2009年5月24日日曜日

空っぽ 〔Emptiness〕 ‐ 其の参 ‐



ここで原さんのデザインに対する考えが語られました。



爆笑問題の漫才と同じで、デザインも見る人に共感され、




笑われることを目標としているそうです。

そのために大事なのは、




自分の頭で考えるのではなく、人に聞いて聞いて、人の頭で考えることだそうです。

ここで原さんは、リフレクト(reflect:反射する)ということばを使っていたのが印象に残りしました。

この場合、自分のデザインを相手に訊ねて(反射させて)、出来、不出来を知るということなのですが、

英語のreflect、名詞形のreflectionには、よく考える熟考するという意味があります。

昔から

なんで「反射」させることと「熟考」が同じ単語なんだろう?

と思っていたのですが、彼の言葉を聞いて色々なものが、バババッとつながるのを感じました。



考えるというのは、ふつう個人の頭の中で色々と試行錯誤することで、それに価値があると思われがちですが、

実はそれは「狭い思考」であって、そこから導きだされる結論も偏ったものになる可能性があると思います。


しかしそれに対して「広い思考」というのは、色々なところに反射させて、その反射されたものを
利用するというところにあるのではないかという気がするのです。

それは、人に聞くのもそうだし、本にあたってみる、自分の考えを文章にしてみるのもそうだし、

もしかしたら自然の中を歩きながら考える、運動しながら考える、というのも一種の反射を利用した思考なのかもしれません。

また神話から、自分たちの祖先が自らのアイデンティティをどのように考えていたかをくみ取って、いまの自分たちの心の働きを考えるのも、反射を利用した思考です。


また自分の意識のレベルも、脳みそだけで考えるのではなく、

眠って問題を深層意識に考えさせ、夢に反射させるというのもそうだし、

瞑想のような、眠りと覚醒の中間のような精神状態に反射させる、というのも広い意味での思考だと思うのです。

そうしてみと、

考える=反射させること


なのではないかという気がしました。

頭の中で1人で考えるのは、狭い範囲で脳というスクリーンに反射させているだけで、そこから出てくる結論というのも、おのずと限られたものになりがちですが、

広い意味での思考というのは、様々なところ、様々な意識レベルに反射させるものなのではないのか。

そしてそういう思考を経て出てきたものは、応用の効く、普遍性のある結論になるという気がするのです。


葉隠という本には、次のようなことが書かれています。


物事を深く考えればどのような事でも解決がつくように思うかもしれないが、

「私」を基本にしたのではいくら考えたところで、すべてが邪智の働きとなって悪い方へと傾いてしまう。

だから、人に聞いたり、書物にあたってみたりするべきだ。


これはまさに反射を利用した広い思考方法であると私は思います。



また、反射ということをさらに敷衍すると、宗教的な分野で頻繁に登場するに行き着くように思います。

神道では三種の神器のひとつとして鏡が用いられています。

また仏教では、帝釈天の住む宮殿には飾りとして網(因陀羅網、帝網)がかかっているのですが、

その網の結び目に宝珠がついていて、一つの宝珠が他の宝珠を映しだし、その映し出された宝珠もまたもとの宝珠を映し出しているという無限に続く世界観が提示されます。

これはまさに、一即多、多即一の世界であります。

真言宗では、すべての本源である大日如来の智慧の一つは大円鏡地で、すべてをあるがままに表す智恵とされています。

またチベットの精神的な伝統であるゾクチェンにおいても、悟りとは鏡のような境地に住することであるといわれます。

そのため修行者は、常にそのことを思い起こせるように「メ・ロン」という首飾りを掛ける事があるそうです。

ゾクチェンの伝統によると、私たちはふだん鏡に映った像に執着し、それを操作しようとする心の習慣を持っているとされますが、

私たちの誰でもがその本質としているところの鏡そのものの境地に常に住することが肝要であると説いています。


もしかしたら、鏡、反射というのは私たちがこの世に迷い込んでしまった原因そのものであるとともに、

私たちがその本源へと戻るときの道しるべなのではないか、という気がするのです。


そもそも、なんでこの世が生まれたのか、なぜ人間が生まれたのか?と言う事を考えるとき、反射というのがひとつのヒントになるのではないかと思うのです。

つまりすべての初めに「大いなる心」があって、それを神様と呼ぶとするなら、神様自身も自分がどうなっているのかを知りたくて、

対象化できる自分の分身を生み出したのではないか、それがこの宇宙の始まりであり、人間という存在なのではないか、と。

こう考えると、キリスト教で、神は自分に似せて人間をつくったというのも理解できるような気がします。


そういえば、インドのリシケシュ(Rishikesh)というところにヨーガをしに行ったときに、



ヨーガを習いに行っていたヒンズー寺院の正面に、

すべては神の想念のあらわれである


ということばがかいてあったなぁ、、、。
(写真を撮ろうと思っていたのに、結局撮り忘れてしまった)





考える事は反射させること

また迷うことも、迷いから抜け出すこともまた反射にある

と考えると、何か新しい展開がひらけてきそうだなという気がします。



さて、話はだいぶ逸れましたが、番組では太田さんが「」について語りだしました。



太田さんが小さいころ、テレビでミヤコ蝶々さんが次のようなことを言っていたというのです。




間が大事であると、、、。




人間は、人の間、、、





時間は、時の間、、、




世間は、世の中の間、、、





何においても“”が大事であり、大事なものには全て“”があるというのです。つまり空っぽが大事なのだというのです。

考えてみたら、間がないのは“間抜け”だし、間がありすぎるのは“間のび”といわれます。


原さんは、



間=空っぽの感覚というものを私たち日本人が本来持っているのだと言っていました。


日本人は、昔から自分たちが世界の中心だとかいうのではなく、アジアの隅にある小さな国だとか、世界の端にある島国であるという感覚をもっていて、





その謙虚さはいいのではないかといっていましたが、

ここで太田さんが鋭い意見を発します。









これは日本社会の特徴をよくつかんでいると思います。

心理学者の河合隼雄さんは、日本文化の中空構造ということをたびたび述べられていましたが、

この中空が確固とした実体をもつというふうになると、容易に全体主義に陥るということを述べられていました。

たとえば、天皇はいまではたんなる象徴ですが、

天皇こそが日本の中心であり、日本国民は天皇のため、お国のために尽くさなければならない、となるといきなり全体主義に染まってしまうのだといっていました。


また河合さんは「母性社会日本の病理」という表現もよく用いられていて、

母性、すなわち包み込む性質、協調、絆、などが強調されすぎると、容易に個が殺される方に傾くので、

日本社会は特に無意識のうちにこのような心性が働くことが多いので注意が必要だと述べられていました。


こういうところからも、日本がどのように父性原理=ヒルコを取り入れていくかが課題であるかがわかります。



また話がそれてしまいました。

原さんは続いて、デザインとは何なのかについて説明し始めました。







あるものに対して、固定してしまった考えを更新させていくのがデザインなのだそうです。

そういえば、いいデザインのものって、オッ!、ナニコレッ?て思わされますよね。














デザインとは固定観念を打破し、覚醒させること、、これは興味深い表現だなと感じました。

でもデザインも奇を衒い過ぎて、実用性が削がれていたら本末転倒だと思います。

やはりそれこそ間の取り具合、バランス感覚が大事で、要は当人の美的センスによるところが大きいのでしょう。


番組の最後に、あるマスクが紹介されていました↓








人の表情をかたどったマスクです。










見てるとなんかムカつく、と太田さんに叩かれる田中さん。





しょうがないじゃん、マスクなんだから、、といいつつも、なんだか笑ってしまう、、、。






豚インフルエンザが拡大するこの時期、街中でこんなマスクをしていたら、みんな愉快になって、免疫力があがっていいんじゃないでしょうか。


おしまい。


ふー、やっとおわった、、、。




3 件のコメント:

info さんのコメント...

毎日楽しく読んでいます!とってもおもしろい!鵠小、鵠中とたまに一緒のクラスだった「彦」のつく人でした^^

彦兵衛 さんのコメント...

infoさん、コメント有難うございます。

鵠小、鵠中と一緒でしたか、、、。

私は稲中出身なんですが、、、(なんて)

ちょっと思い出せないです。申し訳ないです。

またなんかありましたら、気軽に書き込みしてください。

info さんのコメント...

そうでしたか^^;

小学校時代は自宅に遊びに行きましたが(途中で鵠小に引越してきましたよね~)、中学時代はほとんど交流なかったですからね^^

では今後も楽しみにしています!