2009年12月2日水曜日

言語表現と数学的思考 ~ その弐 ~



それは大学受験をするために、通信添削でS社の国語をとっていたときのことです。

添削から帰ってきた国語の解答は恐ろしいような点数で、赤ペンで色々書かれていました。

何がだめだったんだ?

とよく吟味としてみると、要は私の書いた答えがS社の模範解答の表現の仕方と違ったから×を食らったということでした。

しかし良くよく内容を見てみると、どう考えても私の方は文章内にある別の言葉を使って解答と同じ内容を書いているのです。

赤ペンで書かれていた評から、この採点者は明らかに横に置いてあるマニュアルどおりの採点しかしておらず、自分の頭で考えていない

あるいは同じ内容が書かれているすら分からないんだということがはっきりしました。

これゃ、ダメだわ、、、

私は戻ってきた答案をすべてちりぢりに破り捨て、紙吹雪にして部屋中にばら撒きました。

とても気持ちよかったです(笑)。

あ~、これは採点のアルバイトでもやとってやっているんだなとがっかりした私は、それ以降その通信添削の国語を出すことをやめました。

通信添削のZ社だったら違ったかな、などと思いつつ、結局国語は独自に勉強することにしました。

一番参考になったのは、出口の国語といわれる参考書だったかと思います。

文章から骨となる部分を切り取って、どのように回答していくかがよくわかりました。


また国語の勉強を進めていって気付いたことは、あれはゲームなんだということでした。

それを痛感したのは、あるセンター試験の過去問をしているときでした。

この問題はどうしてこれが正答なんだろう、と解説を読むと、なんとその解説に、

これを正答とする根拠は不明である

と大手予備校の解説者自身が書いていたのです!

えっ、そんなこともあるのか!?

このとき気づいたのは、正答を見つけると言うよりは、

問題を作っている人が正しいとするものを選ぶというゲームなんだ

ということでした。

だから問題を解くときは、正しい答えをみつけるんだという発想を捨てて、

設問者が何を解答としているかをあてるゲームなんだという風にきりかえる必要があるのです。

国語の問題文を良く読むとわかるのですが、

たとえば選択肢から選ぶ問題は「正しいものを選びなさい」ではなく、「適切なものを選びなさい」と書いてあります。

つまり、たとえ正答としては少しおかしいと思われる表現が選択肢の文中にあっても、

他の物に比べてより正答に近い、切なものであればそれが正答であり、

それを探すというゲームが国語の試験なんだと私は国語の勉強を通じて開眼したわけです。

センター試験は9割、二次試験の国語は6-7割が目標でした。

センターはだいたい目標通り、二次の国語は現代文と準古文と古文があって、

いずれも回答欄がドカンと大きく空いていて、自らの言葉でしっかりと表現することが求められる試験だったのですが、

無事受かったので、おそらくそれなりの点数をとれたのだと思います。つまり私の勉強法は間違ってなかったのだと思いました。

大学の学部などのレポートでも、自らの思考や文章の表現力が要求されるものでしたが、

おおよそ優をもらっていたので、大学の教授の目からしても、私の国語力、文章の表現に大きな問題はなかったのだろうと思います。


ココで何がいいたいかというと、教える側の「正しい」とするものが、学生をダメにする可能性があるのではないかという点です。

先の「僕がこの本を選んだのは、目次です」の作文や、通信添削がそのいい例です。

「僕がこの本を選んだのは、目次です」ではじまる文章がその後どのように展開していったのかわかりません。

もしかしたら、後半も具体的な説明がなされることなく、支離滅裂な文章だったのかもしれませんが、

こういうインパクトのある文章を、説明が足りないという理由で「正しい文章」に矯正されてしまうのは残念だなぁと思うのです。

また通信添削の例のように、明らかに採点する側のひとの方が至っていない場合、私のようにスパッと切れればいいですが、

ずるずると続けて正しい解答にしようと真面目に努力していった場合、ドツボにハマってしまうように思うのです。

なぜ私がこのようなことをわざわざとりあげて書くのかというと、

私は小さいころから作文や感想文をかくのがチョーーー嫌いで不得意で、国語の点数も悪かったからです。

ついでにいうと、私は小学校の高学年になるまで絵が描けませんでした。じいちゃん絵描きなのに、、、

問題点のひとつは、本人が文章や絵をかきたいという内的衝動がないのに無理にかかせるというところにあるとおもうのですが、

それはとりあえず置いておくとして、

絵が描けなかったのは、今思うと、抽象化する、抽象化していいんだということがわからなかったからです。

たとえば、樹の絵を描くとすると、樹皮はとても複雑な模様をしているし、葉っぱなんか何千枚もついていて、その葉っぱの中に葉脈が走っているし、

いったいこんなものをどうやったら描けるんだ、いくら時間あっても描けるわけないじゃないか、と思っていました。

しかし茶色で線をピッと引けば、ハイこれが、緑の絵の具でチョンとョンとそれこそテキトーに点をうっていけば、はい、これが葉っぱ

これでいいんだということを知って、絵が描けるようになりました。

適当に抽象化していいんだ、表現するというのは抽象化するということなんだということがわかったのです。

(当時は感覚的にわかった!という感じだけでしたが)


実は国語も同じことが言えて、問題を解くと言うのは、

①文章から骨となる部分を切り取って、

②それを字数内でコピー&ペイストする


という一連の単純作業で、

言葉という抽象的な記号の連続体から、その核となる部分を抜き出すという抽象化の作業なのです。

また先に書いたように、正答を導き出すというよりは、設問者が正しいとするものをみつけるというゲームなのです。

決して自分が考えたことを書いたりするものではないのだということでした。


私がここで言いたいのは、

子どもは別のことを考えているのに、教える側がそれを理解できず、単に正しいとするものを押しつけ、

こどものやる気をなえさせ、子どもをダメにしているということがあるのではないかというこです。

子どもがもっと別の可能性を開花させるのを阻害している可能性があるのではないかと思うのです。

教育する側にいるものは、教える相手を自分の正しいとするマニュアルに沿って評価するだけではなく、

自分の脳みそをフル回転させて、想像力を最大限に働かせ、相手を理解しようとする謙虚な姿勢と、

子どもという未知なる宇宙を理解できる高度な能力が必要とされるのではないかと思うのです。

なんせ子供は、自分の置かれている状況をうまくことばで説明できませんから。


また国語ができない、とか絵が描けないというのも、

正面からその問題に取り組むのではなく、別のルートから迂回してアプローチできるのかなと思うのです。

その方法のひとつは、数学かなと私は思うのです。



参考:

出口の国語〔アマゾン〕
http://www.amazon.co.jp/s/qid=1259760632/ref=sr_st?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&rs=465610&page=1&rh=n%3A%21465610%2Ci%3Astripbooks%2Cp_27%3A%8Fo%8C%FB+%9F%8A&sort=salesrank

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