私は毎朝、毎夕、神棚などを参拝、仏さまには線香をあげるのを習慣としてしますが、今朝、お参りをしながふと思ったことがあります。
それは、神様にはやはり感謝のみだよな、、という感覚でした。
仮に、自分が何かの師匠で、弟子がいるとします。
その弟子が、いま与えられている教えに感謝もせず、ないがしろにしていながら、早く次の新しい教えをご教授くださいなどと言ってきたら、恐らく
たわけ、100年早いは!
今与えられている教えをないがしろにしておいて、何が新しい教えだ!
と思うのではないか、、。
そして、そんなことを言うお前にいま必要なのは、新しい教えどころか、いま与えられている教えのありがたさを知る体験だ、
とばかりに、今当たり前として与えられているものの大切さを知るための試練が与えられるのではないか、、そんな気がふとしたのです(笑)。
もしかしたら、神様にお願いごとをするというのは、神様の立場からしたらこんな感じじゃないのか、、と。
逆に、今与えられていることに、ありがとうございます、ありがとうございます、生きていることに感謝、生かして頂いていることに感謝、、
と普段から感謝のみをしていると、
おー、おー、そうか、そうか、おぬしわかっておるなー、ではいいものを授けようではないか、、と神様からのプレゼントが贈られるのではないか、、そんな気がします(笑)。
もし、何か新しいことを心の中で企図しているなら、それはお願い事としてではなく、
私はこれこれのことをやってみるつもりでいます、よろしくお願いします、
と決意表明にとどめておくべきではないのか、と私は感じました。
お願いごとは依存であり、決意は自立して自分でやりきることの意思の表明です。ここには大きな違いがあると感じます。
私が師匠として、弟子にそのように言われれば、その結果が如何になろうとも、なることが分かっていたとしても、
そうか、そうか、頑張ってやってみるといいんじゃないか、、というような気がします。
ということで、家の神棚をはじめ、神社仏閣などを参拝するときは、基本は感謝のみ、やるとしても決意表明のみか、と思うのであります。
もし下手にお願い事をして、仮にかなうことが過去にあったとするなら、それはそれでとても危ういことだと感じます。
神様とは別の存在との何がしかの取引が成立したという可能性があるので、必ずお礼参りはしておいたほうが良いです。
そして以降は、感謝、或いは決意表明だけに留めておいた方が賢明だと思います。
正神に奇異なし
という言葉があるようです。これは正しいと思います。
正しい神様は、人間界のことにあれやこれや介入して、願い事をかなえてあげたりなどしないし、できないようです。魂が向上するための何がしかのインスピレーションのようなものを与えるだけのような気がします。
色々な願い事を叶えることができるのは、人間界に近い色々な存在のようで、これを神様と混同している場合が多いよう思われます。
けさ思ったこと、神仏には感謝のみ、あっても決意表明で留めておきたい、、でありました。
おしまい
<(_ _)>
1 件のコメント:
有難うございます。
心から納得!!
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