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2009年1月14日水曜日

自然に学ぶ




奈良春日大社の宮司であられた葉室頼昭氏が年の初めに亡くなられたそうで、新聞の訃報欄を見て知り少し驚きました。しかし御年は82歳だったそうで、大往生というべきかと思います。

神道というとよく分からない、難解そうというイメージが常にあり、神道関係の本を何冊か読んでもいまいちつかみ難いところがあったのですが、上記の二冊の著書を読み、なるほど神道とはそういうものなのか、と腑に落ちる感覚を味わいました。

とても印象的だったのが、

神道に経典がないのは、自然自体が教えだから自然に学べということなのだ

とおっしゃっていたことでした。
だから神社には人が手を加えない鎮守の森があって、大木が生えているのだそうです。これは世界の宗教を見渡しても、かなり特異な教えではないかという気がします。

葉室氏の著書が分かりやすかった一つの理由は、もともとお医者さんだったからというのもあると思います。50歳まで医者として働き、それから神職の試験を受けて神主になったという異色の経歴の持ち主でした。神秘に満ちた人体という自然も、神道の教えも葉室氏にとっては同じに映ったのでしょう。

また機会があったら葉室氏の著作を読んでみたいと思いました。
ご冥福をお祈り申し上げます。


参考:
彦兵衛のブログ「神道のこころ」
http://mshiko.blogspot.com/2008/09/blog-post_27.html

葉室氏死去の記事
http://mainichi.jp/area/nara/news/20090109ddlk29040520000c.html

2009年4月20日月曜日

近所の神社をぶらり訪ねて



昨日は春のあたたかい日差しの中、自転車で買い物に出たら、なんとなく近くの神社に寄ってみたくなり、久しぶりに訪れてみました。





ここのお堂は結構古くて、


木の彫刻なんかも立派です。





玉砂利を踏みしめながら、お堂をぐるりと見て回りました。





ここは敷地にいるだけで、心が穏やかになっていきます。


私はお堂から見る


この景色が好きで、来るたびになんとなく足を止めて眺めてしまいます。

何がいいのかなぁと分析すると、たぶん樹があるからだろうなと思います。

それも普通サイズの木ではなく、聳え立つような大木があって、それが人の作ったものと調和して存在しているから、いいのかなと思います。


この神社を訪れたら、昔から烏森神社と呼んでいたところ(正式には皇大神宮といいます)にも久しぶりに行ってみたくなり、ついでにお参りしてきました。

私は巨木が好きで(トトロにでてくるような樹は最高ですが)、神社にいくと必ず巨木があるので、つい写真に撮りたくなるのですが、


写真で撮っても枠に収まらず、樹を撮るのって難しいなぁとつくづく感じます。(プロの方はどうやってとるのでしょうか)



この樹は烏森神社の社務所の隣にあったもので、幹から若芽がウワーっとたくさんでていて生命力を感じました。


前にこのブログで、奈良春日大社の神宮さんでいらっしゃった
葉室頼昭氏のことばを紹介しましたが、

神道の教えと言うのは、自然をお手本にしないさいということのようですね。

だから経典などが存在せず、敷地内には人間が手をつけてはならない鎮守の森が残されているそうです。

私は神社にある樹を見ていたら、何年か前にNHK『知るを楽しむ』でやっていた、宮脇さんの講義を思い出しました。

http://www.nhk.or.jp/shiruraku/old2/200506/monday.html

宮脇氏によると、ある場所に樹を植えるなら、昔からその土地にあった原始植生をもとにして樹を選び植えるのが一番で、それがホンモノの森になるといってました。

言われて見れば当たり前なのですが、その原始植生がどんなものであったかを都市化してしまった場所で特定するのが難しいのです。

しかし神社が鎮守の森を残しておいてくれたおかげで、その地域にもともとどんな樹が植わっていたかがわかるそうなのです。


自然に学びなさいという神道の教えは、単なる象徴としてだけでなく、実際の学問にも役立っているんですね。素晴らしい限りです。


私は前に天皇陛下の素顔を紹介していた番組について書きましたが、

天皇陛下はなぜあんなに偉ぶっておられず、いつも自然体な
のかなと不思議に思ったのですが、それはおそらく天皇陛下も神=自然を敬っているからなのではないかと思いました。

神社はその建物自体に権威があるのではなく、私たちが神聖なものとつながるための通路、大いなる自然を敬う事を忘れないための場所であることに価値があると思うのですが、

おそらく天皇という存在もそれ自体に権威があるのではなくて、その聖なるものの近いところで、その教えを代々守ってきたというところにその存在価値があり、

天皇陛下ご自身もそのことを認識されているから、あんなにも飄々としていらっしゃるのではないか、とそんなふうに感じました。

河合隼雄氏は日本社会の中空構造ということを指摘していましたが、それをもっとも体現しているのが神道なのかなという気がします。






烏森神社でお参りを済ませ、さて帰ろうかと思っていたところ、

境内の看板に下の張り紙がはってありました。


二宮尊徳の言葉でした。

今まさに大木を見てきたところだったので、含蓄のあるいいことばだなと感じました。

二宮金次郎については、近々アップしようと思っています。


おしまい。










2008年9月27日土曜日

神道のこころ

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最近よく、伊勢ー白山 道さんのブログを読ませていただいてます。彼は霊的、神的なものを感じる能力がある方のようです。彼の説くところはたいへんシンプルでありますが、同時にとても本質をついていると感じます。(詳しくは伊勢白山道さんのブログまたは、著書『内在神への道』を読んでみてください。)

伊勢白山道さん曰く、最強の祝詞とは、

生かして頂いて、ありがとうございます

だそうです。また続けて

アマテラスオホミカミ・アマテラスオホミカミ

と唱えると良いそうです。
また、ご先祖の方々や神さまに対しては「お願い事」をするのではなく、ひたすら感謝をすることが大切だといっていますが、これと共通する「感謝することの大切さ」を説いた話を最近読んだ本の中に見つけました。

『神道見えないものの力』 葉室頼昭 春秋社 1999

という本です。作者は春日大社の宮司の方ですが、もとはお医者さん(大阪大学医学部卒)という変わった経歴の持ち主で、不思議なことに御親族は(たとえ血がつながっていなくても)みななぜか最終的には宮司をしているという変わった家系のようです。

この本のなかでは、生かされるいることに対する感謝の気持ちをもつことの大切さが説かれていて、なるほどなと思わされる点がたくさんありました。また「自殺」についてや「はたらく」ことの意味の解釈も面白かったのでついでに載せておきます。


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バランスと真実の健康

日本人は、罪・穢、つまり我欲によってバランスが崩れることを知っていたから、常に我欲をなくして、神さまに生かされている生活を目指してきたのです。これは自分でバランスを整えようとしなくても、神さまはちゃんとバランスが整うように、人間の体をしてくださる。そういう考え方です。これが生かされているという考え方です。

自分で生きているというと、自分でバランスを整えなければいけない。不可能ですよ。百パーセントのバランスを自分の力で維持するなんていうことは、できるわけがない。歯を一ミリ削ってもバランスが崩れるわけですからね。

ですから、そんなことができるわけがないから、日本人は罪・穢を祓いましょう。我欲を亡くしましょう。すべて神さまに生かされる生活をしましょう。そうしたら神さまはバランスを整えてくださって、健康な生活をさせてくださる。そういって昔から真実の生活を送ってきたのです。これは最高の生き方だと思います。

ところが、外国人は、薬とか何かで、自分の力で健康を作ろうとするでしょう。そこで間違ってきてしまうんです。ですから、私は日本人の、つまり神道の考え方というのはすごいと声を大にして言っているのです。世界にまれなる考え方ですから、これを実践している日本人が世界を救うというのは当たり前なんです。何でもないようですが、しかしすべて我欲をなくす生き方というものが、これからの人間の生き方の目標にならなくてはならないでしょう

<中略>

人間の体というのは疑いようもなくバランスで健康が保たれているのです。それは人間の力だけではほとんど不可能です。ですから、「ありがとうございます」と神さまに感謝しなさい。そうしたら我欲が消えてバランスが整います。薬の何百倍も効くパワーが生み出され、病気を消し、バランスを整え、健康になるのです。

<中略>

ですから、病気でも何でも不幸なことは、感謝というものの大切さを分からせるために与えられた神さまのお知らせだと思うんです。さっきも言ったように、夜を知らせるためにはまったく反対の昼を見せなければ、夜が分からないのと同じように、病気というのもを見せなければ、健康のありがたさというのは分からないんですね。

神様はすべて正反対のものを見せて、本当のものを知らせようということなんです。これが自然の仕組みです。神さまがいらっしゃるなら、なぜこんなに不幸があるのか、悩みがあるのかと言う人がいますが、そういうものがなければ、本当のありがたさというのは分からないんです。

<中略>

ですから、病気になったら、感謝が足りないんだなと気が付けばいいんですが、それに気が付かずに、薬とか何かで治そうというから間違ってくるんです。本当に感謝するということが一番大切なことなのです。
(p.180-187)


本当に生きるとは

― そういえば、お年寄りの方の自殺が非常に多いという話もききますね。
これも戦後の悪弊で、ひとつに人間は自分で生きているという考えになってしまってから、こういう自殺というのも増えているんですね。生かされているということを忘れてしまったんでしょう。才能に恵まれた人が自殺をする例が非常に多い。

<中略>

戦後、老人の自殺が多いというのそれですね。自分のことだけ考える。世の中の幸せのために生きるとか、そういうものがなくなってしまった。そうすると、行き詰ってしまうんですね。人間というのはそうではなくて、いつも言うように、神を認め、神をたたえなければいけない。それは人間に対しても同様で、人のいいところを認めてあげてほめるというのが、人の本来の生き方なんです。それなのに逆をやるようになってしまったから、しまいに人生に行き詰まりを感じるわけでしょう。

しかし、神を認めるということに行き詰るということはない。永遠に行き詰まりというのはないわけです。だから、人生に行き詰まりというのはないわけです。自分のことを考えると行き詰りになってしまうんです。

― 自分のことだけ考えていると行き詰ってしまうと。

ええ。だからそうではなくて、人を喜ばせることを考えれば、行き詰りということはないでしょう。一生懸命に働くというのは、外国では労働だけれども、日本語は「はた」を「らく」にする。周りを楽しませるというのが働くということです。これはすごいことだと思うんです。自分のために働くから、行き詰ってしまうんです。そうではなくて、人を喜ばせるためだったら、行き詰りというのはない。どれだけの人を喜ばせたら終わりというのではなくて、対象は無限でしょう。そうすると、自殺なんかしていられなくなるわけ(笑)。
(p.211-213)

--------引用終了----------

2009年6月10日水曜日

かんてんパパ塚越さんの経営哲学≪最終回≫




2006年5月のカレンダー



塚越さんの経営哲学は、

会社で働いている人を幸せにし、それを通じて社会に貢献する

ということでしたが、働いている人を幸せにすることを考えると、会社内の流れがいい方に回っていくようです↓





機械はカタログに書かれた程度の能力しか発揮しないのに対して、

人間がやる気を出すと何倍もの力を発揮し、仕事を追いかけるようになるといいます。

普通、仕事に追われて、、、という言い方が一般的ですが、

仕事を追いかける


というのは、ポジティヴでいい表現だなと思いました。


また人材は人財であるという言い方がありますが、結局人間を大切にすることがその企業の原動力になるんだろうとおもいます。


また塚越さんのこの考えは、教育にも共通することだと思います。

前に
ガウディの教育観のところで、学力についてとりあげましたが、私は学力にはふたつあると思っています。

一つは点数として計れる学力と、もう一つは数字にはならない学力=学ぼうとする力、やる気です。

国際学力比較などで良い点をとるために、数字として計れる学力ばかりを追い求め、

肝心の学生のやる気の方をそいでしまったら何もならないと思うのですが、

塚越さんのやる気を育む経営というのは、まさにいい方の教育のあり方だなと感じました。


さて最後になりますが、塚越さんは、 幸せになりたかったら、人に感謝されることをしなさいとおっしゃってます↓




おそらく、これがすべての原点だと思います。

前に映画「ザ・カップ」を取り上げましたが、あそこの
最終回で僧院長が語っていました。

すべての悩み・苦しみは己に執着することに起因している。そこから解放されたかったら、おのれと同じように他者を慈しみなさい、と。




塚越さんがおっしゃっているのは、まさにこのことですね。利他が結局は自利につながるというのは矛盾しているようで面白いですよね。

このことを商売という場で実践され、成功されているというのが本当に素晴らしいことだと思います。


2008年6月のカレンダー



自と他における、楽しい・苦しいで社会の現象を見てみると、以下の四つのタイプに分けられるかなと思います。

自他=楽楽、苦楽、楽苦、苦苦

自他共に苦しくて、つらいだけというのは、まったく生産性がなく、あまりない現象ですが、あえて挙げるとしたら戦争なんかがこの範疇にはいるのでしょうか。


自分が苦しくて相手が楽しいというのは、ボランティアなどがその範疇に入るのかもしれませんが、こういう形態はそれ自体では長続きしません。

二宮尊徳推譲ということばで、余力が出たらそれをを将来や周りのために譲ることを説きましたが、余力があってはじめてできることだと思います。





自分だけ楽しくて、相手が苦しいというのは、極端な例だと犯罪といえます。

今回の金融危機を招いた証券会社の社員たちも、

やっていたことは自分だけよければ社会がどうなろうとお構いなしというスタンスだったので、広い意味では犯罪といえるかもしれません。


自他共にともに楽しい、楽・楽というのがすべてにおける理想で、これを実現しているのがかんてんぱぱの経営だといえます。

そしておそらく自然界の多くは、自他共に楽しいという共存の関係にあると思います。

自他共に楽しい、楽しいだと、そこにエネルギーのロスがなく、新たなエネルギーがどんどんに生まれてくるように感じます。

そういえば、前に神道のこころで取り上げた宮司の葉室さんは、

働くとは、「はた」を「らく」にさせること


だと述べていましたが、これはまさに利他の心で、塚越さんのおっしゃっていることと同じです。

これからは経営も、かんてんぱぱのように自他共に楽しくなるようなあり方が求められるだろうと思います。

またそのような形態でないと今後は生き残れなくなるのではないか、とそんな気がします。


金融危機でどん底にあるアメリカの企業の中から、

塚越さんの経営哲学に共鳴するような企業がひとつでも、ふたつでも生まれてきたら素晴らしいなぁと思うのであります。




2005年6月のカレンダー






おしまい。




参考:

かがり火〔グーグルアルバム〕
:塚越氏を紹介した広報紙の一部
http://picasaweb.google.co.jp/mshikon/QztGsF

(F11キーで全画面表示にし、写真右上にある虫メガネのボタンで拡大すると読みやすいかと思います。)