2009年8月21日金曜日
適正速度
世界陸上で、連日のようにウサイン・ボルト選手がワールドレコードを叩き出し、世界を驚かせています。
あの100m、200mの他を寄せ付けない圧倒的な速さは、とても同じ人類とは思えず、見ていてスカッとします。
ボルト選手の最高時速は40キロほどにもなるそうで、原付バイクならキップを切られる速度です。
しかし私が見ていて思うのは、社会があまりに頂点という一点に焦点を合わせ過ぎなのではないかという事です。
確かに世界で一番速いのは誰かを競うのは、とても興味をそそられることではあります。
しかし大半のひとにとって、あのようなスピードを追求する走りは必要なのかと問われれば、答えはノーです。
人類の99.9%以上の人にとって必要な運動は、如何に速く走るかではなく、
健康維持のため、死ぬまで寝たきりにならないために良い走り方であり、
それを生涯続けられるような自分にあった走り方、運動の仕方です。
学校でも運動といったら、すぐに競争やタイムを縮める事に焦点が行きがちですが、
あれは明治以来の富国強兵の思想の名残です。
あのような運動を教えていると、速いこと、他を出し抜く事がいいことだということを暗に教育しているようなものです。
しかし学校でこれから教える運動には、
大人になってからでもコンスタントに続けられ、死ぬまで寝たきりにならない、
健康を維持するための運動もあってしかるべきだと思うのです。
今の教育で教えられている運動は、その時にいい結果を出すためのもので、そのために無理して、逆に生涯にわたる故障を抱える事にもなっています。
長距離走にしても、如何に速く走るかではなく、ガッテンのスロージョギングのように、
エネルギー効率がよく、気持のいい走り方とは如何なるものか、そのようなフォームとはどのようなものか、
というところに焦点をあてた運動の教育があってもいいと思うのです。
10代、20代という人生のごく限られた一時期にのみ通用する運動を教えるのではなく、
人間は死ぬまで与えられた体と付き合い、それをメンテナンスしていかなければならないのだから、
そのメンテナンスに有効な各自で続けられる運動というものを教える体育があっていいと思うのです。
私たちは、100mという距離を全力で走ることも出来れば、鼻歌を歌いながら、景色を楽しみながら、たらたらと走ることもできます。
全力で走りきれば確かに速いですが、そんな走りは到底続かないし、また高い確率で体に故障を起こします。
しかし、鼻歌が歌えるぐらいの速度で走っても、いずれゴールに到着するし、
そのペースを体得すれば、いくらでも遠くまで無理なく行けるし、また過程自体を楽しむ事が出来ます。
いまの社会は、どことなく100mを全力に近い速度で走る、走らせるようなことを無自覚にやっているように思えます。
とにかく速いこと、他者に勝ることに価値があるという想いが、社会の根底にあるように感じます。
しかし一方で、そのひずみとしての過労死や自殺、アルコール中毒や薬物依存があるように思うのです。
このブログで紹介したかんてんぱぱの会長の塚越氏は、会社の成長にも適正速度があり、速すぎるのはダメだといっています。
速さを追求した不自然な成長は、社会に様々な害悪をまき散らすことにもなり、
また結局はその速さがあだとなって自身を滅ぼすことにもつながりえます。
私はガッテンでやっていた、小幅で音をたてないジョギングというものをやってみて、
コリャ楽でイイワイと実感したのですが、
走りながら、どうして学校ではこういうことを教えないのだろう、、、と思ったのです。
運動も社会も、もっとゆっくりでいいんじゃない、、、と思うのであります。
おしまい
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