりで、知らないことってまだまだたくさんあるんだろうな~、、と思います。

歴史っておもしろですね、、。





参考:




鎖国の日本に一人の青年がたどり着いた……異国人英語教師を通して開国の背景を描く傑作長篇!

ペリー来航5年前の鎖国中の出来事である。日本に憧れたアメリカ人青年ラナルド・マクドナルドが、ボートで単身利尻島に上陸する。その後、長崎の座敷牢に収容された彼から本物の英語を学んだ長崎通詞・森山栄之助は、開国を迫る諸外国との交渉のほぼ全てに関わっていく。彼らの交流を通し、開国に至る日本を描きだす長編歴史小説。

ラナルド・マクドナルド(1824~1894)アメリカ北西部の町、フォート・ジョージで、イギリス人の父とアメリカ先住民の首長の娘の間に生まれる。混血としての将来を悲観し、船員となり世界を巡るうち、日本に強くひかれるようになる。ついに決意し、日本近海で漁をする捕鯨船に乗り込み、ボートで利尻島に上陸を果たす。弘化5(1848)年、マクドナルドは24歳であった。




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