彼女は自閉症だったため、人と目を合わせない、触られるのを極度に嫌う、人のいった言葉を何度も繰り返すなど、
言動がふつうのこどもと違ったため、幼少期より母親からことばや肉体による虐待をずっと受け続けていたそうです。
バカだ、キチガイだと罵られ、壁に血が出るほど頭を叩きつけられこともあったそうです。
しかしそのような虐待の描写も、自閉症であった彼女にすると極めて無機的な体験で、肉体的な暴力によって自らが傷つくことはなかったのだそうです。
彼女が「あとがき」で書いているのですが、このような本がでるほど彼女が自分を客観化できるようになったのは、実は母親の虐待があったからだそうです。
様々な虐待によって、彼女は自らを防衛するために自分の中に、様々なキャラクターをつくり、場面によって演じ分けるようなことをするのですが、
そのような強いキャラクターたちが育っていったおかげで、自分が強くたくましくなれたのだそうで、
逆に障害に理解のあるやさしい親だったら、ここまで自分を奮い立たせて成長できなかったと述べています。
しかし本人が述べているように、これは極めてまれな例で、自閉症児にはちゃんと理解のある適切な接し方をすべきであると付け加えていました。
本の最後の方で、彼女が自閉症児の子らの集いに誘われる話が描かれているのですが、
自閉症の小さな女の子に対して、「専門家」といわれる人が、子どもと同じようにヒステリックになって注意し、むやみに人形を与えて、静かにさせようとしているシーンがありました。
彼女はそれを見て、自分がやるから、と自らの経験に基づいた自閉症児にあわせた接し方をするのですが、
そうすると子どもは次第に落ち着いてきて、自分で自分をコントロールできるようになっていくのです。
このシーンはとても感動的でした。
と同時に、ふつうの人にはまず無理だと感じました。何をどのように気をつけるべきかということが、自閉症の体験を知らない人にはおよそ見当もつかないようなことなのです。
本の他のシーンで、自閉症児が書いた絵を「専門家」がまったく見当違いの解説しているものを読んで、彼女が笑ってしまったということが書いてあるのですが、
自閉症をもつひとの意識の世界は、常人には想像もつかない世界のようです。
そのような体験を理解できていない人が、自分の価値観にもとづいて自閉症の人に何かをしてあげる、というのは極力避けるべきだということを痛切に感じました。
たとえば、先の人形を与えるというのも、ふつうの子どもなら落ち着くだろうと親切心に基づいてなせれるわけですが、
人と接することに極度の恐怖を感じる自閉症児にとって、人形は恐怖の対象そのものらしいのです。
また、直接語りかけるのではなく、物を通して間接的にコミュニケーションをとると、パニックになることなく落ち着くのだそうで、通常の理解をまったく超えています。
自閉症というのはとても極端な意識のありようですが、私たちはだれも、多かれ、少なかれ、みな違うし、異なった価値観、感じ方をしています。
ということは、自閉症児ならずとも、自分が正しいと思っていることを単に押し付けるのではなく、
まずは相手を理解し、なるべくあるがままその人を理解しようとする態度が大事なのかな、と感じました。
彼女が体験してきた中で、凄いな、と思わせる描写が何箇所かありました。
それは彼女の心霊能力とでもいうのでしょうか、そのような能力をたびたび発揮している場面です。
友人の家に遊びに行ったときに、あるおじいさんの姿が見えるのですが、それは彼女にしか見えないのです。
容貌を説明すると、どうも会ったこともないその友人のおじいさんであるらしいのです。
その体験の三日後に、遠くに住んでいたそのおじいさんは亡くなるのです。
また夜寝ているときに、クラスメートがその時間に何をやっているのか詳細なイメージを見て、
翌日クラスでこのようなことをやっていたのではないかと聞くと、まったくその通りだったというようなことがあったそうです。
大きくなってからも、見たこともない男女と一緒にくらしているシーンを夢でみて、
それが何年後かに、家から部屋の様子から人物に至るまでまったく同じであることに気づく体験をしたと述べています。
彼女はあとがきで、自閉症というのは、修行者が高度な黙想をしている状態に近いのではないかということを述べているのがとても印象的でした。
そのような意識の状態とともに、彼女の場合は、虐待などから、常に現実から乖離した状態にあり、
またこの肉体から出れたらという想いが強かったため、よりそのような能力を発揮したのではないか、と感じました。
最後に、感情の起伏が激しく、不安定な性格だった彼女が、自らの食物アレルギーのために食事を改善し、
その結果、彼女の性格もが変わってしまったという個所を引用しておきます。
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最初のクリニックでは、一連のブラインド・テストの結果、私には牛肉以外のあらゆる肉と、乳製品と卵と大豆製品と、じゃがいもとトマトととうもろこしにアレルギーが出ることがわかった。また六時間に及ぶ血糖検査も受け、深刻な低血糖症であることもわかった。
<中略>
わたしは、糖尿病用の食事をとらなければならないことになった。それまでは相当に糖分の多い生活をしていたようだ。そして三日間砂糖なしの食事をしていたために、激しい禁断症状に見舞われた。
<中略>
それから一年間、わたしは食事療法を続けた。そしてたんぱく質をはじめ、自分がアレルギーを起こす要素を含む食品を避け続けた。わたしが口にできるものといえば、そのほとんどすべてが、穀類を中心とした手作りのものだった。
食事療法を始めてから最初の数週間で、私が働いていた店の主人は、すっかり目を丸くした。わたしはお客さんたちに向かっておだやかに、辛抱強く話すようになっていた。
たとえ、お客たちの方がいらいらしているような時でもだ。急激に気分が変わることもなくなり、それとともに、人とうまくやっていくことができるようになったのだ。
時として浮かれて騒がしく、攻撃的にさえなっていたわたしが、はるかに物静かになり、温和ではにかみがちな人間になった。
しかしそれでも、私の心の奥深くの情緒的な不安定とそこから起こる社会的なコミュニケーションの問題は、まだ、消えはしなかった。
わたしはおだやかで静かな人間になった。そして、そんな新しい自分にとまどった。まるで履き慣れない新しい靴に、足を入れたような気分だった。
p.211-213
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エドガー・ケイシーは、人は食と思考によって作られる、ということを述べていますが、
マクロビオティク にしろ、ルドルフ・シュタイナーにしろ、様々な精神的な指導者は、食と人間の心の関係を説いています。
ふつう食事といったら、栄養があるか、美味しいかどうかという観点だけで考えがちですが、
食が自らの心をも支配している可能性を考慮した上で、何を食べるかを決めるべきなのではないかと思うのです。
(だいぶ前にインドで活躍する日本人チベット医の食に関する話(バラモンの菜食主義)を載せましたが、興味のある方はもう一度その箇所も読んでみてください。)
彼女の記述を読むと、やはり食と心のありようというのは密接な関係にあるのだろうことを強く感じます。
麻薬のような作用をもつ精製した白砂糖や、肉、乳製品の摂取は、健康な人においてもよく考えてみる必要があると私は思います。
また体に不調や病気がある人、心が不安定、あるいは彼女のように心に障害のある人たちには、食事療法も含めた全人的なアプローチが大切なのだろうと強く思います。
実際、彼女はこの食事の変化が一つの要因となって、自らのウチにつくった様々なキャラクターたちと折り合いをつけ、次第に感情をコントロールできるようになっていくのです。
さて、この本は彼女がヨーロッパに渡り、ロンドンで精神科医に自らの体験をつづったものを渡し、
それを出版することを薦められるところで終わっているのですが、(それが本書)
この本には続編がふたつあるようです。
ドナ・ウィリアムズの本
幸い市内の図書館には続編の二冊はあるようなので、順次借りていってみようと思っています。
光の速さにおける時間の進み方、極微な世界における素粒子の振る舞い、
そのような日常とはかけ離れた世界での出来ごとを知り、
そこで起こる「異常」な現象を日常の延長としてとらえる事が出来た時、人間の智が深まっていくわけですが、
人間の精神に関しても、それを真に理解しようとするには、やはり違うもの、「異常」なものが必要であり、
その「異常」なものを正常な心の機能の延長としてとらえることができたとき、私たちは自らの心をよりよく知ることができるのだと思います。
そういう意味で、自閉症のひとの意識の世界をつづった彼女の本は研究者のみならず、
私たち一人ひとりにとてっても、極めて教育的な価値をもったものであると私は思います。
続編の中で、彼女がどのように成長していくのか、また現実とどのように折り合いをつけていくようになるのか、これから読み進めていくのが楽しみであります。
おしまい
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