2009年5月7日木曜日

一華開五葉 ≪その弐≫




達磨
〔Dharma:the founder 0f Zen Buddhism〕



私は掛け軸に書かれていた

一華開五葉 結果自然成

の言葉が気になったので、帰ってから調べてみました。

この言葉は、禅の始祖達磨大師が弟子の慧可(えか)に送った言葉とされ、



(慧可が自らの肘を切り落とし、達磨に入門を請う図)



全文は以下のようなものだそうです。

吾本来茲土  我れこの土(国)に来りてより

伝法救迷情  法を伝えて迷情を救う
 
一華開五葉  一華五葉を開き

結果自然成  結果自然に成る

(景徳伝灯録)

訳すと、

私がこの国(中国)に来て以来、仏の教えを伝え、迷い悩む人を救った。

一輪の花が咲くと、五枚の花びらが開き、結果は自然に成就するだろう。


こんな感じでしょうか。

この「一華開五葉 結果自然成」にはいくつかの意味がかけられているように感じました。

一つ目は、上に記したように、花が開き、実がなるように、私(達磨)のもたらした禅も自然に広がっていくだろうという禅の伝播を伝えた意味。

二つ目は、悟りという華が開けば、現実の世界の身の回りのものごとも自然に成就してゆくだろうという、個における悟りの境地の展開を伝えた意味。

三つ目は、花が咲き、実がなるように、すべてをあるがまま、自然にまかせたらいい、という意味で、禅の奥義を伝えたと思われる意味。

そして四つ目は、極めて密教的な意味で、

一つの華(根源の大いなる心)が五枚の花びら(五智)を開き、この現象世界はあるがまま完全に運行されているという森羅万象の淵源を伝えた意味です。


は、仏教ではしばしば悟りの境地をあらわすものとして用いられます。

たとえば泥の中から出るは、清浄なる悟りの境地を表わすものとして仏典では頻繁に登場します。



またお釈迦さんの拈華微笑(ねんげみしょう、蓮華微笑)の逸話、

お釈迦さんが悟りとはどのようなものであるかを伝えようとした時に、手にとった華をひねって見せたところ、弟子の迦葉(かしゃ、カッサパ)だけが、ニコッと微笑んで、釈尊の教えを理解した、

という逸話にもあるように、仏教において華は悟りの境地を表わすものとして用いられます。
 

華を悟りの境地の一なる心、そして五枚の花びらをそこから展開する五つの智慧と解釈すると、

これは密教において曼荼羅に説かれる宇宙の創造、智慧の展開そのものになるのです。


ここからは少し詳しい説明になってしまうのですが、ご容赦ください。

インドにおいて仏教は、小乗→大乗→密教と発展し、13世紀の初頭に消滅しますが、

日本に伝わった密教である真言宗においては、この“一なる根源の心”を大日如来として図像化し、


大日如来[Maha-vairochana]





その智慧の展開を曼荼羅として伝えています。




胎蔵界曼荼羅
〔The Womb Realm Mandala of Shingon Buddhism〕

諸尊の名称







金剛界曼荼羅
〔The Diamond realm Mandala of Shingon Buddhism〕

諸尊の名称



真言宗に伝わった二つの曼荼羅、金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅は両界曼荼羅といわれ、金胎不二(こんたいふに)、すなわち二つで一つとされます。

つまり森羅万象、私たちの心も含めたすべては大日如来のあらわれであり、その大日如来のもつ二つの側面(動と静、智慧と慈悲、精神と物質)を金胎の曼荼羅としてあらわしているとされます。


さて、五葉(五智)についてですが、
この金剛界曼荼羅において、大日如来の周りに、阿シュク宝生(ホウショウ)、阿弥陀(アミダ)、不空成就(フクウジョウジュ)の四如来が展開しますが、五智とはこれらの如来が備えている智慧のことです。


阿シュク:大円鏡智(ダイエンキョウチ:鏡のようにあるがままを映す)

宝生:平等性智(ビョウドウショウチ:すべてを平等なるものとして見る)

阿弥陀:妙観察智(ミョウカンザッチ:あらゆるものの違いをよく観察する)

不空成就:成所作智(ジョウショサチ:すべてを育む)

大日如来:法界体性智(ホッカイタイショウチ:上の四つの智慧をすべてあわせもつ)


大日如来はすべての色を含む白とされますが、太陽光がプリズムを通ると様々な色に別れるように、四つの智慧は大日如来に本来備わっている性質を四つに分けたものです。

実際の金剛界曼荼羅で見ると、九つのブロックの内の中央の曼荼羅において、中心が大日、その少し外側を囲む四体の仏が、四智如来です。

実は先日乗せた
堂本印象さんが高野山の柱に描いた十六大菩薩というのは、この四智如来のそれぞれの周りを取り囲んでいる4×4=16体の菩薩なのです。


高野山金剛峯寺
Koyasan Kongobuji,Wakayama pre.〕



少し話がそれますが、この五智を空海は水に喩えて説いています(『秘蔵記』)。

水はものごとをあるがままに映し出し(大円鏡智)、
その水面に高下なく平等に映し(平等性智)、
また姿、形をはっきりと区別して映し(妙観察智)、
あらゆる生き物は水によって育まれ(成所作智)、
水は遍くあらゆるところにゆきわたる(法界体性智) 。


金剛界曼荼羅の所依の教典である金剛頂経は、南インド龍猛(りゅうみょう、龍樹、ナーガルジュナ:150-250年?)によって人間界に最初に伝えられたとされます。

(金剛頂経の流伝、大日→金剛薩タ→龍猛→龍智→金剛智→不空→恵果→空海。まとめて付法の八祖といいます。)

そして、

達磨(だるま、ボーディダルマ 378 - 528年?)

もまた南インドの人であることを考えると、もしかしたら、達磨も密教的な世界観を知っていたのかもしれません。

この「一華開五葉」の言葉に、達磨が南インドで知りえた曼荼羅的イメージを重ね合わせていたとしたら、とても面白いなと感じました。


最後に、、

空海は彼の著作『性霊集』巻十の中で次の言葉を残しています。

文は糟粕(ソウハク)なり、文は瓦礫なり

訳すと、「言葉はカスであり、ゴミクズである

といった意味になります。

これは単に言葉を学んだだけでは、密教の教えを感得することはできないと戒めた言葉とされます。

空海が伝えた密教の教え、曼荼羅などは確かにすばらしいと思いますが、これらの教えは、宇宙の真相を1500年ほど前のインドの地において、その当時の文化を媒体として伝えたものであるということを常に心に銘記しておく必要があると思うのです。

たとえば、大日如来は森羅万象すべてであり、私たちの心の本源であり、それは姿も形もありませんが、真言宗においては、“大日如来”として名前を持ち、姿、形をとっています。

しかしイスラムでは、神は本来姿、形をもつものではないので、偶像崇拝を禁じていますが、密教の本質的な教えを理解していれば、このイスラムの見解もまた正しいのです。

ただ人間は、形のないものを何もないものとして捉える事は困難なので、そこに仮に名前や姿・形を与え、それを取っ掛かりとして宇宙の真相を理解しようとしたのだと思います。

それはちょうど数学で、何もない位に0〔ゼロ〕を置いたり、代数において何かわかないけど仮にそれがあるものとして、未知数Xなどの記号を用いると非常に便利なのと同じです。

従って、空海のことば「文は糟粕(ソウハク)なり、文は瓦礫なり」も、もう少し広げて考えるなら、空海がもたらした密教の壮大な教義体系も、実は宇宙の真相を伝える、ひとつの媒体、方便であって、

その一つひとつの言葉がどうの、仏像のカタチがどうのというところにあまりに拘りすぎるのは、空海の本意から外れているのではないかと思うのです。

数学でいえば、ゼロの形は円が正しい、いや楕円だとか、xの文字は、角度が45°だとかそういうところに留まっているように思えるのです。

本当は、そういう象徴、媒体を微に入り細を穿つように研究するのではなく、象徴や媒体を利用しながら、自らの心も含めた自然現象を手本として、宇宙の真相を理解しようとするというところに本義があるように思います。

それは、神道が自然を手本にしなさいと、鎮守の森を残していたのと同じだと思うのです。

また禅では、月を悟りの象徴として用いますが、月を説明するのに、指で指し示し理解出来たら、その腕を切り落としてしまってもいいという極端な言われ方がされますが、これも同じことで、媒体である教えや形にとらわれてはいけないことを戒めているのだと思います。


空海が現代にいたら果たしてどのようなことをするだろうか、、、

と私は時に夢想するのですが、空海が現代にいたら、おそらく科学という手法をメインにしつつ、宇宙の実相、悟りの境地、そして人の幸せとは何かを彼なりの独自の方法で伝えるのではないか、とそんな気がするです。


でも媒体である仏像や曼荼羅も私は好きですけどね。



おしまいに、、、

時間のる有る方は、下の音楽を聴きながら、
マンデルブロ集合でも楽しんで行ってください。

「シフトキー」を押しながらクリックすると別画面で開きます。
「ファイルを開く」を押すとしばらくして音楽が再生されます。









おしまい。

参考:

達磨〔ウィキペディア〕
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8

真言宗〔ウィキペディア〕
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97#.E7.9C.9F.E8.A8.80.E5.85.AB.E7.A5.96.EF.BC.88.E3.81.97.E3.82.93.E3.81.94.E3.82.93.E3.81.AF.E3.81.A3.E3.81.9D.EF.BC.89

秘蔵記:
空海〔著〕弘法大師空海全集 第四巻 筑摩書房

性霊集:
空海〔著〕弘法大師空海全集 第六巻 筑摩書房


〔付録:ナムカイ・ノルブ氏の著作より〕

教えの本質とその媒体の関係について、、、

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生きものたちはあらゆる場所で、原初の境地の経験をさまたげる二元論的なあらわれの中に入りこんでしまっている。

だから悟りを得た者が、そういう生きものに、言葉や象徴なしに原初の境地を完全に伝達することは、めったになかった。

そこで、そういった悟った人々は、目の前にある文化を、何であれ伝達の手段として用いたのである。

そのため、文化と教えは、しばしば一つに織り合わされることになった。

ナムカイ・ノルブ『虹と水晶 チベット密教の瞑想修行』p.29


教えの背景にある文化について知らなければ、その本質的な意味を理解するのはむつかしい。

その意味では、ある文化について知る事は、有益だ。

けれども、教えは内的な覚醒の境地にかかわっているのであって、悟りと、それを伝える媒体になっている文化や習慣、政治・社会体制を混同してはいけない。

ナムカイ・ノルブ『ゾクチェンの教え チベットが伝承した覚醒の道』p.13

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