2009年6月28日日曜日

ユトク伝を読んで





前から読みたいと思っていたチベット医学関連の本を最近やっと読み終えました↓



ユトク伝―チベット医学の教えと伝説 (岩波文庫)



ユトクはチベット医学の確立にかかわった医聖とも称される人物で、




享年は125歳(742-866)だったそうです。

同時代の人物としては、ティソン・デツェン王やゾクチェンの導師でもあるパドマサンバヴァ、大翻訳官ヴァイローチャナなどもでてきて

(空海の生没年も774-835ですから、ちょうど彼らと重なっているのです。これはとても興味深い点です)

面白かったのですが、

本の内容自体はユトクの出生前の家系に関わる話や、彼の伝説的な物語がほとんどで、

現代に生きる我々に生かせると思われるような記述はあまり見出せませんでした。


しかしそんな中で目を引いた個所がありました↓。

「われわれ医師は、患者の後生に役立つこともなすべきである。

だから死者を見送ることも、死にゆく人を迎えることもひつようなのだ。」
(p.423-424)

医者の役割は、確かに病を治すことですが、それでは病とはなんなのか

健康と病気をどこで線引きするのか、ということを考えたすと、とたんに分からなくなる難しい問題です。


前回書きましたが、は病気の症状の一つですが、

それでは体が病原菌に打ち勝つためにわざわざ体温を上げて熱を発しているのに、

それを下げることは治療と言えるのでしょうか。


それと同じことが病自体にもいえて、

病として表面にあらわれている状態を単になくしてしまうのが治療なのかといったら、

必ずしもそうではない場合もあるのではないかと思うのです。

ある場合においては、症状はそのままにしてでも、患者をやすらかに見送ることの方が大事な場面もあるのではないかと思うのです。

ユトクが行っていた医療は、単に病として表面にあらわれている症状を取り除くだけでなく、人間を全体としてみること、

そして人間の意識の永続性を視野に入れた、真の癒しだったのではないか、と思うのです。


現代の医療においても、ホスピスなど、単に病に打ち勝つことだけを目標としない医療が認められつつありますが、

やはり傾向としては、いかに病の症状をなくすか、というところに主眼がおかれているように思います。


ユトクの生涯を最後まで辿っていって感動したのは、チベットの偉大な聖者たちがそうであったように、

彼も虹の身体を得て逝ったということでした。

虹の身体に関しては、下の説明を読んでみてください↓




虹の身体(ジャ・リュ)を得るとは、死に際して、体の諸要素をその本源である光に溶け込ませてしまうことで、

あとには爪と髪の毛のみが残されるそうです。

このような死に方はつい最近までチベットにおいて報告されているそうです。興味のある方は、ページ下の資料を読んでみてください。


死に際して体を光に溶け込ませるのが虹の身体と呼ばれるものですが、もうひとつ「大いなる転移」と呼ばれるものがあり、

それは生きたまま肉体を自由に光の状態に変化させることができることだそうで、

このような状態を達成したのは、幾多の宗教的天才を輩出してきたチベットにおいても、

パドマサンバヴァヴィマラミトラだけだったそうです。


よくドラマなどで、私は~である前に人間である、といって人を救ったりする場面がありますが、

私たちは人間である前に光であるというのが真実なのかなと、こういう記述を見るにつけ思います。


だいぶ前に臨死体験者のダニオン・ブリンクリー氏の体験を紹介したりしましたが、

彼をはじめ多くの臨死体験者が向こうの世界で光の体験をしていることを見ると、

おそらく私たちの本質は光なのだろうなという気がします。


かつて人類は、地球は平らだと考え、太陽や星は自分たちのいるところを中心にぐるぐる回っていると考えていました。

しかし現在ふつうに生活していても、この見解をもったままで何の支障もなく生活できます

それでは支障がでるのはどういう時かというと、地球の裏側に行ったり、また宇宙に出たりする時で、

そのようなときに地球が平らであったり、宇宙の回転の中心が地球であるという世界観ではあまりに危なすぎます。


同じことがスピリチュアルの世界に関しても言えると思います。

私たちが生きている間だけがすべてであるなら、

べつに悟りがどうの、虹の身体がどうの、私たちの本質が光である、などといったことはどうでもいいことです。

しかし如何せん、私たちはこの体を離れ、この世から旅立たなければならない時が必ず来るのです。

おそらくその時に、少しでも向こうの世界に対する正しい知識があるかないかで、大きな違いが出てくると思うのです。

実際、ダニオン・ブリンクリー氏をはじめ、江原さんなど多くの霊能者と呼ばれる人たちも、その重要性を解いています。

少なくとも、死んだあとも意識が残るかもしれないなぁ~、という気持ちは持っていたほうがいいかもしれません。



さて、話がユトクのところから少し外れてしまいましたが、

最近はチベット仏教関係の本をあまり読んでいなかったので、久しぶりに読んでどこか新鮮さを感じました。

改めて最近のチベット仏教関係の本を調べてみると、知らないうちに下のような本が出ていたようです。



チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え






智恵のエッセンス―ボン教のゾクチェンの教え




これらはともにゾクチェンに関する著作なので、是非読まなくては、、、と思いました。




おしまい。




参考:

ユトク伝―チベット医学の教えと伝説 (岩波文庫)
中川 和也 (翻訳)
岩波書店 (2001/04)



チベットの精神医学―チベット仏教医学の概観 (単行本)
テリー クリフォード (著), Terry Clifford (原著), 中川 和也 (翻訳)
春秋社 (1993/12)


チベットの精神医学―チベット仏教医学の概観




チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え
テンジン・ワンギェル リンポチェ (著), Tenzin Wangyal Rinpoche (原著), 梅野 泉 (翻訳) 地湧社 (2007/08)


智恵のエッセンス―ボン教のゾクチェンの教え
シャルザ・タシ ギャルツェン (著), Shardza Tashi Gyaltsen (原著), Lopon Tenzin Namdak (原著), 森 孝彦 (翻訳), ロポン・テンジン ナムダク
春秋社 (2007/01)

ギャルツェン,シャルザ・タシ
1859年、東チベットのカム地方に生まれる。子供の頃より異常な才能を発揮し、9歳で僧になる。成就者テンジン・ワンギャルをはじめ24人のラマに師事し、密教やゾクチェン等を幅広く学ぶ。34歳で卍山に隠棲してボン教の修行に没頭。それ以後、終生、隠遁修行を続ける。その間、著作活動や弟子たちの指導を行い、1935年、76歳で虹の身体を実現して、遷化

ナムカイ・ノルブ リンポチェの著作

チョギャム・トゥルンパ リンポチェの著作


資料:虹の身体(ジャリュ)に関する記述

①ナムカイ・ノルブ著『虹と水晶』より







②ナムカイ・ノルブ著『ゾクチェンの教え』より



2 件のコメント:

ikte2 さんのコメント...

「体温を上げて熱を発しているのに、それを下げること」や
「いかに病の症状をなくすか」
を治療の主眼と思っている医者は、
まあ殆どいないと思います。

患者さんから求められるので行っていて、
対処療法といいます。

テレビで風邪薬は症状にあわせて!!!
などと毎日洗脳しているので
全く誤解され困っています。

彦兵衛 さんのコメント...

ikte2 さんコメント有難うございます。

そうですか、対症療法のほとんどは患者さんに求められてということが多いのですか。

私が今まで見聞きし、体験してきた限りでは、出ている症状に対してどう処置するかという方に重きが置かれているように感じていました。

私がここで述べたかったことの一つは、病を敵として単に排除しようとするようなアプローチの他に、

病をもう少しポジティヴなものとしてとらえる見方、人間の成長にとって必要なものとしてとらえる見方もあるのではないかということです。

本文では書きませんでしたが、チベット医学においては、そもそも人間として生まれてくること自体を病の状態ととらえているので、

彼らからすれば、悟っていない人たちはみな病の状態にあるそうです(笑)。

ではなぜ人は生まれてくるのか、病の状態にある人間は治療しなければならないのか、、、という諸々の疑問が出てきます。

そこまで視野を大きく広げる必要はないかもしれませんが、病だけにフォーカスを当てるのではなく、その人にとって学ぶべきひとつの課題が病として顕現していると見る見方もあるのではないかということです。

もうひとつは、このブログ内で繰り返し述べてきましたが、医学のあり方がもう少し予防医学の方にシフトすればいいなぁという思いから書きました。

そのことをもっとも端的に表現している言葉として、マッチ・ポンプということばを紹介しましたが、

http://mshiko.blogspot.com/2009/02/part3.html

病が症状として顕現する前にそうならないように対応するのが理想かなと私は思っています。

これは科学のあり方というより根本的な問題ともかかわっていて、

科学は常に専門・分化されていくという性質をもっているので、視野が狭くなりがちで、より大きな、本質的な視点が見過ごされる傾向にあることとも関係しています。

ここら辺のことは『乳がんと牛乳』の著者であるプラント博士がうまく表現しているので、読んでみてください↓

http://mshiko.blogspot.com/2009/03/part9.html

≫テレビで風邪薬は症状にあわせて!!!
≫などと、、

そうですね。胃薬などもまったくいい加減なものらしいですね。

動機が商業主義の方に傾くと、情報が容易に操作されてしまうように思います。食に関ても同じだと思います。

マクガヴァン・リポートのような報告がなされても、業界によってうやむやにされてしまうようなことが起こってしまいます。

http://mshiko.blogspot.com/search?q=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97

個人個人がちゃんと情報をひと通り見渡し、しっかり目を開いて、権威に惑わされることなく、何が正しいのか、何が大事なのかを判断する必要があると思っています。