2009年11月12日木曜日
逍遥遊
逍遥遊=とらわれのない自由なのびのびとした境地に心を遊ばせること≪荘子 内篇解説より≫
おそらく目を覚ますこと、私たちの真実のありように目を開くことというのはそんなに難しいことではないのではないか、と思うのです。
ナムカイ・ノルブ氏は、生じてくる想念を追いかけることなく、常に三昧の境地に住していることが大事だと言います。
クリシュナムルティ氏は、思考という飴玉をいつまでもしゃぶっていることをやめなさいと説いています。
チョギャム・トゥルンパ氏は、想念という草をはむ牛に、草原という広いスペースを与えてやりなさいと説いてます。
パラマハンサ・ヨガナンダは、絶えず神に意識を向けていることが肝要だと述べています。
表現の仕方は人によって様々ですが、おそらく”至った人”たちは自分なりの比喩を用いてその”境地”を説明しようとしているように思います。
私たちは絶えず生じてくる想念を追いかけ、常に内的なおしゃべりをしている心の状態が当たり前だと思っていますが、実はそれがすべてではないようです。
おそらく"悟り"というのは、意識のフォーカスの問題だと思うのです。
視力のところで述べたように、近くの物を見続けていると、目は近くの物にしか焦点が合わなくなり、近視になりますが、
おそらく私たちの意識も、「私たちが現実としているところ」にフォーカスを合わせることしかできなくなっている状態、
一種の仮性近視の状態にあるのではないかと思うのです。
悟りの境地はたとえば水面にたとえられます。
静かな水をたたえた湖で魚が泳いでいるとします。
魚は絶えず生じてくる想念で、湖は心の原初の境地です。
私たちは心に絶えず生じ、動いている”魚”に焦点を合わせることに慣れていますが、
その動きと同時に静寂をたたえた湖が存在しています。
しかし私たちはその静寂にフォーカスをあわせることができなくなっているだけなのではないかと思うのです。
また私たちの想念と心の原初の境地は、波と海にもたとえられます。
海に生じる波は、海があってはじめて生じるもので、私たちは波に焦点を合わせることに慣れ親しんでいますが、
そもそもその波を生じさせているところの海全体を認識する能力を失っているともいえます。
また太陽と地上との垂直方向のたとえを用いるなら、
ブッダのようなひとの意識は、「日々是好日」といえるような常に太陽とともにあるといえますが、
私たちは雲が出てきて、雨が降り、また夜が来たら、太陽が見えなくなったといいます。
しかし太陽は雲があろうが、夜になろうが、常に地球を照らしています。
おそらく私たちは自らの意識をどこにおくかを、私たち自身で選択しているのだと思うのです。
悟りに至った聖賢たちは、私たちに他の選択肢があることを説いてきたのだと思います。
そしてある程度訓練することで、視力と同じく、
広大な心の原初の境地、光に満ちた寂静の境地にフォーカスをあわせることができるようになると思うのですが、
大事なポイントは、本当に私たちがそちらに意識をフォーカスしたいと思っているかどうか、という点にあるのではないかと思うのです。
というのは、前回マトリックスの中のサイファーのセリフを取り上げたように、私たち自身が真実や自由を望んでいない可能性があるからです。
お酒や薬物あるいは過食などによって意識をわざと濁らせ、
あるいは常に思考にふけることで心の本源から目を背けてみたり、
この世で「大事だと思っていること」に没頭し、またこの世で様々なおもちゃを収集することに夢中になっていることの方が楽しい、心地よいと感じるかもしれないということです。
結局は当たり前なのかもしれませんが、それぞれが望む”遊び”をしていていいんだと思うのです。
あの世には、前にとりあげた臨死体験者のダニオン・ブリンクリー氏が述べているように、
延々と戦争を繰り返しているような境地があったり、無限と思われるような時間の中で悲嘆にくれている境地があったり、
また性的な欲求に囚われているようなねちねちした境地があったりと、
まさに「類が友を呼ぶ」の言葉の通り、似たような想念の持ち主たちが寄り集まって形成するそれぞれの世界があるようなのですが、
一般にいわれるような「地獄」と思われるような境涯であっても、実はそこにいる魂たちにとっては、その境地が天国らしいのです(笑)。
なんせ自分たちの好きなことを思う存分できるところなのですから、、、。
要は私たちがどの境地に意識をフォーカスしたいと思っているのかということにあると思うのです。
私は「荘子」が好きなのですが、「荘子」の一番最初は「逍遥遊篇」、まさに"遊ぶこと"にはじまります。
その中の話しに次のようなものがあります。
荘子の友人の恵子(けいし)は魏の王様から大きなひょうたんの種を貰います。
恵子はそれを育てて大きなひょうたんの実がなります。
しかしあまりにそのひょうたんが大きすぎて、水筒にするには向かないし、
割いてヒシャクにすることもできないので、使いようがないからぶち壊してしまった、と荘子に語るのです。
それを聞いた荘子は、どうしてそんなに何かの役に立てようとばかり考えるのですか。
そんなに大きいなら、中をくりぬいて船にして、河や海に浮かべて遊べばよかったものを。つまらないお人だ。
といった話です。
なんか肩の力がふっと抜けてしまうようなマンガチックな話しで私は好きなのですが、
あまり物事を四角四面に考えすぎることなく、
すべては究極的には大いなる遊びなのかもしれないぐらいの気持ちをどこかにもちつつ、
大きな流れとともに生きていくのがちょうどいいのかなぁと思うのです。
つづく、、、
参考:
【アマゾン】
ナムカイ・ノルブ氏の著作
クリシュナムルティ氏の著作
パラマハンサ・ヨガナンダ氏の著作
チョギャム・トゥルンパ氏の著作
荘子に関する著作
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