2008年10月14日火曜日

千里の道も一歩から 其の参



大きなことも足元の一歩から始まるというのは確かに真実ですが、それと同時に大事なのは、

いまここにすでにゴールがある

という考え方だと思います。


私が好きなゲーテの言葉に次のようなものがあります。

いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。

(エッケルマン『ゲーテとの対話』より)


特に精神的な教えを実践していく過程で大事なのはこの発想、すなわちすでに

いまここに完全なる悟りの境地がある

という視点だと思います。これは顕教的な考え方と密教的な考え方の違いということもできます。


つまり、いまは不完全だけど修行を積み重ねていくことによっていつか完全になるという顕教の考え方に対して、

すべては大いなるものの顕れであるのだから、努力してどこかに達するというのではなく、自分が完全なる境地の中にすでにあるという感覚(密教的観点)をもって毎日を送っていくということです。

たとえるなら、宇宙に行きたいと思って様々な段階を踏んで地球から飛び立とうというのが顕教的な発想であるとするなら、

密教では地球自体すでに宇宙の一部であるという考えに基づいているといえるかもしれません。


したがって自分はすでにゴールである宇宙にいるという感覚を持ちつつも、この現実界で一歩一歩あゆんでいくという両方の感覚をもって生きていくことが肝要なのかもしれません。


時に思うのですが、私たちはある意味近視なのだと思います。

目の前にあることに焦点を合わせることに慣れ過ぎてしまって、遠くのものに焦点を合わせられなくなっているという状態です。

あるいは一種の健忘症といえるかもしれません。

仏陀やキリストなどの聖人といわれる人たちは、特別なことを悟った、感得したというより、我々のあるがままの本質を思い出した人といえるような気がします。


数日前から庭の金木犀が満開となりました。



金木犀のこの独特の甘い香りを嗅ぐと天国にいるかのようなやさしい気持ちになります。


私は外でふと花を見かけたりすると、その完全さとともに聖書にあるキリストのことばを思い出します。

老子も仏陀もキリストもおそらく同じような境地に至っていたのだろうという気がするのです。


野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

〔ルカ12-27〕





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