2009年3月6日金曜日

乳がんと牛乳【Part.8:著者の原体験】


今回は『乳がんと牛乳』の中から、著者がどのようにして権威に対して疑問を抱くようになったのか、それが綴られた部分をピックアップしてみたいと思います。

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どの職業でも同じだが、医師の能力にもピンからキリまである。私が関わった医師たちも同様であった。

ある面では私は幸運だったのだろう。私は最初から、医師の前で思った通りのことが話せないなどということはまったくなかった。


研究者として仕事を始める前から、父親に対して精神科医が行った病気治療を目のあたりにしていたため、私は医学界の慣習・因習に対抗する術を身につけていたように思う。

父は非常に賢い人だった。私は今でも、父が学校時代に受けた数々の賞を保管している。けれども悲しいことに、父は躁うつ病で、ときどき激しい発作に襲われた。

1950年代から1960年代の初めにかけて、何人かの精神科医の治療を受けていたのだが、治療台は高く、母は治療費を稼ぐために懸命に働いた。

私の脳裏には、もっともらしく権威をふりかざしながら、苦悩する人々から金をまきあげる彼らの言動か焼きついている。今でも、LSDをのまされ、電気ショックを受けた時の父の姿を覚えている。

その当時の電気ショック用器具はあまりにも不具合で、患者の脳がどのくらいの電圧・電流に曝されるのか誰にもわからなかった。

悲しいことに、父は人格も知能も壊れてしまって、行動まるで子どものようであった。病院に連れていかないでくれと哀願して泣き叫ぶ父の姿が忘れられない。

父の医師たちは、電気ショックなどという拷問器具を使う前に、躁うつ病に対するリチウムの効果を聞いていなかっただろうか。

おそらく知らなかったのだ。それ以来、私はしばしば医師と躁うつ病について話し合ったが、誰ひとりとして、躁うつ病に対して電気ショックを正当化する医師はいなかった。

ある脳化学の研究者は

テレビが故障したときに、蹴飛ばすとたまに映ることがあるだろう。電気ショックはあれと同じようなものだ

といった。

<中略>

父の医師たちと対局にある存在として、私が出会った医師のなかでもっとも聡明で思いやりがあるカマック医師をあげることができる。父が死んだとき、私の母は深い悲しみのあまり取り乱した。

抗うつ剤のかわりにカマック医師は母に1匹のかわいい子犬をもってきてくれた。母が、もう大丈夫、ひとりでやっていけると感じるまで、彼は毎日、母を訪ねてきた。

おかげで母の回復は早かった。実際、薬剤よりプードルのほうが治療効果の大きい患者もいるのだ。変わった処方ではあるが。
P.49-50
---------引用終了-----------

電気ショックは、故障したテレビを蹴飛ばすとたまに映るようになるのと同じようなものだ、というくだりを読んだとき、私は思わず声を出して笑ってしまった。

そんなひどいことが行われていたのか、、、と。

科学技術によって生み出されたものは、ある時期万能だ、最高だともてはやされても、のちになって最悪のものだったりすることがよくあります。

フロンやアスベストなど例をあげれば枚挙にいとまがあまりせん。だから権威のあるひとがいいとしても、それを鵜呑みにせず常に最終的には自分の判断をよりどころにすべきだと思います。

著者はこのような幼少期の悲しい体験から、権威に対する批判の精神を学んだようです。

うつ病の話が出てきましたが、現在日本では100万人のうつ病患者がいるそうです。


それに対する医療現場はどうかというと、カウンセリングをすることもなく、一度に大量の薬を処方するだけというような開業医が巷に雨後のタケノコのように増えているそうです。

診断も医院によってまちまちで、出す薬も反対の物が処方されるなどと言う事があり、人によっては命を落とすことにもつながっているようです。

私は一般の人があまりにも簡単に薬を飲むことにびっくりしてしまいます。自分で色々できることをやってみて、ほんとにどうしようもなかったら最終的に薬を飲むというのならわかるのですが。

プラント博士のように、権威に盲従することなく、常に目を開いて、好奇心・探究心をもってものごとにあたっていくのが理想かなと思います。


参考:
NHKスペシャル:うつ病治療 常識が変わる
http://www.nhk.or.jp/special/onair/090222.html

乳がんと牛乳──がん細胞はなぜ消えたのか



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