2009年8月16日日曜日

祭りの本質



文化人類学の本などを読むと、祭りの本質とは、価値の転倒にあるそうです。

日常生活の中には、倹約して生活しなければならない、怪我しないように気をつけなければならない、

無闇に大声を出してはならない、人前で裸になってはいけない、食べ物を粗末に扱ってはいけない、、、など諸々のルールがありますが、

祭りというのは、そのような日常生活の中で押し殺されてきた欲求が表現を許される時間と空間なのだそうです。


日本の夏祭りで、屋台で普段買わないものを買ったり、裸に近い恰好で神輿をかついで大声を出したり、水や泥をかけたり、

イタリアではトマトをなげあったり、

欧米でクリスマスの時期に普段しない寄付をしたり、バラバラに離れていた家族が集まったり、ハロウィンで悪魔的な仮装をしたりなど、

お祭りでは非日常の空間が出現します。

お祭りというのはこのようにある種の異常なエネルギーが噴出する場であり、

逆に言うと、価値が転倒していない場はお祭りとはいえないのです。

お祭りでたまに人が死にますが、それこそお祭りの本質なのであり、そのように命を粗末にすることはある程度許容されることなのです。

前に書いた諏訪御柱の祭りだって、日常の価値観で考えたら馬鹿げていますが、これこそお祭りなのです↓

御柱祭(Onbashira Festival)



こうしてみると、お祭りというのは、ある決まった日だけにあるわけでなく、ふつうの日の中にも、

日常、一般の価値が逆転した場としてのお祭り的な場があるように思います。

たとえばパチンコや競馬などのギャンブルの夜の盛り場なども、価値が逆転したある種のお祭り的な場であるといえるでしょう。


お祭りの本質とは価値が転倒する場であるので、その事を心の隅におき、健康や命、財産を失わないように注意しなければならない場でもあると思います。


何年か前にどこかで花火大会があり、その帰り道に歩道橋の中で人が詰まって死者が出ると言う事故がありました。

花火大会も祭りの一種であり、大げさではありますが見に行く人はやはりどこかで命を賭けて見に行くというぐらいの覚悟が必要だと私は思います。

あのニュースをみていると、誘導している警備員が悪い、警察が悪いということをしきりにいっていましたが、

私は責任の半分は当然参加者にあったと思います。

まず祭りに参加したという時点で、いつもとは違う危険を覚悟する必要があり、

帰り道でそのような群衆が集まってきている歩道橋に、自ら入っていったということは、半分は本人に責任があったと思います。

人がうまく誘導してくれなかったから事故になったというのは、言葉は悪いのですが家畜的な発想だと私は感じました。

羊や牛ならそういう権利がありますが、人間自らがそのような危険な場に歩を進めたということは、やはり半分は自分の責任であろうと私は思います。


私は、安心と安全は別だと思っています。

ついみんなと同じ事をやっていると安心しがちですが、それが安全だとは限らないのです。

これは人生のあらゆる場面に言える事で、だから常に個人の理性を働かして、その場その場で判断しなければならず、

時には安全のために、安易な安心に流されない勇気を持つ必要があると思います。


祭りの空間というのは、日常とは反転した価値が支配する場なので、

そこに参加する人は、常にどこかでそのことを心に留めておく必要があり、

そこに参加するのは、最終的には自己責任だろうと私は思うのです。







でも、祭りって見ているだけで、こちらもワクワクしてきていいなぁ~、と思います。

一年に何回かは、命を賭して(?)お祭りに参加するのって心の健康に必要なことなのかもしれないと思うのです。


おしまい




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