2008年8月28日木曜日

あるがままということ

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アフガニスタンでの日本人スタッフの誘拐は、たいへん残念な結果になりました。しかしどんな悲惨なことが起き、どんな悲しい事態になったとしても、常に悪い想念を抱かないようにすることは極めて大切なことだと思います。それは憎しみの連鎖を作らないということであるとともに、自らの為でもあるのです。

私はかつて僧侶であったときに師僧にこういわれたことがあります。

「どんなひどいと思われることがあっても、まず「あるがまますべてよし」と言ってみるんですよ。」

と。私が学んだ真言宗では森羅万象、すべてのものは「大日如来」のあらわれととらえます。したがって大局的にみると、日常的な身の回りに起こるすべてのこともまた大日如来のあらわれでなのであります。

確かに、悲惨な事件などをニュースで見た時などに、犯人に対して悪態をついたりする前に「あるがまますべてよし」と言ってみると、いままでとは違った視点があることに気づかされます。

つまり、ものごとには必ず両面があるということ。どんなに救いようのないと思われる出来事に関しても、必ずそこには社会やそれに関わった人たちが向上していくことのできるプラスの面があるということです。そういう意味ではすべてのことに無駄はなく、すべての出来事に意味があるのだと思います。

よくこの地球は魂が体験を通じて学ぶための学校であるといわれます。自らアクティヴに何かを体験することで、作用、反作用の影響を学び、我々は一歩一歩自らを向上させていくということです。

そういう意味では、加害者の人たちもまた同じく学ぶ生徒であり、被害者もただ無駄に亡くなってしまったのではないと思うのです。

ケイシーのリーディングには次のようなものがあります。

何もしないより、何か行動して失敗するほうがよい。262-126

自分の理想は何であるかを知りなさい。そしてそれを実行しなさい。何もしないよりは悪いことでもした方がましである。

かなり過激なことばではありますが、体験すること自体にこの地球に生まれてきた意味がある、ということなのだと思います。


またもうひとつ「あるがまますべてよし」と言ってみることのメリットは、自らの想念を落としこまないという点にあります。

魂には「波長の法則」というのがあるといわれます。類は類を呼ぶ、朱に交われば赤くなるというものです。怒りや憎しみなどを心に抱いていれば、そういうものを自らに引き寄せ、また自らの体も蝕み、そして何より自らの魂をそういう境地におとしめてしまうということです。

私はインドを旅しているときに、友達になったイスラムの人に次のように言われました。

「イスラム教では、いま生きているというのはテストなんだ。いつも神に試されているんだ。だから、それをちゃんと理解している人は悪いことなんてできないよ」

と。彼はイスラムの教義を自分たちの都合のいいように解釈し暴力に訴えるような事態を悲しんでいました。

私たちの前には常に選択枝が用意されているといえます。向上か、下降かの道です。自分たちの目にひどいと映る体験に対しても、それに対してどういう反応を示すか、私たちは常に選択を迫られているのだと思います。キリストのことばをかりるなら、一方が「天に富をつむ」こと、魂の向上であり、もう一方が「地に財を築く」こと、すなわち地上に縛られることにあたるのかもしれません。

今回の事件に関して、ペシャワール会代表の中村哲医師も、アフガニスタンの人たちに対して不満をいうことなく、自分たちの活動を続けていきたい、それが亡くなった伊藤くんの遺志を継ぐことになるという立派なコメントをされていました。

私もまた、亡くなったペシャワール会の伊藤氏、そして加害者である犯人にたいしても、魂に祝福がもたらされんことを祈りたいと思います。


参考:

福田高規
『エドガー・ケイシーの人生を変える健康法』
たま出版1993 (p.87)

光田秀 編
『賢者たちのメッセージ:エドガー・ケイシーに学んだこと』
PHP2006 (P.238-239)

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