今月10月からまた小麦の値段があがるというニュースを耳にしました。しかしパンは米に比べてもともと割高な食品です。しかもパンは、パンだけを食べるというのでは味気ないので、甘いもの(ジャムや蜂蜜)や油っこいもの(バターやマーガリン)、またその甘いものにつられて今度は苦いもの、水気の物(コーヒーや紅茶)が欲しくなります。ということでパンを食べるというのはどちらかというと不経済であり、かつ色々な嗜好品を引き寄せる引き金となっているように思います。
これは逆の側からもまた言えて、たとえばコーヒーを飲むと、それだけでは物足りないから、甘いもの、また乾いたものが欲しくなり、結局ケーキやクッキーなどを食べる事になります。
これに対しお米はどうかというと、水分も程よく含まれ、また味もニュートラルなので、それだけで食べても十分であり、もし加えるとしたら塩気のものが欲しいかなという感じです。そういう意味でお米というのはバランスのとれた素晴らしい食材だと思います。
かつて読んだマクロビオティックの本の中に、西洋人は主食である小麦をすりつぶして粉にし、それを加工してから食べるのに対し、日本などのお米の文化圏では米という穀物をまるのまま食べるため、それが考えの違いにもあらわれるということが述べられていました。
つまり、西洋で科学という“分化”の学問が発達したのはそのような食のあり方が一因となっており、一方、米をまるのまま食べる東洋の国ではそのような物事を全体から分けて考える発想はあまり発達せず、むしろ全体とのつながりや自然との調和を大事にしてきたと述べられていました。
なるほど、これは一理あるかもしれないと思いました。前に書いたバラモンの菜食主義 ではありませんが、やはり何世代、数千年にもわたってある同じ食習慣を続けていたら、小麦の文化圏と米の文化圏では自ずと考えの違いというのが出てくるだろうと思います。単に食べるということだけでなく、食べる前の作業というのも含めて、世代を通して刷り込まれる影響というのは相当なものだろうという気がします。
季節はすっかり秋になり、店には栗が並ぶようになりました。私が最近ハマっているのは、玄米に小豆と栗をいれて圧力鍋で炊いた、“アズキクリごはん”です。稲作が日本に伝わってきたのは弥生時代のころだと言われていますが、それ以前の縄文時代において日本人は木の実を主食として食べていたそうです。また小豆は古事記にも出てくる日本に古くからある穀物ですが、これの原産地はなんと「インド」だそうです。ということは、縄文と弥生以降の日本人が食べてきたもの、それに私の好きなインドからの穀物が合わさったものが“アズキクリご飯”だったのです。
目の前の茶碗を眺めながら、時にこんな悠久の昔に思いを馳せる今日この頃なのでした。
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