2008年8月11日月曜日

慣性の法則

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私はよく船井幸雄氏のHPを読ませて頂いてますが、
今回の老荘思想の引用に関しては色々と思う事があり、調べてみたりもしたのでここに取り上げてみたいと思います。

船井幸雄のいま知らせたいこと (2008年8月11)
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200808004
 

今回のテーマは、「なぜ分かり易く、実行し易いことなのに多くの人は実践しないのか」というものでした。
(道徳経第70章
「吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。天下能(よ)く知ること莫(な)く、能く行うこと莫し」)

私もこれに関しては常々考えてきました。 そして今のところの私の結論は、人間にも物質と同じように     

"慣性の法則"

が働いているということです。

多くの人は、今まで続けてきた事が"さしあたって"大きな支障を生んでいないなら、その同じ行動を続けるように思います。

そして物質がその方向や速度を変えるのに外部からのエネルギーを必要とするように、人間にもそのようなエネルギーが必要であり、それはおそらく悲しみや苦痛といったものに相当するのではないかと思います。つまり悲しいことに、ひとは痛い目にあってはじめてその行動様式を変えるのだと思います。

そういえば慣性って英語でなんと言うのだろうかと気になり、この機会に調べてみました。
英語で慣性の法則は

the law of inertia

というらしいです。このinertiaは、物理においては「慣性」を意味しますが、一番目の意味は「惰性、不活発、ものぐさ」で、医学用語としては「無力症」として使われているようです。

またそのもとのinertという英語の意味も、activeの反意語で「自力で運動できない」という意味で、化学の用語で不活性(inert gases:不活性ガス)、薬学の用語で「薬理作用を示さない」というときに使うようで、いずれも活発でない状態を意味しています。

さらにこのinertの語源を探ると、ラテン語の

iners(in否定 + ars(art)技術=技術がない→自ら動く力が無い)

という意味から来ているようで、これはとても示唆に富んでいると思います。

つまり、この技術というものをより広い意味での「生きていく上での技術」としてみるなら、技術のない人は自ら積極的に動かず、良い事を耳にしても同じ生活習慣を続け、

技術、つまり生きていく上での術(スヘ゛)、コツみたいなものをうまくつかんでいる人というのは、良い事を聞くことによってその生き方を修正していき、結果として痛い目にもあわずに済むのではないかというように思うのです。

さしあたって大きな支障がなくても良いと言われることがあったら、まず自分の生活のなかに取り入れ、確かめてみる。そして効果があると体感できたものについては、それを自らの習慣として取り入れていく。このような態度を常に持ち続けていきたいものだ、と今回認識を新たにしました。

しかし幾ら自らに良いと納得できたものでも、人がそれをやらないことを責めてははならないと思います。基本的にひとは

   この地上に体験を積むために生まれてくる

と思うので、それぞれの自由意志、それぞれの選択というものを尊重する必要があると思うのです。良い事を知るのに、敢えて反対の悪い事を体験してみるというのもとても大事な学びだと思うのです。

最終的には、あるがまますべてよし、ということになるのでしょうか。

今回の老子の引用はとても勉強になりました。
私も老子と荘子は原文を一通り読みましたが、内容がだいぶ抜け落ちてしまっているように感じます。
というより、読んだ当時に心に響いたもの、読んだ当時のレベルに応じたものしか印象に残らないものなのかもしれません。


私は自然のなかにいくたびに思い出す老子の一節があります。

天地は無為にしてしかも成さざる無きなり
(自然は敢えて何もしないのに、すべてを育んでいる)

うーん、いいことばだなぁ、とつくづく思うのであります。

参考:
船井幸雄のいま知らせたいこと (2008年8月11)
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200808004
 

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