2008年10月10日金曜日
千里の道も一歩から 其の弐
前回に引き続き、今回は『老子』の口語訳をのせます。
-------老子道徳経第63章--------
何もしないことをわがふるまいとし、かくべつのこともないのをわが仕事とし、味のないものを味わってゆく。
小さいものを大きいとして大切にし、少ないものを多いとし慎重に扱い、怨みごとに対して恩恵でむくいる。
むつかしいことは、それがまだやさしいうちによく考え、大きなことは、それがまだ小さいうちにうまく処理する。
世界の難問題も必ずやさしいなんでもないことから起こり、世界の大事件も、必ず小さなちょっとしたことから起こるものだ。
それゆえ、聖人は決して大きなことをしたりはしない。だからこそ、その大きなことを成しとげられるのだ。
そもそも、安うけあいでは必ず信義にとぼしくなり、いいかげんな容易なことばかりしていると、必ず難儀なことが多くなる。
それゆえ、聖人でさえもなおむつかしいとすることがあって、だからこそついにむつかしいことは何もなくなるのだ。
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以下はこの章に関する解説です。
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無為の実践のありかたを具体的に示した親切な章である。
「無為を為す」とか「無為を事とする」などというのは、矛盾したことばであって、当然にもそのむつかしさが予想される。
しかし、『老子』の考える理想的な実践のありかたは、そうした矛盾と思える逆説的な言いかたでなければ、表しようがないのだ。
「無為」や「無事」は、したがって文字どおりに何もしないこと、あるいは何事もないことではない。
何もしないようにみえて、実は何もかもをなしとげており、
何事もないようにみえて、実はすべての事が備わっている、
そうしたありかたをわがふるまいとし、わが仕事としていくのである。
では、はっきりしたわざとらしい形をとらない、何かをしたという跡を残さない、そうしたやりかたで万事を処理していくのが無為の実践であるが、それはどのようにして果たされるのであろうか。
「聖人は終(つい)に大を為さず」が、その解答である。
事態が困難になり、問題が重大になれば、どうしても大きな目だったことをしなければならない。
そうなる前の小さい易しいうちに、さきの大事を見こして人の知らない手をうっていくのである。
それにはまた、ものごとに慎重でなければならない。軽率な承諾やイージーな進みかたは慎むべきである。
「聖人すらなおこれを難(かた)しとする」、むつかしいと考えて慎重な態度でのぞむのである。
-------引用終了---------
無為というのは、大きな流れにまかせるということであり、それが結局一番楽なありかただということだと思います。
それでは何もしないのかというとそうではなく、初めに方向をピシッと決めて、あとは自然に任せるということだと思います。
ちょうど種をまくのは人間の行為であるのに対して、植物がそだっていのは自然にまかせるのに似ているかと思います。
でもふつう人は、種をまいたあとももっと早く成長させよう、もっと見栄え良く育てようなどと思い、いろいろ手をかけ、不自然な努力してしまうのだろうと思います。
この老子の無為の考え方は、前に挙げた神道のこころ の著者が述べている「生かされている」という想いとも通ずると思います。
「自分でバランスを整えようとしなくても、神さまはちゃんとバランスが整うように、人間の体をしてくださる。そういう考え方です。これが生かされているという考え方です。」
結局この世界は大きな力が働いていて、その力にそって生きていけばうまくいきようになっているのだと思います。
最終的にはこの大きな力とひとつになること、そもそものはじめから大きな力のひとつであることを思い出すことが、人間がこの世で生きていることの目的なのかもしれません。
参考:
金谷治『老子』講談社学術文庫 1997
原文のスキャンしたものを見れます↓
http://cid-751b07d8b4bfc39b.skydrive.live.com/browse.aspx/%e5%85%ac%e9%96%8b/%e6%9c%ac%e3%80%94book%e3%80%95/%e8%80%81%e5%ad%90
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