今回は「ザ・カップ」に関する私なりの考察を書いてみることにします。
これを読むと完全にストーリーが分かってしまうので、これから映画を見ようと思っている人は読まないでくださいね。。。
テーマ① なぜワールドカップを見ることを許されたか
小僧たちは夜、寺を抜け出してまで、テレビのサッカー中継を見に行くのですが、先生の僧侶に見つかってしまいます。
しかしどうしてもワールドカップの決勝が見たい彼らは、先生を通じてお寺でサッカーの試合を見せてもらえないか僧院長に掛け合いに行きます。
その結果、なぜか僧院長は特別な条件もつけずに彼らにOKを出すのです。
これはなぜなのだろう?
この場面、見ている人たちにとっては、きっとなんか厳しい交換条件が言い渡されるに違いないと期待しながら見ているところなのですが、
なにもなくて、肩すかしを食ってしまうところでもあるのです。
私の意見ですが、おそらく僧院長は、小僧たちに自分たちのしたいことをさせ、
それを通じてなにかを学ぶだろうと感じたから許可したのではないかと思うのです。
お寺にテレビはないため、ワールドカップの決勝戦を見るためには、お金を集め、テレビを借り、アンテナを設置し、としなければならないことがたくさんあります。
僧院長はそのようなプロセスも、僧侶としての修行のひとつの題材になるととらえたのではないかと思われるのです。
現に、やんちゃで誰に対しても態度の大きかったワンパク小僧は、このイベントを通じて思いやりの心を学ばされることになるのです。
また僧院長と先生の僧侶も、僧たちがワールドカップを見てはしゃいでいるところに部屋を訪ね、
一緒にテレビでサッカーの試合を観戦しているのです。
これは自分たちが知らないことに対しても、(先生の僧侶はサッカーが好きなようでしたが)、
頭ごなしに否定するのではなく、何が彼らをそこまで惹き付けているのか、自分も知っておこうとする謙虚な姿勢があるように感じられました。
つまり生活のコマゴマとした状況、題材が変わっても人の根本のところは同じなのだから、
自分の知らないサッカーの試合というものを見ておくのも悪くないだろうという判断があったのではないかと推測されるのです。
これらのことから、この映画の大きなテーマのひとつは、
生活のあらゆることが修行である
ということになろうかと思います。
テーマ② とらわれ
じつは映画に登場する人物は、それぞれがなにかにとらわれているのです。
小僧はサッカーが好きで好きでたまらない
勤行中でもどこでも、いつも寝ている僧侶
時計を渡した新米小僧は、形見の時計に執着している
僧院長でさえも、チベットに帰ることに執着している
そんななかで、執着がなくいつもマイペースでいる人がいました。
それはいつも飄々としているヨーガ行者です。
この映画の主張のひとつは、誰でもが何かしらの執着をもっているということ、
そして、その執着を手掛かりに、自分を成長させていけばいいということが暗に示されているような気がします。
密教には、
煩悩即菩提
という言葉があります。
災い転じて福となすということばと似ているかもしれませんが、
悩みや苦しみがあるからこそ、悟りに至れるのだということです。
キリスト教でも、いままで躓いてきた石を踏み台へと変えて登っていくという表現があるようですが、同じ意味だと思います。
「とらわれ」という意味では、
僧がワールドカップという「戦い」をテレビで見るなど僧侶のすべきことではない、とするのが普通ですが、
僧院長は頭から否定することなく、坊主たちのしたいようにさせました。
これは、カタにとらわれていないといえるかもしれません。
また、テレビとともにアンテナを借りたときに、
お金が足りなかったので自分たちでアンテナを設置しなければならなかったのですが、
店主にアンテナの向きはどちらかと聞くと、アンテナは北だといわれます。
しかし実際に色々試してみると、アンテナの向きは南が正しかったということがわかるのです。
ここから、その道に熟達したものが正しいとしたものも頭から妄信せず、
自分たちで色々と確かめてみることの大切さを説いているような気がするのです。
したがってこの映画の二つ目の主題は、
カタにとらわれない
ということがあるように思われました。
テーマ③ 変化
これは、カタにとらわれないということとも関係するのですが、
まずチベット人がインドに亡命して生活しているという点で、彼らにとってはそもそも大きな変化であるのですが、
そん中でも彼らはチベットと同じような僧院での修行を続けています。
ここには、守るべきものと、周りの状況に応じて変化させていかなければならないことがあることを示しているように思われます。
それを象徴的にあらしているのが、コカコーラの缶を仏さんの供養の道具として利用しているヨーガ行者のシーンです。
また最後のシーンでワンパク小僧がもっている風車も、変わるもの(回転する羽)と変わらないもの(軸)を象徴的に表しているように思いました。
ストーリー全体を通じて、周りの状況は変化していくが、チベットの文化の真髄は継承されていくというのがテーマにあったように思います。
チベット人がインドで生活し、僧侶がテレビを見、サッカーに興じ、自転車に乗ったり、トラクターに乗ったりと、
昔とは変わったであろうことがたくさんでてきました。
つまり、この映画の三つ目のテーマは
変化するものと変化しないものがある
ということであったように思います。
では最後に、「ザ・カップ」とはなんだったのでしょう?
「カップ」はサッカーの試合に勝利したチームが得るものです。
今までに考察してきたことを総合して考えると、
カップとはそれぞれがもっている課題(煩悩・執着)に勝利したときに得られる何かを象徴しているのではないかという気がします。
つまりそれぞれの人が、その生活状況の中にもっている課題を克服したときに、
サッカーの優勝カップに相当するような何かしらすばらしいものを得るというのがこの映画の主題だったのではないか、、という気がするのです。
映画の中では、様々な場面でそれとなくカップ(コップ)が登場します。
僧院長にとって、カップは単なるカップ(飲むための道具)に過ぎず、
なんでそんなもののためにわざわざ戦い(試合)をするんだ?とワールドカップの説明を聞いたときに思ったようでした。
ヨーガ行者が寺の調理場にカップをもっていき、お湯をくれ、と頼んだ場面も、
彼らにとってのカップとは単に飲みものを受けるための道具でしかないということを描いていたのかもしれません。
しかしそれぞれがもつ課題に勝利したときに得られる喜びというのは、その当人にしか実感し得ないもので、部外者にとっては価値のないものに映るものなのかもしれません。
したがってカップとは、
他の人には取るに足らないものに見えるかもしれないが、
それぞれが自らの課題に勝利したときに、かけがえのない素晴らしいものを得るのだ
ということをあらわしているように思います。
本当の勝利とは何か、これに関しては映画の一番最後に述べられるのですが、
それは次回に譲りたいと思います。
おしまい
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