昆虫などを見ていると、彼らは自ら考えて行動しているのか、
それとも単なる刺激に対する反射なのか、
どちらなのだろうと思うことがあります。
おそらく下等な動物になるほど反射の要素が強く、
人間の方に行くに従って、自由意思によって判断し行動しているものと思われます。
生命とはいったいなんなのでしょう?
生命と非生命を区別するのは実は意外と難しくて、
そのボーダーあたりには、生命とも非生命ともいえないものがたくさん存在しています。
思うに、生命というのは濃度みたいなもので、
ある意味ではすべては生命に満ち溢れているといえるのかもしれません。
インドの言葉に次のようなものがあります。
神は鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、
動物の中で歩きまわり、人の中で思考する、、、
こう見てみると、思考するというのは人間を人間たらしめている特徴なのかもしれません。
しかし人間も、自分自身を観察しているよくわかるのですが、ちゃんと考えているようでいて、
実は外的なイベントに対してかなり昆虫のような反射的な想念パターンで反応していることに気づくことがあります。
たとえば、前回書いたような、戦争の悲劇に対しては、悲しいという思いで無条件に反応し、
他のイベントに対しては、また別の型にはまった想念パターンで反応しています。
私が自らの想念パターンにとらわれていることに気づいたのは、
久しぶりにチベット語を学んでいたインドのダラムサーラ(Dharamsala)を訪れたときでした。
かつて訪れたときとは町の様子がだいぶ変わり、
友達になった同年代のチベット人の友人たちは、みなヨーロッパやアメリカに行ってしまって誰一人会うことはできませんでした。
あー、私がいない間にすっかりかわってしまったなぁ~
私はダラムサーラの坂道を登りながら、気が滅入ってきて、足取りが急に重く感じられました。
しかしそこで思ったのです。
変化するって悲しいことばかりか?なんでそんな落ち込む必要があるんだ?
変化するって有難いことでもあるのではないのか、変化するって楽しいこともあるではないか、、
と。
なぜ変わってしまったこと=悲しい、さびしいことと思う必要があるのか。
私はそこでかつて自分の師僧にいわれたことばを思い出しました。
どんな酷いこと、悲惨なことがあったとしても、まず
「あるがまますべてよし」
と言ってみるんだ。そうすると別の視点が見えてくる、、、と。
日本の真言密教において、森羅万象すべては大日如来のあらわれととらえますが、
このような尊格(ほとけさん)を専門用語では法身(ホッシン)といいます。
チベット仏教における法身は、普賢(サーマンタバドラ)で、
チベット語ではクンツサンポ、あるがまますべてよし、という意味です。
つまりあらゆる現象を「あるがまますべてよし」と観る視点は、如来の視点、悟りの視点なのです。
あれはいい、これはダメ、という心の作用は分別といいますが、仏教における目標は無分別の境地、
すなわち、究極的にはすべては「あるがまますべてよし」なのであります。
ダラムサーラの町の変化に対して、私は悲しい、寂しいという反射的な想念パターンで反応し、
その結果自らの気分をブルーに落ち込ませましたが、
同じ外的な現象に対しても「あるがまますべてよし」という反応の仕方もあるのです。
そのことに気づいた私は、心の中で
「あるがまますべてよし」「あるがまますべてよし」
と心の中でいってみました。
すると町の変化、友人がここにいないことに対するポジティヴな側面が見えてきて、
必ずしも悲しいばかりではないなぁ、と明るい気持ちになり、視野が広がった気がしたのです。
そうか、日常のあらゆる場面で、私は似たような決まりきった反応の仕方をして、自らを限定していたのかもしれないなぁと気づくようになりました。
心の中で「あるがまますべてよし」といってみると、
それまでに気付かなかった物事の両面が見えるようになります。
あらゆることには必ず両面があります。
いいことばかり、悪いことばかりということはなくて、ものごとには必ず両面をもっています。
たとえば、病気になって熱がでるのは苦しくて嫌なものですが、これは実はとてもありがたいことなのです。
熱がでるのは生体の酵素の活動がもっとも働けるような最適温度に体をもっていって、
病原菌を退治するためであるので、熱が出ること自体は人体にとってはプラスなのであります(高すぎると脳細胞がダメージを受けますが)。
また病気になること自体も、つらいことではありますが、それによって体の免疫機能がアップするという作用があります。
このように、一見悪いことのように思うる事でも、必ずそこにはポジティヴな面があるのです。
だから、とりあえず「あるがまますべてよし」といってみると、今まで焦点をあててこなかった、そのものごとに関するポジティヴな側面が見えてくるのです。
そういうことに気づきだすと、一見いやなことに思えることも、それもいいことなのかもしれない、それも必要なことなのかもしれない、と思えるようになるのです。
先日のラジオ英会話「5分間トレーニング」の今日のメッセージで、
Mistakes are part of learning.
ということを言っていました。
とてもいい言葉だなぁと思いました。
一見間違っているように思える事も、大きな視点からみると、それもまたよしということになのだと思います。
人は、ある感情に浸りたいがために、外的な事柄を無意識のうちにひきよせるということがあるようです。
昔、アニメの銀河鉄道999の中で次のような話がありました。
ある惑星の住人は、永遠の命を得てしまって、人が死ななくなったために悲しむということがなくなったので、
その惑星に来た旅行者を殺して、葬式をして悲しみを味わう、、というものでした。
アニメだとへんてこな惑星だなぁと思うだけですが、これに近いことを人はかなり頻繁にやっているのかもしれない、、と思うことがあります。
心理療法の世界では、たとえば人がトラウマになるのは、何か原因となるイベントがあって、それによってトラウマになるという見方のほかに、
人がトラウマの状態になるために、外的なストーリを利用しているのではないかという説がありますが、この発想の転換は卓見であるように思います。
少し論点がずれましたが、
自分が浸りたいとおもっている感情のために、本当はもっと選択の余地があるのにもかかわらず、
自らをせまく規定するような反応の仕方をしてしまっていることがあるのではないか、と思うのです。
そのとらわれに気づくために、あらゆる場面において「あるがまますべてよし」と言ってみるのがかなり有効なのではないかと思うのです。
前に何かのこばなしで、「ありがたや八兵衛」だったか、そんな登場人物の話しを耳にしたことがあります。
この人は、とにかく何があっても、「有難い、有難い」というのだそうで、それによって何か面白いはなしが展開していったように思うのですが、詳細は忘れました。
このありがたや八兵衛のように「あるがまますべてよし」という代わりに、どんなことに対しても
「有難い、有難い」
ととりあえず言ってみるのもいいなぁと思うのです。私がやると「有難や彦兵衛」ですね。
スピリチュアルな世界には、波長の法則というのがあり、
同じような波長のもの同士は引き合うのだそうです。
だからいつも悲しい想いにとらわれている人がいたら、やはりそういう人同士が集まりやすいし、
また明るい人には、明るい人が集まってくるということが起こるそうなのです。
伊勢ー白山 道さん
が言うには、霊の世界にはより強烈に波長の法則が働いているので、神社などでも願かけなどはしない方がいいとアドバイスしています。
つまり、何かをしてください、してください、という想念は、そういう何かをして欲しいという存在をひきつけるのに対して、
ただ生きていること、生かされていることに感謝するだけにすると、そのように何かを与えようとする存在と引き合うのだそうです。
これは私たちが思っているのと逆で面白いなぁと思うのですが、向こうの世界はこのような力が働いているようです。
だから、あらゆることに対して「有難い、有難い」と思ってみることは、楽しい人生を送る上で肝要なポイントなのかもしれません。
ただしあまり口に出すのではなく、心の中に留めておくのがいいかなと思います。
人が死んだところで、「有難い、有難い」では皆さんに白い目で見られてしまいますからね。。。
でもたぶん人が死ぬのも、そんなに「不幸」なことでもないかなと私は思います。
誕生のときには、あなたが泣き、
全世界は喜びに沸く。
死ぬときには、全世界が泣き、
あなたは喜びにあふれる。
『三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界 』
中沢新一 角川書店 p.159より
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